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無事に双門ルートをクリアしたよ

10月28日午前3時30分・・・


いよいよ関西屈指の最難関ルートといわれる双門ルートに行く日になった。水城涼真はこれで四回目なのだが、若宮朱莉の父がこの双門ルートで命を落としているということもあって朝から気を引き締めていた。また、これほど朝早くから出発するのは10時間以上という長い工程になりそうだと予想しているからである。今回は狼平避難小屋で宿泊するということで、テントは持って行かずシュラフとシュラフマットはザックに入れており、ヘルメットやハーネスなどのギアも用意している。玄関を出てアパートの入口まで歩いていくと103号室のドアが開いて若宮朱莉が出てきた。


若宮朱莉「涼真さん、おはようございます」

水城涼真「朱莉ちゃん、おはよう。いよいよ今日やね」

若宮朱莉「なんだか別の意味でドキドキしています。わたし、本当に行けるのでしょうか?」

水城涼真「今の朱莉ちゃんやったら行けるよ。工程は長いんやけど最後まで気を緩めたらあかんで」

若宮朱莉「はい!」

水城涼真「もう駐車場に樫田君が来てるみたいやから行こか」


駐車場まで歩いていくと白いコンパクトカーから樫田裕が出てきて「おはようございます」と言った。若宮朱莉は「樫田君、今日もよろしくね」と言った。駐車場で樫田裕と水城涼真の車を入れ替えてトランクに荷物を積み込むと若宮朱莉が助手席に座り、樫田裕が後部座席に座ると車を走らせた。さすがに寝不足だったのか若宮朱莉と樫田裕は眠っていた。それから一時間程車を走らせると大峰に行くときいつも立ち寄るコンビニに到着した。今日は朝早すぎるのでいつもの店員さんと呼んでいた彩葉ちゃんはいない。3人は行動食とおにぎり、カップラーメン、水を購入してさっさと車に戻った。



午前5時50分・・・熊渡


双門ルートの入口ともいえる国道309号線の熊渡という橋が架かっている場所に到着した。ここは路肩が広くなっていて既に一台の車が駐車されていたが、その車の後ろに水城涼真の車を駐車した。3人はハーネスを装着してヘルメットをかぶって登山準備を終えると橋を渡り、柵を超えて林道へ入った。天気はすこしどんよりしていて、山の上はガスっている。降水確率は20%と低かったが山の天気はわからない。


水城涼真「何回歩いてもこの林道歩きは嫌やな」

若宮朱莉「この林道って嫌な道なんですか?」

樫田裕「この林道めっちゃ長くて歩いてると怠くなってくるねん」

水城涼真「林道終点まで40分くらい歩かなあかんからな」

樫田裕「ずっと景色も変わりませんし、ほんまこの林道嫌ですわ」

若宮朱莉「わたし、はじめてなのでよくわかりませんが40分は長いですね」


それからしばらくテクテクと林道を歩いていた。この林道はひたすら砂利道になっていて非常に歩きにくく、全く景色の変化がないので水城涼真や樫田裕が嫌っているのだ。林道を20分程歩いていると若宮朱莉が「終点はまだですか?」と聞いてきた。水城涼真は「まだ半分くらいしかきてないで」というと若宮朱莉が「まだ半分なの・・・」と呟いた。ひたすら林道をあるくこと40分程すると林道の終点である弥山川・金引橋分岐に到着した。


水城涼真「やっと林道の終点やな。まずは左の弥山川のほうへ行くんやけど、帰りはこっちの金引橋のほうから下ってくるから」

若宮朱莉「この林道長すぎます!わたしも歩いていて嫌になりました」

樫田裕「あははは、こんな林道好きなやつおらんよ。ちなみに帰りも歩かなあかんのやで」

若宮朱莉「えぇー帰りも歩くんですか・・・」

水城涼真「じゃあ弥山川のほうへ行こか」



午前6時55分・・・白川八丁~釜滝


弥山川のほうへ下っていくと白川八丁という川原に到着した。ここは白い岩が大半を占めており、弥山川の水が岩の下や隙間などに潜り込んでいて、まるで地下に水が流れている不思議な場所である。


