4年前3
天候は刻一刻と悪くなっている。
行きに雨に遭わなければいいと思っていた俺は、上野の言うことを聞いておけばよかったと後悔しながら走った。
そして、その視線に気付いた。
いつものような下から見上げる卑屈なものではなく、上から見下すような殺意。
俺は多少戸惑いながらもそのまま走り続けた。
そいつは、人気がなくなったのを見計らって、俺の前に姿を現した。
無精ひげを生やした、薄汚れたコートを着た男だった。両手をポケットに入れ、はれぼったい目を俺に向けていた。
「秋葉、巧か?」
「あんたは?」
「俺はマニゴルドのエクスーシス、駒込だ。おまえ、ストゥレーガか?」
エクスーシスはマニゴルドの第6位だが、当時の俺が知る由もない。
「わかる言葉で話してくれ。なにが言いたいんだ?」
駒込と名乗った男は右手をポケットから取り出した。
その右手には拳銃が握られていた。見覚えがある。それは、1週間前に俺を襲った男が持っていたものと同種だった。
「銃弾をかわしたんだってな。俺にも見せてみろよ」
俺は気付いた。拳銃に乾いた血がこびりついていることに。それは、駒込のものではなかった。
「……拳銃の持ち主を殺したのか?」
「ああ、おまえのことを聞くのに金を要求されてな。黙って言うことを聞いていれば死なずにすんだのにな」
駒込はくつくつとくぐもった笑い方をした。俺はそのとき恐怖よりも嫌悪のほうが勝って
いた。
駒込を観察する。鍛えられているのは立ち居振る舞いでわかる。銃を差し引いても厄介な相手だった。
俺は時間稼ぎに駒込に話しかけた。
「ストゥレーガってなんだ?」
「害虫だよ。人類社会にはびこる、な。マイノリティでありながらマジョリティにたて突く、救いようのない屑どもだな」
と、そのとき駒込は俺から目を逸らし上を見た。雨が降ってきたのだ。
唯一の隙だ。俺は逃げ出した。ここからなら秋葉邸は近い。
「無駄だ!逃げ場所なんてねえよ!」
駒込は後ろから撃つこともなくそう言った。その意味はすぐにわかった。秋葉邸はまだ夕刻だというのに門が閉まっていたのだ。
「俺だ!開けろ!」
俺の怒鳴り声に対する反応はすぐに返ってきた。
「巧さま、門をお開けすることはできません」
声は門の内側から聞こえる。上野だ。
「上野?どういうつもりだ!」
「巧さまは本日を持って秋葉家とは関係がなくなりました。どうかご自由になさってださい」
「なんだと!」
「もし塀を乗り越えるようなことをなさるなら私が全力で排除いたします」
上野の強い口調に黙る。上野は言葉を続けた。
「お察しください。巧さまは秋葉家に害悪をもたらすものなのです」
親父が言ったのなら前言を撤回することもあるだろう。だが、上野が言った以上、それは絶対だった。
俺は初めて突きつけられたことの大きさに愕然とした。
「せめて状況を説明してくれ」
「できません。はやくここから立ち去りなさい。秋葉の家に害悪が及ぶ前に」
俺は一歩後ろに下がった。門のひさしから外れ、雨に濡れる。
そんな俺の肩を叩く右手があった。駒込だ。
「な、言ったろ?面倒かけさせないで大人しく死んでくれよ」
俺は拳銃を握っている駒込の右手を掴むと、思い切り投げ飛ばした。
駒込はとっさのことに反応できずに倒れる。
俺は拳銃を蹴り飛ばした。
「てめえ!」
立ち上がり殴りつけてくる駒込の顎に掌底を決める。
駒込は顎を押さえながらたたらを踏んだ。だが、顔は笑っていた。
「へへ、おしいな。まだ若いのにこれだけやれるんだから。ストゥレーガじゃなかったらスカウトするんだが……」
駒込は左手をポケットから抜くと、思い切り振り上げた。反射的に下がった俺の髪を数本散らす。
駒込の左手は、義手だった。
指先に刃物が付いている、シザーハンドってやつだ。
当時の俺は実戦の間合いを知らない。義手を振り回す駒込に圧倒された。
俺は状況を好転させるものを探して周囲を見渡した。俺の前、駒込の後ろに拳銃が落ちていた。
だが、駒込の義手をすり抜けて拳銃を拾うなど不可能だ。
「この後、この家の人間も皆殺しにしてやるよ。なあに、おまえという穢れを出した家だ。誰も文句は言わねえよ!」
俺は決心した。こいつは倒さなければならない。そのためにはこいつの義手を潜り抜ける必要がある。
そのためには、速く動かなくてはならない。
はやく、早く、速く!
そして、俺の時伏せは発動する。
その時できたのはコンマ以下の秒数だけだった。だが、駒込には俺が消えたように見えただろう。
駒込の義手は空を切り、俺はスライディングをするように駒込の下を潜り抜けた。
駒込は慌てて振り向いた。俺の手には拳銃が握られている。
「へ、当たりじゃねえか!ストゥレーガは地獄へ落ちろ!」
「うるせぞ、おっさん!」
俺は銃を撃った。銃弾は義手に当り弾かれる。
駒込は、俺に接近すると再び斬りかかってきた。
だが、そこはもう俺の間合いだ。
俺は義手を外に捌き、駒込に肉薄する。みぞおちに拳を叩き込み、顎に肘をぶつける。
よろけながらも、斬りつけてくる駒込に、俺は、練習でも喧嘩でもやったことのない、相手を殺すための投げを放った。
駒込を首から落とす。ぐき、と嫌な音を立てて駒込の動きは止まった。
荒い息を整えるために深呼吸する。
途端、むせ返り、吐血した。この時はまだわからなかったが時伏せの副作用だ。この時は呼吸が乱れているときに使ったから副作用も大きかったのだ。
「へへ、ストゥレーガ、人類社会にはびこる害虫。そのうち思うぜ、ここで死んでおけばよかったってな」
動けないのだろう、駒込は目だけを俺に向けて言った。
俺は拳銃を駒込に向けた。駒込はなお笑っている。
「殺せよ。いい経験になるぜ」
「ああ。おまえは俺の守りたいものに手を出そうとした。その落とし前はつけてもらうぜ」
俺は、引き金を引いた。
俺は、雨の降る天を仰ぎ、一度だけ、今まで守りたいと思っていた、そして、今まで依存してきた秋葉の門を見て、その場を後にした。