マスコミをふっとばして大普賢岳へ
12月2日午後20時前・・・
夕食を終えた水城涼真は珍しくパソコンでラジオを流していた。普段は絶対にラジオなんて聴かないのだが、先日登った檜洞丸について、天音琴美が生放送でトークするとのことで是非聞いて欲しいとお願いされたのだ。350mlの缶ビールを一口飲みながら放送がはじまるのを待っていると、ラジオから「ピッ、ピッ、ピッ、ポーン」という時報が鳴り終わると、エコーのかかった天音琴美の声で「天音琴美のあま~い夜」というジングルから音楽が流れて放送がはじまった。
天音琴美「12月2日午後20時を回りました。みなさん、こんばんは。女優の天音琴美です。いよいよ12月に入りましたが、いかがお過ごしでしょうか?・・・(中略)実はみなさん、先日、タレントの若宮朱莉ちゃんと2人だけで西丹沢の檜洞丸へ登ってまいりました!(パチパチパチ)ちなみに、若宮朱莉ちゃんとは富士山ロケの時にはじめてお会いして以来、お互いに登山が趣味だったということもありまして、プライベートでも仲良くさせていただいております。さて、あたし達2人だけの登山をした時なんですが、本当にいろんなことを体験しまして、今日の天音琴美のあま~い夜はその体験談トークを中心にお送りしていきます。・・・(中略)朱莉ちゃんはお天気や読図に詳しくなってて、よく勉強しているんだあって感心しちゃいました。あたしもね、読図は勉強してはいるんですが、まだまだって感じです。・・・・・・・・(最後へ)無事に駐車場まで戻ってきたときにですね、嬉しさのあまり思わず2人で抱き合って『やったぁ!』と叫びました。・・・」
ラジオ放送は2時間なのだが、そのうち約1時間、檜洞丸のトークをしていた。このラジオを聴いた水城涼真は「2人ともよくがんばったやん」と呟いた。ところがこの次の日に、このラジオ放送のリスナー達からSNSでたくさんの批判の声が投稿されることになった。
12月4日午前10時20分・・・
朝から執筆活動をしていた水城涼真は一息入れようと思いお湯を沸かしてコーヒーを飲もうとしていた時、突然外が騒がしくなってきた。そしてアパートの階段を上がってくる大勢の人の足跡が聞こえてくると、部屋のチャイムが鳴った。玄関のドアをあけると以前のスクープ騒動の時と同じようにマイクを持ったマスコミ関係者がどっと押し寄せてきた。
記者女性A「アウトドアウォーカーで有名な水城涼真さんですよね?わたくし、ニジテレビの佐藤と申します。先週放送された天音琴美さんのラジオの件について何点かご質問してもよろしいでしょうか?」
水城涼真「あのですね、こんな玄関先に押しかけられてもご近所迷惑になりますんで、アパートの入口まで移動してもらえませんか?そこで俺もご質問にお答えしますから」
記者女性A「失礼しました。では移動させていただきます」
水城涼真はダウンジャケットを着て、外へ出ると103号室に向かった。すると予想通り、若宮朱莉の部屋の前にもマスコミが押し寄せていた。水城涼真は「みなさん、ここやとアパートに住んでる住民に迷惑がかかりますので、アパートの入口まで移動してもらえますか。そこで朱莉ちゃんと一緒にご質問に答えますから」と大きな声で言った。そこにいたマスコミ関係者も「失礼しました」と言ってアパートの入口へ移動していった。
若宮朱莉「涼真さん、またこんなことになってしまってごめんなさい」
水城涼真「別にええけど何が起こってるん?」
若宮朱莉「先週、天音さんがラジオでわたしと2人で檜洞丸に登ったことについて、SNSで批判の声がかなりバズっているみたいでそのことだと思います」
水城涼真「またくだらんことで騒いでるんか。とりあえず、質問には俺が答えるから、朱莉ちゃんは最初のうち黙っとき」
そして2人は大勢のマスコミの前に立った。