若宮朱莉「ここは沢の水が流れていないみたいですが、それにしては冷っとしますね」

水城涼真「地下というか岩の下に水が流れてるから気温は低いんよ」

若宮朱莉「なんだか不思議な場所ですね」


それから20分程弥山川を遡行していると水流が復活してきて、さらに進むと釜滝という小滝が見えてきた。ここから左手の山に少し登って本格的なアスレチックルートがはじまる。今日は雨上がりということもあってガレ場や梯子、橋などが少し濡れている。苔のあるガレ場を注意深く登って行くと鉄製の橋が現れた。この鉄製の橋はもはや古くなっており、途中途中で底が抜けているところがある。まずは水城涼真がその橋を渡っていき「朱莉ちゃん、かなり滑りやすいから注意して渡ってきてな」と言うと若宮朱莉は「わかりました」と言って足元に気を遣いながらゆっくり橋を渡った。最後にこういうことに慣れている樫田裕がスルスルと渡ってきた。

続いて木道の橋が現れて水城涼真が最初に渡っていると、後ろから若宮朱莉が渡ってきた。そこで水城涼真が途中で立ち止まって「朱莉ちゃん、この橋の木も腐ってるから一人一人渡らなあかんのよ」と言うと若宮朱莉は「そうなんですか、戻ります」と言った。ちなみに右側の沢をみると大峰ブルーともいうべき透き通った綺麗な水が流れていた。そしてその木道の橋を一人一人渡り終えると今度は苔のある岩場のトラバースとなった。ところどころに残地ロープが設置されているが、あまり信用できるものではない。


水城涼真「ここはかなり滑るから斜め上に登りながらトラバースしていくのがええ。残地ロープはあくまでバランスをとるだけで信用しきったらあかんで」

若宮朱莉「わかりました。苔があるところは避けるようにがんばってみます」

樫田裕「ほいじゃあ僕が先行きますわ!」

水城涼真「樫田君、注意して行ってな」


樫田裕は残地ロープを掴むとできるだけつま先で歩かないように斜め上に登っていき、への字を描くようにトラバースをして岩場を通過した。その次に若宮朱莉が同じように斜め上に登っていくと途中で「ここから斜め右に下っていくんですよね?ちょっと怖いです」と言った。すると樫田裕が「朱莉ちゃん、そこからはあんま滑らへんから苔に注意しながら下ってくればええよ」とアドバイスをした。若宮朱莉は恐る恐る斜め右へと下って行き、なんとか岩場を通過した。最後に水城涼真がトラバースをしていったが、もうすっかり慣れているようでスルスルと岩場を通過した。その後は斜めに傾いた鉄製の橋を一人ずつ渡っていき沢筋に下りて小休憩をとった。


沢筋を歩きながら何ヵ所かを渡渉して遡行していくと連続する岩の登りになった。岩の登りに関しては簡単なところもあったが、少し苦戦したところもありながらなんとかクリアして遡行を続けていった。



午前9時10分・・・一ノ滝と二ノ滝


沢筋から右手の山道に入って腐った鉄製の梯子を登ったり木道の橋を渡って先に進むと吊り橋が見えてきた。そして山道を抜けると一の滝(落差約30m)と二の滝(落差約20m)の二段になった滝の前に出てきた。ここは岩場の上で広くスペースがあるため、ここで大休憩する登山者も多い。


