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わたしと一緒に山へ行きませんか?

7月3日19時45分・岩湧山(大阪府河内長野市)の山頂広場にて・・・


梅雨明けはしていなかったが、太平洋高気圧が強まり梅雨前線が南下して全国的に晴天であった。

この日、雨上がりということもあって絶好の夜景撮影日和だったので、水城涼真は雑誌の取材も兼ねてこの岩湧山に登った。

四月に行われた山焼きから三ヵ月が経過しているが、ススキはまだ膝上くらいまでしか伸びてなくて景観は損なわれていない。

山頂から少し南側にある山頂広場でトワイライト夜景の撮影を終えると、水城涼真はさっさと地面にアルミシートを敷き、カメラの三脚にランタンを吊るして、チタン製のカップにコーヒードリッパーを取り付けてお湯を注いでいた。

もちろんこんな時間なので誰もおらず、景色と安らぎの場所はまさに独占状態になっている。


ところで水城涼真はベリーショートの黒髪に少しつりあがった目に低めの鼻、小さな唇の小顔で身長は170センチのスリム体型で童顔に見られることが多い。普段は口数が少なくクールな印象を持たれがちだが、登山の話になるとまるで子供のように夢中になって口数が増えてしまう特徴がある。


コーヒーを一口飲んだ水城涼真は「ふぅ~この非日常感がやっぱたまらんな」と呟くと、山頂のほうからカサッ、カサッという足跡が聴こえてきた。水城涼真は「ん?鹿かな?」と思いながら足跡が聴こえているほうをじっと見ていると、あきらかに女性だと思われるシルエットが現れてきた。そして階段を登り終えたその女性は少し息を切らしながら「やっと山頂なのね」と呟くと、岩湧山の山頂看板の前に立ち止まった。しばらくすると雲がはけて月が出てくると、山頂付近は月明りに照らされて明るくなった。


岩湧山の山頂看板の前には白いバケットハットをかぶって、白いレースの半袖ワンピース姿、白い革のレースアップシューズを履いて、茶色と白のワンピースリュックを背負った20代前半と思われる女性が一人で立っていた。その女性の姿を見た水城涼真は不思議そうな表情をしながら「なんやあれ!?これから撮影でもするんかな?」と呟いた。するとその女性は山頂広場のランタンの明かりと水城涼真に気づいて歩いてきた。よく見るとサラサラの黒髪にセミロングヘアで二重まぶたをした大きな目に小鼻、シャープな顔立ちをして身長は155センチ少しといったところだろうか、まるでファッションモデルのようなスリムな体型をした女性であった。


女性「こんばんは」

水城涼真「こ、こんばんは・・・」

女性「想像以上の素晴らしい夜景ですね。正直驚きました」

水城涼真「そうですか。まあ、大阪のほぼ全域から神戸、奈良、遠く京都まで見えてますからね」

女性「本当に言葉に表せないほどの光景ですね。頑張って登ってきてよかったです!」

水城涼真「あの、今日は撮影かなんかで登ってきたんですか?」

女性「いえいえ、完全にわたしのプライベートです」

水城涼真「えっ!?まさか一人でその恰好で登ってきたんですか?」

女性「そうですが、何かおかしいですか?」


水城涼真は女性の「何かおかしいですか?」という質問に対して受け答えに戸惑った。その女性はとても登山をするような服装や装備ではなく、完全に登山未経験者であり、しかも水城涼真より年下であるのはあきらかなのだ。そんな女性に「おかしい」とストレートに答えても理解されない可能性のほうが高い。水城涼真はそんなことを考えながら言葉を探していた。


水城涼真「あのね、街中だったらかなりオシャレだと思うんだけど、登山をする恰好ではない・・・という言い方が正しいかも」

女性「なるほど・・・わたし、登山は今日がはじめてで、よくわかっていません」

水城涼真「なんではじめての登山が岩湧山のナイトハイクなん?」

女性「それには事情がございまして・・・」


女性は何やら深刻な表情になったので、水城涼真は直感的にその事情のことはあえて触れないでおこうと思ったが、次の質問が思い浮かばない。しかし、その女性はかなり汗だく状態になっていることもあって、このまま放ってはおけないという気持ちになった。