記者女性A「改めまして、わたくし、ニジテレビの佐藤と申します。先日、女優の天音琴美さんと若宮朱莉さんが2人だけで登山をされたとのことですが、天音琴美さんがラジオの中でRさんにおススメされた山だとおっしゃっていました。このRさんとは水城さんのことではないしょうか?」
水城涼真「たしかに俺のことやと思いますよ。実際に檜洞丸を勧めたのは俺ですから」
記者男性A「カナデスポーツの村下です。檜洞丸は中級者から上級者向けの山だとお聞きしましたが、結構危険な登山になると知っていながらおススメしたということですか?」
水城涼真「その中級者から上級者向けっていう基準がよーわからんし、どんな登山でも常に危険と隣り合わせなんですよ」
記者男性B「毎朝放送の藪です。SNSの投稿にもありましたが、女性が2人だけで登山に行くことについて危険だとは思わなかったのでしょうか?」
水城涼真「それって完全に男女差別ですやん!別に女性だけで登山に行ってる人もたくさんいますし、さっきも言いましたが、どんな登山も常に危険はありますよ」
記者男性B「申し訳ございません。少し言い方を間違えました。わたしくしがお聞きしたかったのは、SNSで登山初心者の2人だけで少しレベルの高い檜洞丸に登るということは危険だと投稿されていましたが、水城さんは危険だと思わなかったのでしょうか?」
そこで水城涼真は息をのんだ。
水城涼真「まず、そないな批判をする人の多くは登山初心者やと思います。おそらく檜洞丸にすら登ったこともなくて、頭の中で勝手にイメージして『それは危険』やと言ってるだけのようにしか思えません。それと、みなさんが想像してる以上に朱莉ちゃんは読図や気象学なんかの知識も向上して登山技術も上がってます。さっき檜洞丸は中級から上級者向けやと言ってましたが、しっかり道標があって、登山道も整備されてる山なんで、俺らがしてる登山に比べたら初級レベルです。ですのでこのレベルの山であれば訓練を受けてきた朱莉ちゃんと登山に慣れている天音さんなら危険な場所もクリアできるしチャレンジできるやろうって思ったわけです」
水城涼真のその発言で一瞬場がシーンとした。
記者女性B「エレテレビの斎藤です。若宮朱莉さんの登山技術に関するご質問なんですが、水城さんにとってどのくらいのレベルだと見込んでいらっしゃいますか?」
水城涼真「そうですね、知識としてはある程度ですが読図と天気図を読むことができて、技術に関しては基本的なロープワークをマスターしていますんで、簡単な山岳救助はできるレベルですね。精神的な面ではちょっと慣れていないんですが、檜洞丸なら単独でいけるくらいにはなってますよ」
記者女性B「それは水城さんが若宮さんをそのレベルまで育ててきたということなんでしょうか?」
水城涼真「育ててきたっちゅーか、俺は基本的なことを教えてきただけで、あとは朱莉ちゃんの努力があってのことですよ」
記者男性C「芸能レポーターの宇佐美と申します。水城さんはこのようにおっしゃっていますが、若宮さんは実際どのように感じられましたか?」
若宮朱莉「正直に言いますと、今まで水城さんとご一緒してきた山に比べると簡単だったように思いました。道標はしっかりございましたし、登山道もよく整備されていましたので、ほぼ予定していた通りの山行となりました。ただ、今回に関しましては、いつも水城さんとご一緒して登山をしていたわたしと、いつも登山ガイドさんと一緒に登っていた天音さんが、自分達の力だけで山行工程にチャレンジするということもあって最初は不安があったのも事実です」
水城涼真「とにかく、みなさん。SNSで危険やとか言うてる連中は低レベルな登山者やと思いますし、ある意味、天音さんや朱莉ちゃんを見下してるようにも思えます。でも実際はそんな連中より朱莉ちゃんのほうが登山技術は上やろうし、普段、朱莉ちゃんがどんな過酷な登山をしてるかすらわかってないと思いますから、いちいちそんなの相手にして騒ぎ立てることやないです。わかったらさっさとお引き取りください」