水城涼真「一ノ滝まで予定通りにこれたから、ここで40分の大休憩しよか」

若宮朱莉「こんなところに滝があるなんて、やはり大峰って奥深いですね」

水城涼真「まあここは普通の滝やけど、もっと先に神秘的な滝があるんよ。それよりここで行動食とって水分補給しときや」

樫田裕「涼真さん、昼食はどこでとる予定ですか?」

水城涼真「ザンキ平の肩くらいがちょうどええかなって思ってるんやけど、あとは予定通りに行けるかやな」

樫田裕「双門ルートは時間が読みにくいですもんね」


そこで若宮朱莉が一ノ滝を眺めながら饅頭を食べていると突然「涼真さん、涼真さん!」と呼びかけた。


水城涼真「どないしたん?」

若宮朱莉「そこの岩から滝の上まで登ったら100万円差し上げますと言ったら挑戦しますか?」

水城涼真「樫田君、朱莉ちゃんが100万円くれるんやって!このくらいの岩やったら余裕やから登ってこよかな」

樫田裕「あはは、そないに目を輝かせんでもええじゃないですか!朱莉ちゃん、貯金なくなるで?」

若宮朱莉「冗談ですよ!涼真さん、本気で登りそうだからドキッとしました。えへへ・・・」

樫田裕「でも朱莉ちゃんやったら100万円くらい安いもんとちゃうの?」

若宮朱莉「そんなことないよ。わたしは売れっ子のアイドルじゃないし、事務所に所属してる身分だからそこまで稼げてないの」

樫田裕「それやったら歌手でも目指したらどない?」

水城涼真「とてもやないけど朱莉ちゃんに歌手は無理や。一緒にカラオケ行ったけどリズム感がなさすぎる」

若宮朱莉「わたし、歌うの本当に苦手なんですよ。涼真さん、英語の歌がめちゃくちゃ上手でしたね。もしかして英語を話せるんですか?」

水城涼真「中学生レベルの英語なら話せるけど、そんな流暢にはしゃべれんよ」


そんな話をしながら休憩時間の40分が経過した。3人は吊り橋を渡り一ノ滝、二ノ滝を巻く登山道を登っていった。ここは急斜面になっており、ペース配分を間違えると一気に息切れしてしまう。鉄製の梯子を上がっていき二ノ滝の上部まで登ると、さらにその上にある三ノ滝が見えた。若宮朱莉は「二ノ滝の上にまだ滝があったんですね」と言った。その先からはちょっとした梯子や鎖場が連続する。それを通過すると長い鉄製の梯子が連続する。この付近の梯子はほぼ垂直なので足を踏み外すと命はない。梯子を上りながらどんどん高度があがってきたところで今度は断崖絶壁の崖の登りになった。この崖には鎖が取りつけられており、距離も短いものの滑落したらもちろん命はない。そんな崖であるがここだけ唯一景色が良くて稲村ヶ岳など大峰の山々を望むことができる。


若宮朱莉「さすがにここはちょっと怖いです」

水城涼真「ちょっとの距離やから下みんとしっかり三点支持を意識して登ればすぐ終わるよ。ホンマは双門ルートを下るのはあかんのやけど、仕方なく俺ここ下ったことあったんよ。その時ちょっと怖かったけど意外にいけるもんやで」

若宮朱莉「そうなんですね。じゃあここはわたしが先に登ってもいいですか?」

水城涼真「ええよ。怖いからって焦らんとゆっくり登っていき」


そう言って若宮朱莉は恐る恐る鎖を持ちながら崖を登っていった。意外と簡単に登れた若宮朱莉はホッとした表情で「思ったより早く登れました」と言った。その後、水城涼真と樫田裕はスルスルと崖を登っていった。



午前10時40分・・・仙人嵓前のテラスと巌の双門


沢筋から外れて山道を歩いていくと日本の滝百選の中で最も難易度が高いとされている双門の滝(落差約70m)が望める仙人嵓前のテラスに到着した。


水城涼真「仙人嵓前のテラスまでも予定通りにこれたみたいやから、ここで20分だけ休憩しよか」

若宮朱莉「すごく神秘的な滝が見えますが、あれが双門の滝ですか?」

水城涼真「そう。なぜかこんなところの滝が日本の滝百選に選定されてるんよ」

若宮朱莉「こんなところまで双門の滝を見に来る人がいるってことですよね」

樫田裕「滝マニアはどんなところでも行きますからね」

若宮朱莉「涼真さん、今度こそですが、あの滝壺まで行ったら百万円差し上げますと言ったらどうします?」

水城涼真「どうしますもなにも、俺、前に双門の滝壺まで行ってるし、あっちゃんは滝壺に飛び込んでるから」

若宮朱莉「えっあの滝壺まで下りていけるんですか!?涼真さんって本当にとんでもないことをしてるんですね」

樫田裕「朱莉ちゃん、涼真さんのことまだ理解できてないわ。この人、行きたいと思ったらどんな手段でも使うから」

水城涼真「今日は時間がないから双門の滝壺には行かんけど、意外と簡単に行けるで。まあ急斜面の登り返しが地獄やったけどな」


そんな話をしているとすぐに休憩時間の20分が過ぎた。仙人嵓前のテラスを後にした3人はそのまま登山道を標高50m程登っていった。すると右手に「弥山の山を愛し、弥山の山にかえる」と書かれた慰霊のプレートがあった。そこで水城涼真は「ここからちょっとだけ寄り道するから着いてきて」と言って、慰霊プレートから斜め左上、梯子の手前の森の中へ入っていった。その森の手前の木には薄い黄色のテープが巻かれているのだが、普通に歩いていると見落としてしまうレベルのものである。森の中に入ると左斜面の木にぐるぐる巻きにされているワイヤーがあちこちにあり、そのままトラバースしていくと大きな倒木がある。そこを左に折れて少し斜面を下って行くと迫力ある凱旋門のような岩があった。それこそまさに巌の双門とよばれる神秘的な巨岩である。


