御茶ノ水先生の授業
「正義の不在というのは現代哲学における主題のひとつだけど、ここで、前世紀に覇権国家だったアメリカ合衆国の初等教育というものを話してみるね」
火曜の6限は御茶ノ水先生の地理だ。多民族国家の項でなぜか話は飛んだ。いつものことだ。
「アメリカ合衆国がなぜ多民族国家であるかというと前世紀まで積極的に移民を受け入れていたんだ。研究者の中にはそれがアメリカの国力を支える原動力であったとする人もいるくらいでね。インド系、スパニッシュ系、中国系。言語も文化もばらばらな移民たちの多くは英語すら話せない。その子供たちも当然英語を話せない。そこでアメリカの初等教育は英語を教えると共にもうひとつ重要な命題を課せられたんだ。それはアメリカ人をつくることだった」
ちらと横を見る。恵比寿は真面目に授業を受けていた。恵比寿が俺の視線に気付き、俺は慌てて反対を向いた。反対の男子は隣の男子と一緒に雑誌のグラビアを見ていた。
「桃花ちゃん、可愛いよなあ」
「ああ。本物のお嬢様らしいぜ。すげえよな。お嬢様でモデルだぜ。住む世界が違うよなあ」
グラビアは、俺の知っている女、東桃花のものだった。昔から実家の関連会社のCMに出ていたが、それからブレイクしたらしい。今では全国放送のバラエティ番組にも出ているらしい。
らしいというのはまったく興味がないからだ。たまに正志なんかが言っているので知っているに過ぎない。
俺は前を向き授業に戻った。
「本来、独自の生活習慣や倫理、つまりは文化の土壌によって民族というものは形成されるんだけど、多種多様な異文化を内包するアメリカで、しかもつい今アメリカ国民になったような移民たちの子供は特にそのような土壌を持ち得なかったんだな。そこでアメリカの初等教育ではアメリカ人とはなにか、アメリカの正義とはなにかを教えたんだ。民族ごとに存在する正義をまとめる必要があったんだね」
ざわざわと窓辺のやつらがなにやら騒ぎ出す。なんだ? うるせえな。
「お、おい。あそこにいるの、桃花ちゃんじゃないか?」
「マジで!なんで桃花ちゃんがいるんだよ!」
「なんかこっち来るぞ!」
騒ぎは次第に大きくなり、バカ共が窓辺に集まりだす。
「な、なに?どうしたの?」
「さあな」
騒ぎに乗り遅れた恵比寿が俺に聞いてくるが俺はそっけなく答えた。そして、3階の俺の耳にもよく聞こえる声が響いた。
「たくみー!隠れてないででてきなさーい!」
ぴくりと、俺の眉が動く。やってくれるじゃねえか。
「巧?うちのクラスの秋葉巧か?どういう関係だよ」
「また秋葉かよ!くそ!」
「生徒会で馬場先輩たちと仲良くしてるくせに!」
「秋葉、死ね!」
……俺、なんでこんなに恨み買ってるんだ?
「あ~、秋葉くん。なにやらご指名のようだよ」
「先生、授業中です。講義を続けてください」
「なに真面目ぶってるのよ」
なぜか不機嫌そうに恵比寿は俺を横から小突いてくる。
「秋葉くん。幸いもう時間も残り少ないから。それにこうなると授業にならないよ」
控えめながらも出て行けコールだ。
俺は仕方なく教室中の痛い視線に耐えながら校舎を出た。