女性「なんだか寒いです。今朝の天気予報では、河内長野市の夜の最高気温が24度で湿度が高く蒸し暑くなるとのことでしたが、あてになりませんね」

水城涼真「いや、それは地上での話で、山の上やと気温は下がるんよ。標高100メートル登るごとに気温は約0.6度下がっていくから、標高約900メートルの岩湧山の山頂やと気温は5.4度低くなってるから今の気温は少し肌寒い18度ちょっとってことになる。それにここは周りに遮るものがないから結構風も吹いてて、その分体感温度もさらに下がるんよ。それに結構汗だくになってるみたいやから、その汗も冷やされて余計に寒く感じてしまっているんよ」

女性「とてもわかりやすい説明をしていただき、ありがとうございます!本当に体が冷えてきましたので、どこか木陰で汗を吹いてきます」

水城涼真「大きなお世話かもしれんけど、俺が持ってきたレインジャケットと防寒着に着替えるほうがええかも。サイズは少し大きいと思うけど・・・」

女性「ありがとうございます。でもわたし今日はこの恰好でがんばりますので大丈夫です!」

水城涼真「とてもやないけど、その恰好で夜の登山道を下るのは山岳事故に繋がる可能性が高いんよ。下山中にスカートを枝に引っ掛けてしまって転倒、斜面に滑落なんてことになったら大けがするか、打ちどころが悪かったら命を落とすことにもなる。これは脅しでもなんでもないからね」

女性「そんな怖いこと・・・わかりました。ではお言葉に甘えてお借りします。えっとお名前をお聞きしてもよろしいですか?」

水城涼真「えっと、俺の名前は水城涼真で、大阪の吹田市ってところにある”ほたか壮”というアパートの大家をしながら、アウトドア専門雑誌のライターをしてる。逆に名前を聞いてもええかな?」

女性「わたしはタレントの若宮朱莉です。おそらくテレビでわたしの顔を見たことあるのではないでしょうか。東京の中野区というところに住んでいます」


水城涼真の部屋にはテレビは置いておらず、もちろん見ることもないので最近の芸能界のことなんてまるでわからなかった。


水城涼真「ごめん、俺テレビなんて見んからよくわからんのやけど、タレントってことは芸能人なん?」

若宮朱莉「あまり芸能人だという意識を持っていませんが、一般的にはそういうことになりますね」

水城涼真「えっと若宮さん・・・」

若宮朱莉「若宮は芸名ですので、下の名前で呼んでいただいていいですよ」

水城涼真「えっと、じゃあ朱莉ちゃん、他にも聞きたいことがあるんだけど、とりあえず体が震えてきてるし、まず汗を拭いて着替えておいで!」


すると若宮朱莉はワンピースリュックの中からピンクの汗拭きタオルを取り出した。そのタオルは少し小さめで、しかも汗でビショビショになっていた。それを見た水城涼真は「ちょっと持ってきてるものを見せてくれる?もちろん見せれるものだけでいいので・・・」と言った。若宮朱莉は「あっはい」といってリュックの中から白いハンカチとポケットティッシュ、

ミネラルウォータが半分入った500mlのペットボトル、栄養補助スナック一本、そして右手に持っていた黒い小型のLED懐中電灯を差し出した。軽装にもほどがあると言わんばかり装備に水城涼真は唖然としていた。


水城涼真「えっと、朱莉ちゃんの汗拭きタオルはもうビショビショになってるし、俺が予備で持ってきているドライタオルも貸すから、それで汗を吹いて着替えておいで!」

若宮朱莉「ありがとうございます。あと、わたしは涼真さんってお呼びしてもいいですか?」

水城涼真「どう呼んでくれてもええよ。とにかく早く着替えておいで」

若宮朱莉「はい、ではこれお借りますね。途中に綺麗なトイレがありましたので、そこで着替えてきます」


若宮朱莉は水城涼真が差し出した防寒着とドライタオルを左手に抱えて早足で北側に設置してあるトイレのほうへ歩いていった。話をしている間にコーヒーを飲んでしまったので、水城涼真はもう一度カップにコーヒードリップを取り付けてお湯を注いでいた。

それから10分程経って若宮朱莉が左手にワンピースなどを抱えながら戻ってきて「おっしゃられた通り、着替えてきました」と言った。レインジャケットにダウンジャケットを着こんでいたが、さすがにサイズが大きいのでダボダボな感じであったが、最初のワンピース姿に比べれば、十分な登山スタイルになっていた。