水城涼真「これが巌の双門やで!樫田君ははじめてやったな」

樫田裕「これが巌の双門ですか!?すごい迫力ある岩ですやん」

若宮朱莉「この岩すごいですね!それにここって誰もいないせいか、神秘的な雰囲気がします」

水城涼真「朱莉ちゃん、撮影したるからスマホ貸してみ」

若宮朱莉「はい。えっとどの辺りに立てばいいですか?」

水城涼真「岩の目の前まで下っていって、穴の真ん中で立てばええ」

若宮朱莉「じゃあ、お願いします!」


若宮朱莉が岩の目の前まで下っていって真ん中に立つと水城涼真は何枚か撮影した。


水城涼真「何枚か撮影したから確認してみて」

若宮朱莉「はい・・・うわぁーよく撮れてるじゃないですか。これスマホの待ち受け画面にします!」

水城涼真「まあ誰かが見てもどこで撮影してるんかわからんやろうけどな」

樫田裕「あははは、ホンマですね!」


樫田裕も何枚か巌の双門を撮影すると3人は双門ルートへ戻った。それからさらに標高50m程登っていくと道標が立っているザンキ平の肩に到着した。ここで時刻は午前11時50分になっていた。


樫田裕「ここで昼食をとります?」

水城涼真「ずっと行動食をとってからな。それにここから上はまだガスってるみたいやから先に迷ヶ岳をピストンしてからでええんちゃうかな」

若宮朱莉「迷ヶ岳ってたしか父がヘッドライトを落としていた場所ですよね?」

水城涼真「そうやで。お父さんよー迷ヶ岳なんて知ってたわ」

樫田裕「じゃあさっさと迷ヶ岳に登りましょか」

若宮朱莉「でもこの上って登山道なんてありませんよね?」

水城涼真「登山道なんてあるわけないやん。ここから無理矢理登っていくんよ。まあ急斜面でもないし40分ほどで登れるからさっさといこか」


3人は少し休憩をとるとザンキ平の肩から道なき尾根道を登っていき、とうとうガスの中へと入っていった。



午後12時45分・・・迷ヶ岳(1695m)


ザンキ平の肩から40分程尾根を登って行くとすっかり色づいた樹林帯に囲まれたピークが見えた。その樹林帯の中に入ると、そこはひっそりとした雰囲気と完全にガスっていて辺り一面が大苔地帯になっており、まるで別世界に来たかのような錯覚を起こしてしまう。ちょうどピークとなっている小さな岩の上に迷ヶ岳と薄いマジックで書かれたプレートが一枚だけ置かれていた。その景色を見た若宮朱莉は目を大きく開いて言葉を失っていた。


水城涼真「朱莉ちゃん、ここが迷ヶ岳やで!ヘッドライトはその辺に落ちてたんよ」

若宮朱莉「な、なんですかここは!?なんて神秘的な場所なんでしょう・・・こんなところがあったなんて、すごすぎます!!!」

樫田裕「僕もはじめてきた時はびっくりしたよ」

若宮朱莉「ここ関西ですよね?こんなの屋久島じゃないと見れないと思っていました」

水城涼真「まあここは大峰でもかなり奥深いところにある山やからな。人もほとんど入り込まへん大自然の秘境の地かな」

若宮朱莉「この静寂な雰囲気も他ではなかなか味わえないのかもしれません。なんだかまた父と共感できたように思います」

樫田裕「僕、今回も撮影しときますわ」

水城涼真「ここの苔、ちょっと触ってみるとわかるんやけど、すごいフワフワしてて柔らかいんよ」

若宮朱莉「本当だ。苔のベッドができそうな感じですね」


3人は何枚か撮影をした後、ザンキ平の肩へ下っていくことにした。若宮朱莉は下りながら「なんだか名残惜しい気持ちです」と言っていた。そして時刻13:30にザンキ平の肩まで下ってきた。


水城涼真「ここで40分の大休憩をしよう。昼食もここでとってね」

若宮朱莉「ここからはどういうルートになるんですか?