水城涼真がそう言うと大勢のマスコミはその場から去って行った。
一方、東京都目黒区では・・・
天音琴美の住むマンションの前でマスコミが大勢きていた。
天音琴美「みなさんが思っている以上に、あたしや若宮朱莉ちゃんはそれなりに登山レベルは高くなっています。特に若宮朱莉ちゃんに関しましては、普段は今回の檜洞丸より過酷な登山をしながら訓練していますので、かなりの登山技術を要しています。それは彼女と一緒に歩いていて、まるで登山ガイドさんがいると錯覚したくらいのレベルです。今回、お騒がせさせたことやご心配していただきましたことにつきましては謝罪させていただきますが、どのような登山をするにしても危険はございますし、ご心配していただけるのは有難いのですが、機会があればまた若宮朱莉ちゃんと2人で登山に行きたいと思っております。あたしは登山を趣味としておりますし、登山技術を向上させていきたいと思っておりますので、みなさまから批判をいただいても、この考えを変えるつもりはございません。あたしからは以上となります!」
この発言を聞いたマスコミ関係者達は黙り込んでしまった。ここまでハッキリ宣言されてしまうと何も言えなくなってしまうのだろう。
12月4日午後22時15分・・・
仕事を終えて帰宅した若宮朱莉はシャワーを浴びようとしてバスタオルなどを出していた。その時、スマホからSNSの通話着信音が鳴った。着信相手は天音琴美だったのですぐに通話に出た。
天音琴美「もしもし、こんばんは。朱莉ちゃん、そっちも大変だったみたいでごめんね」
若宮朱莉「こんばんは。天音さんのほうこそ大丈夫でしたか?」
天音琴美「あたしは、何も悪いことはしていないし、また朱莉ちゃんと2人で山に登るってハッキリ宣言してマスコミのみんなが黙っちゃったから大丈夫だったよ」
若宮朱莉「こっちは涼真さんが先頭に立って、マスコミの対応してくださってさっさと追い返していただきましたから大丈夫でしたよ」
天音琴美「朱莉ちゃんとのスクープの時もそうだったみたいだけど、マスコミを追い返すって涼真さん強いよね」
若宮朱莉「そうなんですよ。涼真さんはマスコミ関係者を嫌っていますので、強く出てバシッと結論だけ言って追い返してしまうんです」
天音琴美「涼真さんは怒らせると怖いかもだね。それよりこれにめげずにまた一緒に山に登ろうね!?」
若宮朱莉「もちろん、また天音さんとご一緒したいです!こんなことどうってことないですよ」
天音琴美「ところで年末なんだけど、あたしは28日の午後から31日までオフになってるから、涼真さんに伝えておいてもらえる?」
若宮朱莉「はい。わたしは28日までお仕事ですが29日から31日までオフですので、またご一緒できますね!」
天音琴美「せっかくだから八経ヶ岳で一泊二日してもいいかも」
若宮朱莉「そういえば、涼真さんがせっかく天音さんが関西に来るなら、八経ヶ岳だけじゃなくてもう一日は別の山に登ろうかと呟いていました」
天音琴美「なるほど。予定は涼真さんにお任せするね」
そんな会話をしながら通話を切った。実は今回の騒動で批判の声は消えていったが、それとは別に天音琴美と若宮朱莉はプライベートでも仲の良い関係だということが世間に知れ渡った。このことがキッカケで若宮朱莉と天音琴美の2人が共演する登山ロケが少しずつ増えていくことになる。
12月5日午前9時30分・・・