水城涼真「朱莉ちゃんのコーヒーを入れておいたからどうぞ」

若宮朱莉「お気遣いありがとうございます。ではいただきます」

水城涼真「気遣いとかやないよ。かなり体が冷やされてたみたいやしな。それよりちょっといろいろ質問してもええかな?」

若宮朱莉「はい。ただ、ご質問にお答えできないことがあるかもしれません」


水城涼真は「わかった。その前に・・・」と言ってザックから四つ入りのチーズタルトを取り出した。そして袋を開くとチーズタルト二つを若宮朱莉に差し出して「これも食べてな」と言った。


若宮朱莉「大変ありがたいのですが、わたしは体型維持のために夜に甘い物は食べないようにしていますのでご遠慮させていただきます。わたしはこのスナック一本で我慢します。本当に申し訳ありません」

水城涼真「何言っとるんや!?登りもやけど、これから下りでもエネルギー消費するんやで?ハンガーノック(体がガス欠状態に陥ること)になったらそれこそ山岳事故に繋がる。山で糖分補給は絶対必須やし、そもそも体型維持とかダイエットのやり方を完全に間違ってるんとちゃうか?」

若宮朱莉「じゃあ、今日はこれを食べても太らないのですね!?普段は運動とかあまりしませんのでよくわからないのです」

水城涼真「このくらいで太るわけないというか、逆にまだ足らんくらいやわ」

若宮朱莉「わかりました。では、遠慮なくいただきます。実はわたし、チーズタルトが大好きなんです!」


コーヒーとチーズタルトでナイトドア(ナイトアウトドア)を満喫していて、チーズタルトを食べ終えると二杯目のコーヒーが注がれた。そして水城涼真の質問タイムがはじまった。

若宮朱莉は今年で23歳、タレントとして主に東京でバラエティやトーク、クイズ番組に出演しているのだが、今回は大阪のバラエティ番組のゲストとして出演したのだが、午後15時前に仕事を終えた。その後はオフになり、マネージャーになんとかお願いして車で岩湧寺まで送ってもらった。その後、入山して最短コースである”きゅうざかの道”で登ってきたという。

きゅうざかの道のコースタイムは60分と記載されているが、登山に慣れていない人の場合だと休憩時間を入れて90分はかかる。実際、若宮朱莉も岩湧山の山頂まで90分以上の時間を要してしまったようでトワイライトタイムには間に合わなかったようだ。


水城涼真「いろいろ答えてくれてありがとう。ところでなんやけど、なんではじめての登山が岩湧山のナイトハイクなん?しかも東京の人やのに、ここから夜景が見えるって知ってたのが謎なんよ」

若宮朱莉「それには事情がありまして・・・あの、今度はわたしが涼真さんのことをお聞きしてもよろしいですか?」

水城涼真「別に俺のことやったら何でも聞いてくれていいよ」

若宮朱莉「ありがとうございます!あの、差し支えなければなんですが、おいくつですか?」

水城涼真「俺は27歳だけど11月で28歳になるから朱莉ちゃんの5歳上になるな」

若宮朱莉「わたしより少し上くらいに思いましたが、それでもまだお若いですね・・・それと涼真さんは山のことにすごくお詳しいようですが、どんなところへ登山に行かれるのですか?」

水城涼真「う~ん・・・関西周辺が多いけど、全国各地の山に行くこともあるな。まあ、人があまり行かないようなようなところが多いかも」

若宮朱莉「人があまり行かないようなところってどういうことですか?」

水城涼真「えっとね、まず俺は新しい発見がしたいのと、非日常を感じるために登山してるんよ。だから時間と金と体力さえあれば誰でも行けるような山にはあんまり興味がないんよね。たとえば富士山は登ったことあるけど、全く魅力を感じんかったから二度と登らんと思うわ。それより、誰も登ったことのないような山に登って、誰も見たことのないような景色を見るほうが魅力的なんよね。まあ、それには登山道じゃないところを歩くわけやから危険と隣り合わせになるんやけどな」

