映画『8番出口』の感想と考察
どうもこんにちは。芦田メガネと申します。私は現在、この小説家になろうにてSF作品を投稿しております、しがない大学生でございます。
さて、今回は映画『8番出口』について語っていきたいと思います。かなりガッツリネタバレをするので、まだご覧になってない方はブラウザバックを推奨いたします。ご了承ください。
まずは、ざっくりとした感想を。結論から言うと、かなり面白かったです。原作ゲームをものすごく忠実に再現しつつ、映画独自の要素も加えて最後まで飽きない仕上がりになってますね。
これは、ホラー映画というよりも、ホラー要素のある人間ドラマ、或いは寓話だと思います。そして、見た人全員が違った考察ができる芸術性の高い作品でもあります。大衆向けの娯楽と高尚な芸術が共存する稀有な作品であると思います。
では、ここからは私の考察を紹介していこうと思います。ここからネタバレ入ります。また、主人公の「迷う男」は便宜上「二宮」と呼称しますのでご了承ください。
まずは、序盤の黄色い光で満ちた通路で二宮がゲロを吐いて倒れたシーン。あのシーンに入る前までは、二宮は喘息の発作が度々出ていて、薬を服用する場面もありました。ですが、立ち上がった後は荷物を捨てて、喘息の症状も収まっていました。
このシーンを、二宮が死亡したと捉える視聴者もいるようですが、私はそうは思いませんでした。二宮の喘息は「迷いや恐怖、トラウマ」のメタファーであると私は考えました。
二宮は8番出口に入る前、元カノが妊娠したことを告げられました。そして、どうするべきか答えを出せず、逃げの姿勢を取っていました。また、終盤では二宮の家庭は母子家庭であることも明かされました。二宮は自分自身が父親になることに対して恐怖や迷いを感じていたことがわかります。彼女との8番出口の通路内での電話でも、自分が父親になっていいのかという迷いを吐露していましたしね。
そして、嘔吐して倒れ、再び立ち上がったシーン。これは8番出口という怪異へ立ち向かう覚悟、生きて帰って父親になることへの覚悟を表すシーンであると考えました。喘息が消えたことは、父親になることへの迷いや恐怖が消えたことを表しているのではないでしょうか?
二宮が少年に寄り添っていたことや、最後の津波の場面で、二宮が必死に少年を助けようとしていたことなどからも、二宮が父親になる覚悟を決め、迷いを捨てたことが伝わって来ます。
次の考察は、赤ん坊に関する異変がやたらと現れたこと。8番出口内のコインロッカーから赤ん坊の泣き声が聞こえたり、人間の目や耳、口が付いたネズミが赤ん坊の声で泣いたりと、この作品では赤ん坊に関する異変が多く登場しました。これも、二宮の父親になることへの恐怖や、赤ん坊に対する悩みが具現化したものであると考えました。
この作品の中盤では、8番出口を彷徨くおじさんの過去編も挿入されました。そのおじさんの過去編では、赤ん坊に関する異変は登場しませんでした。もちろん、おじさんの過去を全て見たわけではありませんが、ここから、8番出口は迷い込んだ人間に見合った異変をぶつけてくる怪異であることが推測できます。
8番出口は、現実世界で迷いを抱えていながらも、それに対して逃げている人間を誘い込んで、立ち止まらせて向き合わせることが目的だと感じました。だから、二宮の場合は赤ん坊に関する異変を多く登場させることで、二宮自身が抱える「異変」に気付かせようとしていたのでしょう。
また、「おじさん編」は必要だったのか、という意見が見られましたが、私は必要だと思います。これはファンサービス的な観点ではなく、芸術的観点による意見です。
おじさんと二宮は対極の存在です。これを紐解くにはおじさん編の直前で二宮が出会った少年が鍵となります。おじさんは少年の意図を汲み取ろうとせず、8番出口に取り込まれ舞台装置になってしまいました。ですが、二宮は少年の意図を汲み取ろうとしたり、同じ目線に立ったりして、少年のことを尊重していました。
ですが、きっと父親になる覚悟を持ってなかった以前の二宮ならおじさんのような反応をしていたはずです。8番出口を通して成長したからこそ、二宮は少年を尊重し、生還することができた。おじさんは8番出口で自身の抱える「異変」に気付けず、成長できなかったために、少年の意図に気付けなかった。この対比があったのだと思います。二宮の成長を引き立てるためにもおじさん編は必要だったのです。
(2025/09/04、追記)
そして、この映画の続編の有無についても考察したいと思います。結論から言うと、続編は作るべきではないと思います。なぜなら、この映画は「観客自身の物語」でもあるからです。
そう考えた理由は、冒頭にあります。この映画は二宮の一人称視点でスタートし、8番出口に迷い込んだ段階で三人称視点に切り替わりました。この一人称視点でスタートした目的は、単に原作再現をするだけでなく、「これは他人事ではなく、あなた自身の物語でもありますよ」ということを暗示することだと思いました。
この映画は、我々、観客自身も二宮と同じ視点で8番出口に迷い込み、そこから脱出するという体験型の作品でもあります。つまり、この映画の続編とは、「映画を見終わったの観客の人生そのもの」であるはずです。二宮は、8番出口を脱出したあと、現実の「異変」、自身の「異変」に立ち向かいました。「ここから先は、あなた自身も、二宮のように変わっていく番だ。あなた自身の人生の異変に立ち向かっていく番だ。」ということを表していると感じます。
このように、我々自身の映画視聴後の人生そのものが続編であると考えたため、続編を作ることは少し無粋であると思いました。続編を作ってしまえば、我々自身の物語ではなく、「二宮だけの物語」になってしまう可能性が高いからです。それでは、この映画の意義の大部分が削がれてしまう気がします。ですので、できれば続編は作らないで欲しいです。仮に続編を作るなら、二宮以外の人を主人公にした完全新作にして欲しいですね。
(追記ここまで)
度々述べてきましたが、8番出口は「異変」を抱えながらも、それを無視して逃げてきた人間を誘い込んで成長を促す怪異であると感じました。これは、我々現代人にも刺さる内容のはずです。
お笑いコンビ、スリムクラブの「これが今の日本人です!」と叫ぶ変なおじさんが出てくるコントがありますよね。あのコントでは、「事なかれ主義」を憂いています。8番出口はそれと同じメッセージを、ホラー要素のある人間ドラマとして我々に伝えてくれています。
余計なトラブルに巻き込まれたくない。余計な責任を負いたくない。不安な思いをしたくない。責任が怖い。だから、面倒事は避ける。それが序盤の二宮でした。ですが、8番出口を通して変わりました。序盤では無視していたものの、ラストでは電車で怒鳴られてる女性と赤ん坊を助けに向かった。「事なかれ主義」から脱却できた。「異変」を見逃さずに立ち向かった。本来、人間とはこうあるべきだ、という姿勢をこの映画は伝えてくれています。そして、人はそういう風に変わることができるという勇気を与えてくれる作品でもあります。
私も正直、「事なかれ主義」的な思考で生きてきました。この映画を見て、そんな自分を恥じました。すぐに完璧に変わることはできません。誰しもそうです。8番出口の迷い込んだ人間のように何度も何度も日常の「異変」に遭遇しながら少しずつ変わらなくてはならない。そう思った映画でした。ただのホラーではない、ポジティブな勇気に溢れた映画だと自信を持って言えます。
最後に、飽くまでこれは私個人の見解です。色んな感想や考察があると思います。ぜひ、ご自身が感じ取ったことを大切にして生きていってください。
エンドロールで、ヒカキンの名前が出てきたことに驚きました。どこに出てたのか全く気付きませんでした。