朝8時に起床した水城涼真はコーヒーを飲みながら、奈良県川上村のライブカメラを見て積雪上状況を確認していた。実は週末の9日(土曜日)に若宮朱莉の父の登山計画ノートに書かれている大峰山脈の大普賢岳へ登る予定をしているのだ。12月2日と3日の登山記事をみたところによると、1cmほどの積雪があったようだったが、明日と明後日の川上村の天気は雨になっていて寒波が近づいている。今のところ9日の天気は晴れ時々曇りで川上村の気温も10℃になっている。積雪状況によって持って行く装備が変わってしまうのでギリギリまで慎重に検討しておく必要があるのだ。あらゆることを想定していると、部屋のチャイムが鳴ったので、水城涼真は「あかりちゃん?そのまま上がって!」と大きな声で言った。すると玄関のドアが開いてジャージ姿の若宮朱莉が「お邪魔します」といって部屋に入ってきた。
水城涼真「朱莉ちゃん、わざわざ朝早くから来てもらってごめんな」
若宮朱莉「いえいえ。えっと、大普賢岳のことですよね?」
水城涼真「そう。それの装備についてやねんけど、まだ見立てやけど山頂付近は30cmほど積雪があると思うんよ。だから6爪アイゼンと行者還岳の時に使ってたゲイターを持ってきてほしいんよ」
若宮朱莉「わかりました。そういえば天音さんから伝言があります」
若宮朱莉は天音琴美の年末の予定などを伝えた。
水城涼真「じゃあ、天音さんには28日の夜にでも大阪にきてもらって、八経ヶ岳は29日に登ろか。それでその夜は下市口のホテルに宿泊して30日は台高山脈の明神平に登って帰りは温泉に入って帰るって予定にしよ」
若宮朱莉「今からホテルを予約しても満室じゃないですか?それに天気もまだわかりませんよね?」
水城涼真「部屋は全然空いてると思うけど、素泊まり、一部屋でごろ寝になることは覚悟しといてって天音さんにも伝えといて!あと、どんな天気であろうが冬は登るから中止はないわ」
若宮朱莉「わかりました。その明神平ってどんな山なんですか?」
水城涼真「天気がよければ白銀の世界になるってことだけ言っとくわ」
若宮朱莉「白銀の世界・・・それはぜひ見てみたいですね!!」
その後、予想通り下市口にあるホテルの予約はとることができた。しかし、やはり一室しか空いておらず、素泊まりでごろ寝をすることになった。
12月9日午前5時30分・・・
見上げると曇り空が広がっていたが、水城涼真がアパートの入口まで歩いていくと、既に赤いソフトシェルジャケットに黒いトレッキングパンツ姿の若宮朱莉が待っていて「おはようございます」と挨拶をした。水城涼真は「おはよう。じゃあ樫田君も到着してるみたいやから駐車場に行こか」と言って2人は駐車場へ向かった。
駐車場には既に白いコンパクトカーが停まっており、運転席から樫田裕が出てきて「おはようございます」と言った。若宮朱莉は「樫田君、ちょっと久しぶりかな!?今日もよろしくね」と言った。樫田裕と水城涼真の車を入れ替えると、3人はそれぞれトランクに荷物を積み込み、若宮朱莉が助手席へ、樫田裕が後部座席へ座ると水城涼真は車を走らせた。
樫田裕「そういえば、日曜日やったかな!?朱莉ちゃんの登山のことがSNSでめっちゃバズってたね」
若宮朱莉「うん。そのことでマスコミまで家まで押しかけてきて大変だったよ」
樫田裕「たかが女の子が2人で登山したくらいのことで騒ぎすぎとちゃうって思ったわ」
若宮朱莉「たしかに今回はわたしも騒ぎすぎって思ってた」
樫田裕「批判的なやつのコメント読んだけど、単に羨ましいだけやないかって感じやったわ」
水城涼真「まあ、ちょっと登山をかじったことのある初心者に多いんやけど、朱莉ちゃんみたいな若い女の子の登山者を見下すやつが多いんよ」
樫田裕「特に芸能人やと見た目で判断されやすいですからね」
水城涼真「まあ、朱莉ちゃんは高度な訓練もしてきたし、そんなやつらより全然登山レベルは上やからな。俺らの登山仲間を舐めんなよって感じやわ」
樫田裕「ホンマですね!僕らのやってる登山ってそんじょそこらの登山者にはマネできませんからね」