若宮朱莉「登山道じゃないところなんて歩けるのですか?」

水城涼真「歩けるよ。地図の載ってる整備された登山道だけがルートやないからな。まあはたから見たら変なところを歩いてるみたいに思われるけど、そういう地図に載っていないルートのことをバリエーションルートっていうんやけどね。俺は好奇心旺盛なこともあって、そのバリルートで山に登ることも楽しんでるんよ!」

若宮朱莉「なんだか涼真さんってわたしの父に似ているように思います。父も『バリルートじゃないとおもしろくない、あまり人が見ないような景色が貴重なんだ』とよく言っていましたし、好奇心旺盛な人でしたから・・・」

水城涼真「そっか、お父さんも登山する人やったんやね。登山好きって全員が同じ目的みたいに思われること多いけど、実際は人によって違うんよね。その点からすれば俺とお父さんの登山目的は似てたんかもしれんし、存命であればいい山仲間になれたかもしれんな」

若宮朱莉「あの、どうしてわたしの父が他界していることを知っているのですか?」

水城涼真「だって、さっき朱莉ちゃんが『~とよく言っていました』、『好奇心旺盛な人でしたから』って発言してたけど、それってもうこの世にはいないって意味になるからな。思わず口に出してしまったんやね・・・」

若宮朱莉「すごい!たしかにそうですね・・・えっと、涼真さんになら話せるかもしれません・・・」

水城涼真「俺になら話せる?」

若宮朱莉「あの、はじめての登山が岩湧山のナイトハイクだった理由も含めて、わたしの父のお話を聞いていただけますか?」

水城涼真「いいよ。じゃあ、もう一杯コーヒー入れるな」

若宮朱莉「ありがとうございます」


若宮朱莉の父親は大阪府茨木市出身で、大学には進学せず、東京にある自然のプロフェッショナルを目指す専門学校へ進学することになった。上京して二カ月ほど経ったある日、登山ロープワーク講習に参加することになった。ロープワークの技術は両親や山岳部で十分学んでいたが、勘が鈍らないように時々参加するようにしていたのだ。その講習で担当になったのが若くてキュートな女性のインストラクターだった。その女性インストラクターを見た瞬間、若宮朱莉の父親は一目惚れしてしまったのだ。その女性インストラクターこそ、現在の若宮朱莉の母親である。しかも、父親はその講習が終わった直後にその女性インストラクターを人気のない場所へ呼び出して「あなたのことが好きになりました。ぼ、僕と結婚しませんか?」といきなり告白してプロポーズしたという。その言葉を聞いた女性インストラクターは、不器用ながらも真剣な眼差しで告白してもらえたことに感動して思わず「はい、よろしくお願いします」と答えた。それから二人は結婚前提という形で交際していき、父親が専門学校を卒業して職に就いたと同時に入籍した。それから二年後に子供を授かったのだが、それが今の若宮朱莉である。