水城涼真「ここまでせっかく登ってきたけど、今度は下って行くんよ」

若宮朱莉「えーせっかく登ってきたのに勿体ないですね」


3人はバーナーを出してお湯を沸かして大きめのカップラーメンにおにぎり2個をザックから出した。そして昼食を終えて休憩時間の40分が過ぎるとさっさと出発した。ザンキ平の肩からは梯子やちょっとした急斜面の下りになっている。そして沢筋まで下ると、ここで対岸に天川川合ルートへのエスケープルートがある。ただし、このエスケープルートに踏み跡などはなく無理矢理登っていくしない。



午後15:00・・・河原小屋跡


沢を下ってそのまま遡行していると対岸側の土砂崩れによって大量の大きな岩が弥山川を塞ぐくらいに崩落している場所に到着した。ここにはかつて避難小屋があったのだが、2011年に起こった紀伊半島大水害により流されてしまったという。


若宮朱莉「酷い土砂崩れの後ですね」

水城涼真「ここには以前、避難小屋があったんやけど、この土砂崩れによって流されたらしい」

若宮朱莉「こんなところに・・・自然の災害って恐ろしいですね」

水城涼真「大峰の周辺はこういうことがよくあるねん。道路が通行止めになったりもするから毎回注意してるんよ」

樫田裕「奈良県もよく毎回対応してるって思いますわ」

水城涼真「もうあと一時間ちょっとで狼平やからもうちょっとがんばろか」

若宮朱莉「はい」


3人はそのまま弥山川を遡行していった。



午後16:10・・・オーバーハング鎖ハシゴと空中回廊


弥山川の遡行も終盤にさしかかった頃、いくつかの岩を登りながら遡行を続けた。そして大きな岩場の上に立つと巨岩に鎖の梯子がかかったオーバーハング鎖ハシゴとその向こう側に岩に鉄の棒が何本か刺してある空中回路が見えた。


水城涼真「朱莉ちゃん、ついにオーバーハング鎖ハシゴと空中回廊に到着したで」

若宮朱莉「ここで父は滑落したんですね・・・なんだか複雑な気分です」

樫田裕「僕、さきに行きますので涼真さんは朱莉ちゃんと少し話しといてください」

水城涼真「あっごめんな。じゃあ樫田君先に行って待っといて!」

樫田裕「じゃあ行きますわ」


樫田裕はオーバーハング鎖ハシゴをスルスルと登っていくと、鎖を持ちながら落ち着いて空中回路を歩いていった。


若宮朱莉「涼真さんが先日言ってた、父が犯した最大のミスとは何でしょうか?」

水城涼真「空中回路は鎖を持ちながらゆっくり行けば滑落するようなところでもないんやけど、お父さんはここで気が緩んでしまってついつい油断してしまったんよ。それに間もなく狼平に到着するんやけど、このあと一歩ってところで気を緩めてしまって山岳事故を起こす人が多いねん。でもこれって別にお父さんの山岳技術がどうのって問題やなくて、これからの俺らも絶対に気をつけんとあかんことやな」

若宮朱莉「涼真さんがよく言ってる登山に油断は禁物ってことですね」

水城涼真「まあ今日もここまで10時間もかかってるわけやから、気が緩んでしまいやすくなるってのもあるけどな」

若宮朱莉「父の遺志を継ぐためにも・・・わたし、次行きますね!」

水城涼真「最後まで気を引き締めてな」


若宮朱莉はオーバーハング鎖ハシゴの鎖を持ってゆっくり登っていった。そして父親が滑落した空中回路の挑戦となった。鎖を持ちながら一歩ずつ鉄の棒に足を置いていくとそのまま進んでいった。少し怯えながら歩いているように見えたがなんとか空中回廊をクリアして樫田裕と合流した。若宮朱莉は大きな声で「涼真さん、クリアできましたよ!これから本当の意味で父の遺志を継いでいけるように思います!!」と言った。最後に水城涼真がオーバーハング鎖ハシゴをスルスルと登っていき、空中回廊もスムーズにクリアした。先にクリアした2人と合流すると水城涼真は若宮朱莉のかぶっているヘルメットの上から撫でて「朱莉ちゃん、よくがんばったな!」と言った。若宮朱莉は少し涙を流して「わたし、父のことが頭に浮かんでちょっと怯えてしまいましたが、やりました・・・」と言った。それに対して水城涼真は「よしよし・・・さあ、あとは楽しい宴会のはじまりや!」といって3人は先に進んでいった。



