あなたの居る場所にきちゃいました
7月4日午前8時30分・・・
ほたか壮201号室の水城涼真の部屋で目覚まし時計が鳴り響いた。昨夜、岩湧山から帰りはかなり遅くなったので、完全に寝不足でなかなか起きれない。しばらくすると外からバタバタと足音がすると201号室のドアが開いた。そして「お兄ぃーーーいい加減、起きや!!!」という大きな声が部屋中に響き渡った。その大声で目を覚ました水城涼真はすぐさま目覚まし時計の音を切って起き上がった。
この突然ドアを開いて大声を出したのは、水城涼真の妹、水城志帆であった。志帆は今年で20歳になる専門学生で、兄と違ってアウトドアに全く興味がなく、部屋で映画やドラマを見たり、時には学校の友達とカラオケやショッピングに行ったりするのが楽しいようで、今は美容師を目指している。見た目は茶髪のウェーブのかかったミディアムヘア、兄とよく似てつりあがった目に低めの鼻、小さな唇の小顔で身長は155センチ少しのスリム体型をしている。普段からオシャレやメイクに気を配っていて、男性から少しは人気があるという。
水城涼真「志帆、昨日は山で変な女性がいて大変やったんよ」
水城志帆「変な女性って、お兄ぃも人のこと言われへんくらい変やん!」
水城涼真「そうかもしれんけど、タレントの若宮朱莉って知ってるか?」
水城志帆「そんなん知ってるに決まってるやん!あかりんのことやろ?めっちゃ有名やん」
水城涼真「あかりんって・・・俺は知らんかったけど、その若宮朱莉が夜の山に登ってきたんよ」
水城志帆「ええーっ!?それ本物なん?」
水城涼真「マネージャーが迎えにきたくらいやから本物やと思うけど、とにかく酷い服装と装備やったからサポートが大変やったんよ」
水城志帆「だから昨日は遅かったんや?お兄ぃ、サインくらいもらってきたやろな?」
水城涼真「アホか!そんなもんもらうわけないがな。俺は芸能人とか全く興味がないんやで!」
水城志帆「でもなんであかりんが夜の山に登ってきたん?」
水城涼真「まあそれにはいろいろ事情があったんやけど、このことは他言無用やで」
水城志帆「誰にも言わんけど・・・お兄ぃ、いい想い出になったな!じゃあ、うちはそろそろ学校に行くわ」
そう言って妹の志帆は部屋を出て行った。
芸能人に詳しい人や、若宮朱莉のファンの人であれば、昨日の出来事はいい想い出になるかもしれないが、そんなことに全く興味のない水城涼真にとっていい想い出とは言えない。逆に若宮朱莉が無理をして山に行かないかという不安のほうが大きいかもしれない。どちらにしても、もう二度と会うことはないので、あまり気にしないでおくことにした。
午前10時20分過ぎ・・・
昨日の岩湧山で撮影した夜景写真の加工をしていると、水城涼真のスマホに着信音が鳴った。すぐさま電話に出てみるとアウトドアウォーカーの雑誌編集部の片瀬彩羽からだった。
水城涼真「片瀬さん、お疲れ様です。今ちょうど岩湧山の夜景写真の加工をしていましたが、どうかしましたか?」
片瀬彩羽「実は至急水城さんにお願いしたいことがございましてお電話させていただきました」
水城涼真「至急のお願いですか?」
片瀬彩羽「はい。今年はまだまだ梅雨が続くようでして、もう北海道の記事だけでは限界なのです。そこで梅雨の時期に楽しめる関西エリアのトレッキング情報の記事を早急に執筆していただけないでしょうか?」
水城涼真「早急というと納期はいつまででしょうか?」
片瀬彩羽「できれば二週間以内にお願いできないでしょうか?写真は3枚程度で文章量は1000文字程度で構いません」
水城涼真「そのくらいでしたら大丈夫やとは思いますけど、問題は取材日ですね。あまりにも雨量が多いと通行止めなどで取材に行けないこともあります。昨年撮影した写真を使ってもええんですけど、山は常に変化していますから、最新のものがええかと思います」