若宮朱莉「ごめんなさい。両親の馴れ初め話になってしまいましたね」

水城涼真「でもその馴れ初めを聞いておかんと、次の肝心なことは聞かれへんと思うわ。それより、遅くなってきたけど時間は大丈夫なん?」

若宮朱莉「明日は午後にスタジオ入りなので大丈夫です」

水城涼真「でもずっとマネージャーさんを待たせてるんとちゃうの?」

若宮朱莉「今夜は山小屋に宿泊して、マネージャーは明日の朝迎えにきていただくことになっていますから」

水城涼真「山小屋?岩湧山の森にそんなところあったかな?」

若宮朱莉「岩湧寺の手前に小屋があるじゃないですか!?たしか四季彩館という名前だったと思います」

水城涼真「四季彩館って、あれ山小屋やなくて自然のセンターハウスって言えばええんか、とにかく宿泊施設やないで!」

若宮朱莉「ほ、本当ですか!?だとすれば、わたし今夜どこに行けばいいのでしょうか?」

水城涼真「いや、俺に聞かれても困るんやけどな。とりあえず今からでもマネージャーさんを呼んだほうがええんとちゃうの?」

若宮朱莉「そ、そうですね。ここは電波も入るみたいですので連絡してみます」


すぐさま若宮朱莉はスマホを取り出してマネージャーに連絡をした。その結果、マネージャーが迎えにきてくれることはなったが二時間以上はかかってしまうとのことだった。


水城涼真「俺も明日は予定がないし、それまで朱莉ちゃんに付き合うよ」

若宮朱莉「でも、涼真さんに悪いですから先に帰ってください」

水城涼真「あんな、今の朱莉ちゃんを一人にするわけにはいかんし、山で遠慮したり気を遣うのはご法度やで。それより、まだ時間はあるからさっきの話の続きをしてよ」

若宮朱莉「わかりました。では、父の話を続けます」


まず、若宮朱莉は成績が優秀でもなかったが、なんとか東京の都立高校に進学することができた。そして仲良くなったクラスメイトの女子生徒の兄こそ、今の若宮朱莉のマネージャーであった。そのマネージャーは井野口晃、当時は20歳で芸能事務所で働いていたのだが、妹の友達である若宮朱莉の魅力に目をつけて『芸能界でがんばってみないか』と誘った。最初は芸能界のことなんて何もわからなかった若宮朱莉は戸惑っていたのだが、特に将来やりたいこともなかったので井野口晃の誘いに応じた。芸能界デビューした若宮朱莉は瞬く間に評判が良くなり、仕事のオファーも増えた。

そういう娘を見守っていた若宮朱莉の父親は「朱莉はもう十分に生きていけるやろうし、俺も自分のやりたいことをしたいから、大阪に単身赴任する。ちょうど転勤の話があるんだ」と家族の前で発言した。それを聞いた若宮朱莉の母親は驚くこともなく「あなたはいつまでも変わらないわね!わたしも時間がある時に大阪に行くわ」と言った。若宮朱莉も「大阪での仕事もあるから、その時は会いに行くわ。それより、お父さんは大阪で何がしたいの?」と聞いてみると父親は「関西の山にはあまり知られていない秘境の地があるんだ。それに最近は、ナイトハイクで夜景を見ている記事もあるんだが、あまり人が見たことのない光の絶景も見てみたい」と答えた。そういうこともあって、5年前から若宮朱莉の父親は大阪へ単身赴任した。ところがそれから2年経った10月の紅葉シーズンに岩から足を踏み外して滑落、頭蓋骨を骨折して命を落としたという。


若宮朱莉「実は父の遺品に一冊のノートが残っていました。それを開いて読んでみると、これからの登山予定が書かれていました。当時はあまり関心がなかったのですが、最近になって父が見ようとしていた”あまり人が見たことのない素晴らしい景色と非日常感”というものがどんなものなのか興味がでてきて、今日、はじめて岩湧山の夜景をみるために登ってきたということです」

水城涼真「そっか・・・それで、岩湧山の夜景を見てどうやった?」

若宮朱莉「とんでもない夜景で驚きました。カップルがデートで見る夜景とは別物のように思います。それにこの夜景をバックにコーヒーをいただきながらお話しているのも楽しいです。これが非日常感なのですね!?」

水城涼真「俺にとって山で見る夜景は風景の一つって感じやからな。ところで、さっき言ってたお父さんの遺品のノートも見てみたかったわ」

若宮朱莉「そうですか・・・えっと、涼真さんにならお見せしてもいいです。リュックの中に入れていますので出しますね」

水城涼真「持ち歩いているんやな」

若宮朱莉「はい。このノートです、どうぞ・・・」

水城涼真「じゃあ遠慮なく読ませてもらうわな」


ノートを開くとこれまでの予定も少し記載されていたが、既に登った山については赤文字で『達成』と記されていた。ところが一つの場所では達成とは記されておらず、その後の予定が岩湧山へのナイトハイクになっていた。つまり、若宮朱莉の父親が命を落としたのは達成と記されていないその場所だということは明白であった。そして、その後の登山予定を読んでいくと結構な数になっていた。しかも、そのほとんどがあまり人が登らないマニアックな山ばかりであった。水城涼真はノートを見ながら「朱莉ちゃん、まさかとは思うけど、この予定されてる山全部を登ろうなんて考えてる?」と聞いた。すると若宮朱莉は「はい。実は本気で全部登ろうと考えています」と答えた。それを聞いた水城涼真は「う~ん・・・」と呟いた。