午後16:35・・・狼平避難小屋


そのまま沢を遡行して樹林帯を抜けると吊り橋が見えた。その吊り橋を渡るとついに狼平避難小屋に到着した。休日なので避難小屋での宿泊者は多いと予想していたのだが、小屋の中を見ると一階や二階には誰もいなかった。3人はさっさと二階に寝床のスペースを確保すると一階の広くなっているスペースで宴会の準備をはじめた。水城涼真と樫田裕のザックの中からそれぞれ500mlのビール6缶ずつ(合わせて12本)と若宮朱莉のザックからは350mlのビール2缶を出した。


樫田裕「この避難小屋に誰もおらんって珍しいですね」

水城涼真「おそらく今日はあんま天気よくないし、明日は雨やからとちゃうかな」

樫田裕「明日って午後の降水確率60%になってましたね」

水城涼真「そうなんよ。午前中が20%やから、なんとか午前中には熊渡まで戻りたいねん」

若宮朱莉「午前中に熊渡まで戻れるんですか?ここまで11時間くらいかかっていますよね?」

水城涼真「下山は登山道を使うから3時間くらいで戻れるんよ」

若宮朱莉「そうなんですか!?まるで高速道路ですね」

樫田裕「涼真さん、大きな鍋持ってきてますが今日は何を作りはるんですか?」

水城涼真「今日は味噌鍋やで。具材ももう切ってきてるし、味噌鍋の素もあるから簡単にできる。ちょっと水入れてくるわ」


水城涼真は狼平から弥山川をさらに上流に行ったところにある小さな滝の水を鍋に入れると避難小屋に戻った。


樫田裕「この辺、水場なんてありました?」

水城涼真「いや、ここからさらに上流に行ったところにある小さな滝の水を入れてきた。煮消毒するから問題あれへん」

樫田裕「まあ、この辺の沢の水なら大丈夫やと思いますわ」

若宮朱莉「弥山川の水で鍋を作るなんてなんかいいですね」


鍋の水が沸騰したところで火力を小さくして、味噌鍋の素を入れると、大量の豚バラ薄切り肉、絹豆腐二丁、しめじ、ニンジン、水菜を鍋に投入した。そして具材が煮え切ったところで、3人は500mlのビールの蓋をあけて「乾杯!」と言ってゴクゴクと飲みはじめた。若宮朱莉は鍋の具材を小皿にとって食べると「超美味しいです!」と言った。宴会がはじまって1時間が経つとすっかり鍋の具材がなくなってしまったので、〆にごはんと生卵を投入して雑炊を作った。500mlのビールも一人3本飲み干していよいよ4本目を飲みはじめた。雑炊もごはんの量がすくなかったせいかすぐにたいらげてしまった。若宮朱莉は残った汁までも飲み干した。そして後片付けを終えると樫田裕が「ちょっと早いですけど、眠くてたまらんので僕もう寝ますわ」と言って二階に上がっていった。しばらくして水城涼真と若宮朱莉も350mlのビールを持って二階にあがっていくと樫田裕は寝息をたてながらぐっすり眠っていた。寝床の順番は一番左側が若宮朱莉、真ん中が水城涼真、一番右側が樫田裕であった。若宮朱莉は350mlの缶ビールを飲みながらスマホで今日撮影した写真を見ていた。水城涼真も350mlの缶ビールを飲みながら明日のルートの確認をしていた。そしてその2人はビールを飲み干すとヘッドライトを消してシュラフを敷いて横になった。水城涼真はアルコールが入っているせいか暑いといって最初はシュラフをかぶらなかったが、若宮朱莉はシュラフの中に入っていた。避難小屋の中は真っ暗でシーンっとしていたが、水城涼真はすぐに眠ることはできなかった。しばらくすると若宮朱莉が小さな声で「涼真さん、まだ起きていますか?」と聞いてきた。水城涼真は「起きてるよ」と答えた。すると若宮朱莉がシュラフをかぶったまま水城涼真のほうへ寄りかかってきて涙を流し出した。