車を走らせて一時間程経つと大峰に行くときのいつものコンビニに到着した。水城涼真は「もうさすがにおにぎりは冷たいから今日は大きめのカップうどんにしとくわ」と言った。若宮朱莉は「今日、彩葉ちゃんはいるかな!?」と呟くと3人は車を降りてコンビニへ入っていった。ところが、いつもの店員さん、つまり若宮朱莉の言う彩葉ちゃんは出勤していなかった。3人はさっさと買い物を済ませて車に戻ると15分程まったりと休憩していた。
午前7時20分・・・和佐又ヒュッテ(標高1150m)
国道169号線から林道に入って急坂を上がっていくと和佐又ヒュッテというキャンプ場に到着した。水城涼真は駐車場に車を停めるとすぐに管理棟へ行って駐車料金を支払った。そして和佐又ヒュッテのスタッフから積雪情報を聞いたところ、山頂付近は20cmから30cm程度の積雪があるとのことであった。その後、3人が登山準備をしていると時折雲の間から陽が差し込んでいた。ちなみにこれから登る大普賢岳は大峰山脈の名峰と呼ばれており、今回のルートは修験道の行場にもなっていて、険しい岩場や鎖場、梯子が連続するコースとなっている。
登山準備を終えた3人は大普賢岳登山口から入山していった。まずはなだらかな登山道を歩いていき、樹林帯の中に入ると和佐又のコルに到着した。本当はここで和佐又山に登ってもよかったのだが、雪の状態がよくわからなかったこともあり、時間があれば下山時に立ち寄ることにした。そこからなだらかな尾根の登りが続き、登山口から40分程経ったところで巨大な岩壁が現れた。
若宮朱莉「すごく迫力のある大きな岩ですね」
水城涼真「この付近は巨岩群になってて、昔、修験者が修行に利用してたんよ」
若宮朱莉「へぇー歴史がある岩なんですね」
水城涼真「まずこれがシタンの窟っていうねん」
シタンの窟を通過すると次に朝日窟という洞窟が現れた。若宮朱莉が朝日窟の洞窟に入ると「この中冷っとします」と言ってすぐに外に出てきた。そこからトラバースの鎖場を通っていくと今度は笙ノ窟という洞窟のある巨岩が現れた。3人は笙ノ窟の洞窟の中に入ってみた。
水城涼真「朱莉ちゃん、この水が美味しいからのんでみ」
若宮朱莉「ひゃー冷たいっ!けど本当に美味しいですね」
水城涼真「朱莉ちゃん、撮影してあげるからスマホかして。ちょうど洞窟の真ん中あたりに立っていてくれればええよ」
若宮朱莉「わかりました」
水城涼真は笙ノ窟の右手にある岩の上に登ると「朱莉ちゃん、こっち見て!」といって何枚かスマホで撮影した。そして水城涼真は笙ノ窟へもどって撮影した写真を見せて「こうやって撮影すると、この岩の迫力がわかるやろ?」と言うと、若宮朱莉は「すごい!本当ですね・・・」と頷いた。
笙ノ窟を後にして3人は進んでいくと最後に鷲の窟という巨岩が現れた。ここは見上げると岩壁が鷲のクチバシのようになっているか、そのように呼ばれているのかもしれないが本当のところはわからない。
午前9時20分・・・日本岳(標高1550m)
巨岩群を過ぎると岩場の登りになって日本岳(孫普賢)のコルに到着した。この付近から周囲の岩場が凍結している。
樫田裕「朱莉ちゃんもいることですし、今日は孫普賢、小普賢、大普賢と登ってやりましょうよ」
水城涼真「その予定なんやけど、ここまで岩場が凍結してると下りはロープださなあかんな」
若宮朱莉「えっと左が正規ルートで、右のピークが日本岳でしょうか?」
水城涼真「そういうことなんやけど、みんなここでハーネスとアイゼン、ヘルメット装着して!」
3人ともハーネスにアイゼン、ヘルメットを装着すると、一番手に水城涼真が日本岳のほうへ登っていった。残地ロープは途中で終わっており、その先からは180cmのスリングを木に設置して結び目を作っておいた。
水城涼真「じゃあまず朱莉ちゃんから登っておいで!6爪アイゼンやからつま先やなくて、しっかり踏み込みながら登ってこなあかんで」
若宮朱莉「わかりました。じゃあ、行きます!」