片瀬彩羽「どうしても取材に行けない場合は、最悪昨年の写真を使っていただくとして、ご執筆をお願いできないでしょうか?もちろん、それなりの報酬をお支払い致します」
水城涼真「わかりました。なんとかやってみます」
片瀬彩羽「無理を言って申し訳ありませんがよろしくお願い致します」
電話での通話を終えた後、水城涼真はパソコンで山の週間天気予報を調べた。天候があまりよくない時期でも山行を楽しめる場所といえば、関西では大峰山脈の行者還岳しか察しがつかなかった。歩行距離も短く、雨天時で登山道がガスっていれば最高のシチュエーションになる。しかも、この行者還岳の魅力についてはどの雑誌にも掲載されていない。それにバリエーションルートでありながら水城涼真は何度もこのルートを登っているので勝手知ったる場所でもある。
写真の加工を終え、次なる山行計画を立てていると時刻はすっかり正午を過ぎていた。昨夜の帰宅が遅くなったため、買い物などしておらず、冷蔵庫の中にもこれといった食材はなかった。水城涼真は「お昼は外食だな」と呟くと、スマホの着信音が鳴った。着信相手はこのアパートを管理する不動産屋の国見芳一であった。
国見芳一「お世話になっております。槙尾不動産の国見です」
水城涼真「お世話になっております、ほたか壮の水城です」
国見芳一「水城さん、入居を希望される方がいらっしゃるのですが、103号室は今も空いていますでしょうか?」
水城涼真「はい、103号室なら空いておりますが、内見にこられるのでしょうか?」
国見芳一「いえ、その入居希望者様は別件で既に内見をされたようで不要とのことです」
水城涼真「なるほど・・・」
国見芳一「あと、即入居希望とのことなんですが、それは可能でしょうか?」
水城涼真「即入居は可能ですが、簡単な部屋の掃除をしますので最短でも二日後になります」
国見芳一「承知しました。では、明後日の入居なら可能ということですね?」
水城涼真「明後日ですか?突然ですね・・・ところで入居される方はどんな方なんでしょう?」
国見芳一「すみません、肝心なことを言い忘れていました。入居希望者は20代の女性なんですが、詳細につきましては電話を切った後すぐに水城さんのほうへPDFを添付したメールさせていただきますので、ご判断していただければと思います」
水城涼真「では、メールを確認次第、国見さんのほうへお電話させていただきます」
国見芳一「お手数をおかけします。今回は急ぎの案件でもありますので、できるだけ早くにご連絡いただけますか?」
水城涼真「わかりました。では、メールをお待ちしております」
国見芳一「ありがとうございます。では失礼します」
電話を切った後、水城涼真はすぐさまパソコンのメールボックスを開いた。それから一分もしないうちに槙尾不動産からメールが届いた。添付されているPDFを開いて内容を確認してみた。入居希望者は本条明里、23歳、独身、職業は会社員、株式会社玉川エンタープライズの情報発信事業部に4年勤務、年収は280万円、保証人は本条真由美、45歳、職業は外資系企業の会社員、年収は700万円という内容であった。ほんの少し気になったのは年収280万円であれば、もっといいところに住んでも良さそうだが、とにかくこの契約書には何の問題もない。そして水城涼真は槙尾不動産の国見芳一に直接電話をかけて、この女性の入居を承諾すると伝えた。
その日の夕方、妹の志帆が住む202号室のドアが開く音が聴こえてきたので、水城涼真は202号室に繋がっているワイヤレスインターホンを鳴らした。しばらくすると201号室のドアが開いて、妹の志帆が「なんか用?」といって部屋に入ってきた。
水城涼真「突然やけど明後日、103号室に新しい入居者がくることになったんよ」
水城志帆「明後日っていきなりやな~どんな人が住むん?」
