歴史準備室にて
放課後、俺は歴史準備室に向かった。
ノックをして部屋に入る。
「失礼します」
「ああ、秋葉くんか、どうしたのかな?」
歴史準備室には、目的の御茶ノ水先生と、もうひとり、意外な人がいた。馬場先輩だ。
「えっと、今日、授業ぶち壊したんで、謝っておこうと思って。どうもすいませんでした」
「いやあ、内容自体も脱線していたからね。気にすることはないよ」
「礼儀正しいのはいいことだわ」
そう言って湯呑み(どうやら自前らしい)からお茶をすする馬場先輩。
用件の済んだ俺は早々に準備室を後にしようとしたが、御茶ノ水先生に止められた。
「せっかく来たんだから一杯くらい付き合っていきなさい」
そう言ってお茶を出される。どうやらプーアル茶のようだ。
断るのも悪いし、この後予定があるわけでもない。俺はイスに座った。
「しかし、なんで馬場先輩がいるんです?」
「息抜きよ。授業が終わってすぐに生徒会室に行きたくはないもの」
馬場先輩は生徒会の仕事、それは黒金本部に送る報告書類も含まれているのだが、そのほとんどをひとりでこなしている。たまに恵比寿や新橋が手伝っているらしいが、部活に忙しい渋谷先輩や本能で動いているような岡地先輩がそんな面倒なことをやるはずもない。まあ、言われるまでは手伝わない正志や俺も人のことを言える立場ではないんだが。
来年馬場先輩が卒業したら、生徒会長は仕切り魔の恵比寿になるだろうが、そうするとこき使われるだろうなあ。
俺は歴史準備室を眺めた。
雑多な部屋だ。
本棚に入りきらない本が床に平積みにされている。
そこだけ区切ったかのように片付いている机の上には分厚い紙の束が置かれている。
俺は表題を読んだ。
「環境汚染レポート」。
「それ、国連の報告書ですか?」
「ああ、うん。ネットで転がっていたのを拾ってきてね。一応地理の一分野だから」
「底の浅いダーウィニストに言わせると、どんなに環境破壊が進んでも生き残る種は生き残り、進化する。むしろ種にとっての危機的状況は優性遺伝子を選別するために有効だってことになるらしいわ」
「適者生存の法則ですか?」
「そういえば、秋葉くんは知っているかな。今世紀の初めに文化人類学の学会である報告がされたんだ。それは、アフリカの国立公園にいる猿が槍を使って狩りをするというものなんだけど」
「いえ、初耳ですね。すごいじゃないですか」
「その発表者は、猿の集団一個一個にも文化はある、と発表したんだ。狩りの仕方にも相違性があるってね。だけど、それは猛反発にあった。文化人類学とは地域軸の文化の相違性を見る学問なんだ。それを時間軸にしたのが歴史なんだけど……と、逸れたね。ともかく、猿に文化を認めてしまうと、人間という種の優位性を維持できないと当時の人は考えたのかもしれないね。本来文化人類学はそういう考えとはもっとも無縁な学問のはずなんだけど」
悪魔狩りの頃から人間扱いされなかったストゥレーガとしては身に詰まる話だ。
「文化人類学、ですか?」
「うん。地理は大学では地質学や文化人類学に分化されるんだ。つまり、私の専門分野ってことだね」
「巧くん。あなたは差別の構造を知っているかしら?」
馬場先輩はいきなり話を変える。
「……いえ」
「まず差別をする多数派の差別者、差別をされる少数派の被差別者。そして差別を斡旋するプロモーター。このプロモーターは多くの場合少数派の権力者」
「少数派の被差別者、ですか?」
「権力者は自身への不満を逸らすために多数派の目を少数派の被差別者に向けさせるの。悪いのは私たちではなく、あの少数派だってね。つまり、差別は社会構造としては必然ってことよ」
「それ、本気で言っているんですか?」
俺は馬場先輩を睨む。馬場先輩は俺の眼光を微笑で受け流した。
「そういう見方もあるってことよ。マクロ的にはね。安心して。もちろん差別を肯定する気はないから」
馬場先輩はお茶を口に運んだ。
ちょっと気負ったか、俺は肩の力を抜いた。
「なにかをまとめるのに一番手早い方法は敵を作ることね。被差別者は権力者が集団をまとめるために、敵として選定されたとも言えるわ」
馬場先輩は隠喩にストゥレーガと12番戦争のことを仄めかしている。
「敵である社会悪になら差別してもいいってわけ、ですか?」
「正義のために、ね」
「正義ですか?そういえば今日の授業で触れてましたね」
「うん。今世紀初頭のアメリカの正義は金融資本主義、もっと平たく言うなら金満主義だね。小学校の授業の中で株の時間があるところもあったらしいよ」
「小学校で?」
「うん。結果は知っての通り実態のない投資によって膨張し、そして弾けたわけだけど、それにゴールドのパンデミックが起こり、宗教回帰が起こったわけだ。それで、正義は国家が定めるものではなく、各宗教が定めるものに変わってくるんだけど、当時からある世界宗教にパンデミック後にできた新興宗教、氾濫する各宗教それぞれに正義が存在してしまったんだな。それが正義の不在と言われる現在に繋がるんだ」
「よくわかりませんね。それって、結局どういうことなんです?」
それに答えたのは、御茶ノ水先生ではなく馬場先輩だった。
「現在が、テーマ性のない、混沌の時代ということよ。当時の人が猿に感じたように不確かな優位性に依存し、差別を肯定する、嫌な時代」
俺はプーアル茶を一口飲んだ。よくわからない味がした。