若宮朱莉は残地ロープを握り、特に凍結している場所は踏みつけるようにしながらゆっくりと登ってきた。そしてなんとか水城涼真のところまで登り詰めた。続いて樫田裕は慣れているのでスルスルと登ってきた。
スリングを回収すると、3人はその奥へ進んでいき日本岳(標高1550m)のピークに到着した。一応3人とも記念撮影をしたところでさっさと下ることにした。下りは木にロープをセットして30mのロープを垂らして懸垂下降の準備をはじめた。凍結した岩場の懸垂下降で直接日本岳のコルまで下るのだが、ここはさすがに水城涼真が最初に下っていった。次に若宮朱莉が下ることになったのだが、水城涼真は「6爪アイゼンやからつま先は使ったらあかんで!しっかり足を岩場にペタンと引っ付けながら下っておいで!」とアドバイスした。若宮朱莉は「はい!意識して下ります!!」と言って懸垂下降をはじめた。ところが、若宮朱莉はしっかり足で踏み込みながらの懸垂下降が上手くなっていたのか、スルスルと下っていくことができた。最後に樫田裕が懸垂下降をはじめたが、すっかり慣れていてさっさと下っていった。その後、水城涼真はロープを回収すると「みんな、ここからは凍結してるぽいからハーネスやアイゼン、ヘルメットを装着したまま進もう」と言った。
午前10時10分・・・石の鼻(標高約1600m)
日本岳のコルから先は連続した鉄製の梯子が続いていた。もちろん梯子の一部分は凍結しており滑りやすくなっていた。そして空を見上げると雲の隙間からだんだん青空がでてきた。長い階段を登った先に石の鼻という看板が立っており、樹林帯の向こう側に眺望の良い大きな岩があった。
水城涼真「ずっと小休憩ばっかりやったから、ここで20分程休憩しようか」
樫田裕「そうですね。この後小普賢も待ってますしね」
若宮朱莉「わたし、あの岩の上に登ってきます」
石の鼻の岩の上からは、先ほど登った日本岳(孫普賢岳)が正面に見えており、その向こう側に台高山脈が広がっている。右側にはわずかに八経ヶ岳や弥山も顔を出している。
若宮朱莉「どこを見ても果てしなく山が続いている感じですね。大峰だからこその景色のように思います」
水城涼真「そうやね。これこそアルプスとはまた違った魅力なんよ」
若宮朱莉「手前に見えてるピークってさっき登った日本岳ですか?」
水城涼真「そうやで!あと向こう側に広がってる山なんやけど、一番高くなってるところが大台ヶ原やな」
そんな話をしながら3人は岩の上でまったりとしていた。
午前10時40分・・・小普賢岳(標高1640m)
石の鼻から少し下って行くと小普賢岳のコルに到着した。この付近からはすでに積雪が10cmほどあって岩場にはつららがあった。水城涼真は「まだ雪も少ないし、この程度の斜面やったらロープはいらんやろ」と言った。
若宮朱莉「この上に登るんですか?」
樫田裕「孫普賢岳に登ったんやから、この小普賢岳にも登っておかなあかんでしょ」
若宮朱莉「どこにも登る道なんかありませんよ?」
水城涼真「道なんかあるわけないやん。無理矢理登っていくんよ。とりあえず、俺が先頭で登っていくからついてきて!」
水城涼真がルートから外れて樹林帯の中へ入っていくと、いきなり急斜面の登りがはじまった。とはいってもピークは見えているので距離的にはそんなに長くない。登りやすい場所をルーファイしながらジグザグのように登っていき、その後ろから若宮朱莉と樫田裕がついてきた。そしてピークに登り詰めるとわずかな踏み跡があり、そこを辿っていくと少し広くなっている場所に三角点がポツンと設置されており、その向かい側の木には”小普賢岳”と書かれた黄色い小さなプレートが立てられていた。若宮朱莉は「可愛いプレートね」と言いながら三角点とプレートをスマホで撮影していた。その後、3人はさっさと小普賢岳を下って正規ルートへ戻った。