若宮朱莉「涼真さん、わたし、本当はすごく怖かったです」

水城涼真「そうやろうなって思ってたよ」

若美朱莉「双門ルート自体はアスレチックみたいでとても楽しかったんですが、父が滑落した場所という意識がずっと頭から離れませんでした」

水城涼真「身内のこととなるとな・・・しかも大好きなお父さんのことやから余計に意識してしまったやろな」

若宮朱莉「あっそっか・・・わたしってお父さんのこと大好きだったんですね」

水城涼真「なんや、そんなこと今頃気づいたんか。だからこそ今日は辛かったんとちゃう?」

若宮朱莉「とても辛くて何度も泣きそうになりました」


ここで水城涼真は若宮朱莉の頭を撫ではじめた。


水城涼真「よーがんばったな。それでこそ連れてきたかいがあったわ」

若宮朱莉「わたし、どのみちいつかは双門ルートにチャレンジして父のことも含めて克服しないといけなかった。父の遺志を継いでいくには避けて通れなかった。これから登山していくためにも必要なことだった。涼真さんはそう考えてわたしを双門ルートにチャレンジさせたんですよね?」

水城涼真「朱莉ちゃん、よーわかってるやん。山岳事故を起こした場所やからって怖がってたら俺らがこれからやっていく登山なんてやっていかれへん。身内のことやったから辛かったと思うけど、どんなことがあってもそれを乗り越えて前に進んでいかなあかんのよ。好きな山岳漫画があってな、その主人公のセリフを借りると『また山においでよ』やな」

若宮朱莉「本当にありがとうございます!わたし、ちゃんと乗り越えられましたのでもう大丈夫ですが、今は少しだけ涼真さんの胸で泣かせてください・・・」



10月29日午前5時40分・・・


狼平避難小屋で一夜を過ごした3人はほぼ同時に目を覚ますと外の様子を見に行った。天気は昨日と同じくどんよりとしており、西側から雨雲が近づいてきている。水城涼真はバーナーを出してお湯を沸かすと3人分のインスタントコーヒーを用意した。樫田裕は「やっぱり午前中が勝負ですね」と言いながらコーヒーを口にした。コーヒーを飲み終えて準備を整えると避難小屋から外に出てさっさと下山をはじめた。


まず15分程かけて高崎横手まで登っていき天川川合ルートに合流すると、川合方面へと歩いていった。本当は途中にある頂仙岳のピークハントをする予定だったが、雨でガスっていたため、そのピークを巻いて歩いていった。狼平から50分程歩いたところで少し広いコル部に出ると金引尾根分岐の看板が立てられていた。


水城涼真「ここから金引尾根を下って行くんやけど20分ほど休憩しよか」

樫田裕「もう1時間程歩いてますし、金引尾根長いですからね」

若宮朱莉「雨が本降りになってきましたね」

水城涼真「まあ金引尾根を下ったら、あの長かった林道の終点に着くからあと1時間半ほどで熊渡に到着できるわ」

若宮朱莉「すごい!本当に高速道路みたいですね」

水城涼真「双門ルートは沢筋を歩いたり、無駄に高巻したりして結構時間がかかるんやけど、こっちはストレートで戻ってるからな」


そんな話をしながら休憩時間の20分が過ぎると、3人は金引尾根を下っていった。この金引尾根は標高約1450mから標高約850mまで一気に下ることになるのだが、最後の九十九折というつづら折れの道では、沢の音が聴こえていながらもなかなか下り終えないのが精神的にこたえる登山者も少なくない。また、金引尾根は踏み跡やテープがあるものの整備された登山道ではなくバリルートなので、今日のように雨が降っていると急斜面など滑りやすい場所もある。そんな金引尾根を3人はひたすら下り続けて、午前8時10分に金引橋に到着した。林道終点の弥山川・金引橋分岐のところで10分ほど休憩をとって、いよいよ長い林道を熊渡へ向かって歩き続けた。若宮朱莉は何度か「この林道嫌い」と呟きながら歩いていたが、とうとう3人は熊渡へ戻ってくることができた。時刻は午前9時前と予定より少し早めに戻ってくることができたが、3人とも「やっと着いた」と喜んでいた。


若宮朱莉は少しの間、林道の入口をずっと見ていて「お父さん、無事に双門ルートをクリアしたよ。わたしがちゃんとリベンジしておいたからね」と呟いた。


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