水城涼真「本条さんっていう23歳の女性なんやけど、明日中にサッとふき掃除だけはしとこうと思ってな」
水城志帆「明日は午後から空いてるから、うちがやっとくわ。それにしても本条ってどっかで聞いたことあるような・・・」
水城涼真「じゃあ志帆にお願いするわ。103号室の鍵も渡しとくな」
水城志帆「お兄ぃがやると雑やから・・・じゃあ、うちは今日疲れてるから部屋に帰るわ」
そういって水城志帆は202号室へと戻っていった。このほたか壮はかなり古いアパートだが、付近の物件に比べて家賃は安く、部屋も昔の六畳間の広さでありながら、数年前に畳からフローリングなど洋室にリフォームしているので、それなりに人気があり入居者の入れ替わりもあまりない。現在はほとんどの部屋に入居者がいるのだ。
7月5日の夜、拭き掃除を終えた水城志帆が103号室の鍵を返しにきた。
7月6日午前9時10分頃・・・
水城涼真のスマホから着信音が鳴った。知らない着信番号であったが、仕事上こういうこともあるので電話に出てみた。すると、配送業者の宮内という男性であった。
宮内「本日そちらの103号室に入居される本条様のお荷物を部屋に運びたいのですが、部屋の鍵を開けてもらうことは可能でしょうか?本条様は事情でどうしても到着がお昼過ぎになるとのことなので、なんとか先にお願いできないかとお願いされまして・・・いかがでしょうか?」
水城涼真「本当は本人立ち合いでなければだめなんですが、事情があるとのことであれば、わたしが立ち合います。ちなみにどのくらい時間がかかりますか?」
宮内「実はもうそちらに向かっていまして、9時30分前には到着します。運搬作業はベッドと小型のタンス、小さい化粧台の三つですので1時間ほどで終わります」
水城涼真「わかりました。では、到着後にお手数ですが201号室に来てください」
宮内「かしこまりました。ではもうすぐ到着いたしますので、よろしくお願いします」
それから間もなくして配送業者の宮内という男性が201号室にやってきた。水城涼真は103号室の鍵を開けると「では、作業が終わりましたら201号室に来てください」と言って部屋に戻っていった。そして、運搬作業が終わったと報告を受けた水城涼真は103号室の鍵を閉めると、さっさと自分の部屋へ帰っていき、パソコンで週間天気予報と天気図を見ていた。
次の取材場所は大峰山脈の行者還岳で決定しているが、取材日程が決まらない。寒冷前線が再び勢いを増し、週末にかけて土砂降りの可能性が高い。ところが、週明けの日曜日は梅雨前線が再び南下して降水確率も20%となっている。ねらい目は来週の日曜日から月曜日になる。そんなことを考えているうちに時刻は午後12時30分を過ぎていた。昼食の時間だが、まだお腹は空いていないのでインスタントコーヒーとコロッケパンだけを食べていた。
昼食を終えて登山の動画をみながらまったりしていると、窓の外から車のドアが開く音が聴こえてきた。こんな真昼間にこの周辺で車の乗り降りをする人がいるのは少し珍しい。それからハイヒールの音が階段を上がってきて201号室へ歩いてきているのがわかる。足音が止まると部屋のチャイムが鳴った。水城涼真は少し大きな声で「はーい」と言いながら急いで玄関のドアを開き、外に立っている女性を見て一瞬硬直した。
水城涼真「えええええええええええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!???」
若宮朱莉「本日より103号室に入居させていただく本条明里です。よろしくお願いします!」
水城涼真「えっと、ただ似ている人とかやなくて、若宮朱莉ちゃんやんな?」
若宮朱莉「若宮朱莉は芸名ですよ。わたし、涼真さんの居る場所へきちゃいました!!」
水城涼真「きちゃいました・・・やないよ!とりあえず俺の部屋に入ってもらってええかな?」
若宮朱莉「はい」