ここから大普賢岳までは標高差約180mで距離も短いのだが、本格的な急斜面の登りがはじまる。連続する梯子と岩場や鎖場もでてきて、高度を上げるごとに積雪量も増えていった。さすがの若宮朱莉も少し息を切らしはじめて、途中で「立ち休憩いいですか?」といって息を整えていた。小普賢岳のコルから40分程経った標高約1700m地点まで登ったところで、トラバースルートになって登りはなだらかになった。この時点ですでに30cm前後の積雪量であった。
午前11時55分・・・大普賢岳(標高1780m)
3人は登り詰めると大峰奥駆道と合流した。稜線ではすっかり雪景色になっていて霧氷もあちらこちらに見える。そして奇跡的にも青空がでてきたのだ。樫田裕はカメラを出して霧氷を撮影しまくっていた。水城涼真は「さて、さっさと大普賢岳の山頂に登ってしまおうか」と言って登り始めた。山頂の手前の道はもはや霧氷のトンネルのようになっていて、樫田裕は「この霧氷のトンネル、最高のロケーションやないですか」と言いながらカメラのシャッタボタンを押していた。若宮朱莉は「これが霧氷のトンネルなんですね。わたし、こんなのはじめてみましたがとても綺麗です!」と言いながら登っていった。
そしてついに大普賢岳(標高1780m)の山頂に到着した。山頂には単独で登ってきた男性がいて「こんにちは」と挨拶すると、その男性も「こんにちは」と言ってすぐに弥山のほうへと下っていった。ちなみに大普賢岳からは山上ヶ岳や稲村ヶ岳、弥山から八経ヶ岳、西側には台高山脈の山々を望むことができる。
若宮朱莉「これが大峰の名峰、大普賢岳なんですね。眺望と雪景色がたまらなく素晴らしいです!!父はこの頂に立ってこの景色を見たかったのかもしれません」
水城涼真「いや、それだけやないと思う。まずこの大峰の名峰に登ったっていう達成感を味わいたかったってのもあると思う。それにもう一つ見たかったもんがあったと思うわ。それもちゃんと登山計画ノートに書いてたからな」
若宮朱莉「それってどこから見えるんですか?」
水城涼真「あとでそこに行くから、朱莉ちゃんの目で確かめたらええわ。さて昼食にしよか」
3人はザックからガスバーナーを出してお湯を沸かしはじめた。水城涼真が言ったように、おにぎりは冷たくなってしまうので、みんな大きめのカップラーメンやうどんを買ってきていた。その後、昼食を終えると樫田裕は撮影に没頭していたが、水城涼真と若宮朱莉はまったりしていた。気温は氷点下6℃にまで下がっており、3人ともだんだん体が冷えてきた。午後12時35分、水城涼真は「あまりにも寒すぎるから、ちょっと早いけど出発しよか」と声をかけた。待っていましたかのように3人はザックを背負って大普賢岳の山頂から弥山へ方向へ下って行った。
12時55分・・・水太覗(標高約1683m)から下り
大普賢岳のピークを下って大峰奥駆道と合流すると、なだらかな稜線を歩いていた。しばらくすると左手の大峰奥駆道から外れた場所に水太覗という看板が立っていた。3人はその水太覗のほうへ向かうと、その先は断崖絶壁になっており、眼下には高度感溢れるダイナミックな深い谷が広がっていた。
水城涼真「朱莉ちゃん、お父さんの登山計画ノートには、この水太覗まで来る予定まで書いてあったんよ」
若宮朱莉「こ、この迫力ある広大な深い谷の景色・・・すごい、すごすぎます!!!こんなのが見れるとは思っていませんでした」
樫田裕「僕もはじめてこの谷見た時は驚愕しましたからね」
若宮朱莉「わたし、今、こんな谷の上に立っているんですね・・・言葉を失っています。とにかくこの景色はすごすぎますよ!!」
水城涼真「お父さんが大普賢岳で何を感じて何を見たかったんか、左側の景色を見ながら頭の中を整理してみたらどない?」
若宮朱莉「左側の景色ですか?」
ちょうど水太覗から左側を見ると、大普賢岳と小普賢岳、日本岳(孫普賢岳)、その向こうに和佐俣山という順番でこぶのようになった山容が見えていた。