水城涼真「あんな、残念なんやけど、今の朱莉ちゃんの山岳技術でこれを全部登るのは無理やわ」

若宮朱莉「でも、標高の高いアルプスの山を登るわけでもありませんし、少し登山のことを勉強すれば登れる気がします」

水城涼真「山の難易度と標高は関係ないんよ。逆にきっちり整備されてるアルプスのほうが難易度は低いんやけど、この予定表にある山はかなり難易度が高いわ」

若宮朱莉「わたし、今日はじめて岩湧山からの夜景を見て、ますます父が見ようとしていた景色に興味を持ってしまいました。何か良い方法はないでしょうか?」

水城涼真「山に興味を持ってもらえたことは嬉しいんやけど、お父さんが予定してる倍以上の山に登ったり、予定の中には沢登りもあったからロープワークの練習もせなあかん。あと、お父さんは景色だけやなくて、バリエーションルートを歩く仮定も楽しんでたと思うから読図も学ばないとあかんのよ。東京に住んでタレント活動してる朱莉ちゃんにはそれは難しい話やと思うわ」

若宮朱莉「現実的に考えるとそれは無理かもしれません・・・それでも何か良い案を考えてみます」

水城涼真「そろそろ時間やね。ノート返しておくけど、俺もアウトドア専門ライターとして少しは名が売れてるから今回のことは誰にも言わないでおくわ」

若宮朱莉「ありがとうございます。お借りしたヘッドライトも使わせていただきますね」


時刻は既に午後22時を過ぎていた。水城涼真はさっさと後片付けをして、最後に若宮朱莉のワンピースなどを丁寧にたたんでザックへ入れた。そして下山を開始した。岩湧山の東峰より”きゅうざかの道”を下っていくのだが、段差のある階段だらけでペースを早めるとすぐに膝が笑ってしまう。早く下りたいという気持ちはわかるが、ここは少しペースダウンしながら下っていくのが安全なのだ。

若宮朱莉はずっと何か考え込むような難しい表情をしながら下山していた。それから20分ほど下山したところにベンチが設置されてあった。水城涼真は「朱莉ちゃん、もうすぐで終わりやけど最後まで油断したらあかんから、一旦ここで一息入れよう」と言うと、若宮朱莉は「はい」と言って二人はベンチに座った。少しの間、シーンとした状態が続いていたのだが、若宮朱莉が突然「いいことを思いつきました!!!」と少し大きな声で言った。


水城涼真「なんや突然、びっくりするやん!」

若宮朱莉「ごめんなさい。でもかなり名案だと思います」

水城涼真「話がよーわからんのやけど、名案って?」

若宮朱莉「涼真さんと一緒に父の予定していた山へ行けばいいのです!!!」

水城涼真「はぁ?」

若宮朱莉「涼真さんと一緒であれば全部の山に行けると思います!だから・・・わたしと、一緒に山へいきませんか?」

水城涼真「なんで俺が一緒にいかなあかんの?それに朱莉ちゃんは東京に住んでるわけやから無理やって!」

若宮朱莉「わたし、今日のこともあって決めました」

水城涼真「何を決めたんかわからんけど、俺が一緒に行くなんて現実的に無理やから」

若宮朱莉「それは楽しみにしておいてください・・・ふふふ」


若宮朱莉が何を考えているのかわからなかったが、水城涼真はその話はスルーしておいた。

休憩を終えて登山口まで下山すると、一台の黒いワゴン車が岩湧寺の手前で待っていた。水城涼真はワンピースなどの服装一式を若宮朱莉に手渡すと「ちょと着替えてきます」といってトイレに駆けこんだ。それから5分ほどすると若宮朱莉がレインジャケットや防寒着、ヘッドライトなどを持ってきて「お返しします。ありがとうございました」と言って差し出した。ワゴンの運転席から若宮朱莉のマネージャーである井野口晃が車から降りてきて「朱莉ちゃん、あまり無茶しないでよ」と言うと若宮朱莉は「井野口さんごめんね」と言って車に乗って去っていった。


今回は登山のことなんて何も知らない超初心者を相手に水城涼真はかなり疲れてしまったのかもしれない。さっさと父親が残してくれた遺産の一つである紺色のコンパクトカーに荷物を積んで帰宅して、自分の部屋に入るとすぐに眠ってしまった。

まあ、山で知り合ったのがたまたま芸能人だったわけで、もう二度と会うことはないだろうと思っていたが、この後、若宮朱莉はとんでもない行動に出るとは誰も想像しなかったことなのだ。

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