水城涼真は外で周りを確認すると、若宮朱莉を玄関に入れてドアを閉めた。そして部屋にある小さなテーブルの手前に座布団を敷き若宮朱莉に「そこに座って」と言った。水城涼真は新しいカップにインスタントコーヒーを注ぎ、若宮朱莉が座っているテーブルの前に「どうぞ」と言ってカップを置くと、テーブルの向かい側に座った。
水城涼真「なんとか冷静さを取り戻したわ。えっと、聞きたいことがたくさんあるんやけど、なんでこのアパートに引越ししてきたん?」
若宮朱莉「岩湧山に登った時、涼真さんに『今日のこともあって、決めました』と言いましたよね?」
水城涼真「それは覚えてるけど、それがなんで俺のアパートに引越しってことになるん?」
若宮朱莉「わたし、父が見ようとしていた景色とその魅力、命をかけてまで追い求めた理由を追及しようって心に決めました。しかし、それをするためには涼真さんが必要なのです!」
水城涼真「だからわざわざこのアパートに引っ越してきたんか・・・でも、他にもベテラン登山者はいっぱいおるんやから、俺でなくてもええやろ?」
若宮朱莉「この父の遺品である登山計画ノートを達成できるのは、山に対する考え方や目的が非常に父に似ている涼真さんしか考えられません!」
真剣な眼差しで訴えかける若宮朱莉の情熱は伝わってきたものの、水城涼真は突然のこともあって困惑していた。実はこの登山計画ノートに記載された山に関して、水城涼真はほとんど登っている。しかし、いづれも登山のことを何も知らない初心者を連れていけないという現実もある。
水城涼真「朱莉ちゃんの情熱は十分わかった。ただ、それはそれとして別のことを聞いてもええかな?」
若宮朱莉「はい」
水城涼真「東京でのタレント活動はどうするつもりなん?大阪に住むとなったら難しくなるんとちゃうの?」
若宮朱莉「それなら大丈夫です。東京でのレギュラー番組は終了しましたし、実は昨日、大阪の情報番組にレギュラー出演することが決まりました。少し残っている東京でのお仕事がありますが、それに関しては新幹線を利用します」
水城涼真「なるほどな。俺は芸能界に詳しくないけど、忙しいってことはわかるわ。あと、マネージャーさんは今回のことについて知ってるん?」
若宮朱莉「マネージャーは絶対に反対しますので話していません。あの、それは駄目でしょうか?」
水城涼真「俺には駄目かどうかなんて判断できんけど、人気タレントがこのアパートに住んでるってなると、あとあと大事になったりせんか心配なんよ」
若宮朱莉「そうならないように注意しますが、人気タレントってだけで世間から特別扱いされているのも辛かったりします。それに、わたしはもう帰る場所がありません」
水城涼真「俺は特別扱いなんてしてないし、一人の人間として見てるからそこは気にせんといて。それにこのアパートから出て行けとは言わんから!」
若宮朱莉「ありがとうございます・・・話を戻しますが、涼真さん、父の登山計画ノートの達成に協力していただけないでしょうか。そのためならわたし訓練でもなんでもします!!」
水城涼真「その意気込みはわかったんやけど、それについては改めて話をさせてほしい。あと、訓練もたしかに必要だけど、その前に登山を楽しむってことが一番大事なことやから!」
若宮朱莉「登山を楽しむ・・・たしかにそうですね」
水城涼真「じゃあ、103号室の鍵を渡すから、部屋の片づけやら着替えをして落ち着いたら、またここに来てもらってもええかな?」
若宮朱莉「はい。でも改めて何のお話をされるのですか?」
水城涼真「登山面接をしたい。まあ、俺の登山スタイルの説明と本当にやっていけるのかの確認やな」
若宮朱莉「登山面接ですか!?わかりました」
そうして水城涼真は103号室の鍵を渡した。若宮朱莉は登山面接とはどういうものなんだろうという疑問や不安を抱きながら103号室へと向かっていった。