若宮朱莉「わたしは、あの日本岳と小普賢岳、そして大普賢岳と大峰の名峰を登ったわけですが、達成感がありました。そして山頂で大峰の山々を望む素晴らしい景色を見たあと、この水太覗の景色を見て、今、自分はとても高い天空のような場所に立っているんだと感じさせられました・・・そうか!今日体験して楽しかったことや感動したこと全てが大普賢岳なんですね。父が何を見て何を感じたかったのか共感できたように思います!大普賢岳は素晴らしい山だということを改めて認識しました!!」
水城涼真「朱莉ちゃん、一つ成長したな。前から言ってるけど、登山はまず楽しむことが基本前提で山頂に登るまでの過程も楽しまなあかん。大普賢岳はその過程を楽しめる山なんよ。でもそれは、朱莉ちゃんの登山技術が上がったからともいえるんやけどな」
若宮朱莉「今、それがすごくわかりました!あの、話は変わりますが、さっきからこの谷を撮影しているんですが、なんか迫力感がない写真ばかりになっちゃうんですよね」
樫田裕「写真でこの谷の迫力を伝えられへんのよ。これはもう実際に見た人の特権ってやつやわ」
若宮朱莉「そうなんですね・・・残念です」
水城涼真「さあ、そろそろ戻って下山しよか」
3人はそのまま大普賢岳のほうへ戻っていったが、帰りは大普賢岳のピークを巻く道を利用して大峰奥駆道出合のところまで戻ってきた。そこから小普賢岳のほうへ下って行きながら水城涼真は「梯子は滑りやすいから注意しながら下ってな」と言った。そして大峰奥駆道出合から30分程で小普賢岳のコルまで下ってきた。時刻は既に午後14時10分になっていたが、日没まではまだまだ時間があるので、そこからはゆっくりと日本岳のコルを経て約1時間弱で和佐又のコルまで戻ってくることができた。
午後15時15分・・・和佐又山(標高1344.1m)
和佐又のコルまで戻ってきた水城涼真は日没まではまだ十分に時間があり、少し消化不足でもあったので和佐又山にも登っておこうと決めた。水城涼真は「まだ時間はあるから和佐又山にも登っとこか」と提案した。他の2人もまだ体力に余裕があったので、その提案に応じた。和佐又のコルから和佐又山での登りは凡そ標高100mの登り、30階建てのビルに登るレベルだ。少し急斜面の登りになっているが、3人はさっさと登って行き20分程で和佐又山(標高1344.1m)の山頂に到着した。山頂からは大普賢岳の山容がよく見えている。
若宮朱莉「わたし達、あの山の頂上にいたんですよね。なんだかここから見ると信じられませんね」
水城涼真「そうやね。そう考えると人間の足ってすごいって思うんよ」
若宮朱莉「たしかに・・・」
水城涼真「まあ、ここはオマケで来たようなもんやからちょっとまったりしたらさっさと下ろか」
樫田裕「下りはこっちの登山道を使うんですか?」
水城涼真「いや、そっちは登山道が長いから、和佐又のコルに戻ってキャンプ場経由で戻ろうかと思ってるんよ」
若宮朱莉は大普賢岳の山容を見ながら心の中で「わたし、今日、ついに大普賢岳に登ったよ。お父さんがこの山で何を見て何を感じたかったのか、何を楽しもうとしていたのかちゃんと理解できたよ。これでまたお父さんと一つ共感できたと思う・・・」と呟いた。
午後16時・・・和佐又ヒュッテ(標高1150m)
3人は和佐又のコルへ戻ってそこから登山口を抜けてキャンプ場を歩き、和佐又ヒュッテの駐車場まで戻ってきた。水城涼真は和佐又ヒュッテのスタッフに下山したことを報告して、3人は車のトランクへ荷物を積み込むと車に乗り込んで帰宅していった。
今回の大普賢岳の山行で若宮朱莉は”登山の過程も楽しむ”という新しい発見をしたといえる。その楽しみ方に気づいていないと、これからの水城涼真やその登山仲間達との登山はできないのだ。




