第10話『VSミカンクマ』
幸いなことにクマはまだこちらに気がついていない様子だった。子供を連れてすぐさま木陰に隠れる。
「……うん」
「……そのまんまだったね」
子供たちの言う部分部分の情報を繋ぎ合わせてできた予想のクマの造形。それと寸分の狂いなくそのまんま出されてしまった。
顔は怖いが、正直かわいい。そもそも本当に危険なのか。真ん丸なミカンおててにはどうしても攻撃力があるように思えない。
「わ、わぁ……来ちゃったよぉ」
「あれ危ないのか? どうにも緊張感を無くす見た目してるんだけど……」
「あのクマ怖いんだよ。この森の生態系の頂点だ、ってお父さん言ってた」
「ウェアウルフの頭をもいで遊ぶんだってさ」
「ミカン被ってるクセにとんでもないことしてるわね……」
うん、ダメだわ。よく考えなくても危ないヤツだった。──しかし逃げたくても逃げられない理由がそこにはある。
「わ、わぁぁ……助けてぇ……!」
ユウカは目の前に現れたミカンクマに腰を抜かして驚き、慄いている。その純粋な瞳からは涙も溢れていた。
こちらから顔の見えないミカンクマ。その顔はどれほど恐ろしいのか。少なくとも子供が泣いてしまうほどの恐ろしい怪物が、子供の前に立っている。
「……お前らがあいつに石投げて倒す、とかは無理か?」
「無理だよ! ミカンクマを倒せるのなんて、村でもマナ姉くらいだし」
「だよなぁ」
「不破くん。今すっごいダサいこと言わなかった?」
こんな状況で子供に頼るのはダサいの他に言いようがないだろう。そんなことは百も承知だ。
「知ってるよ。今すっごいダサいことを言った。だってこの場においては、俺や伊落さんよりも、こいつらの方が強いんだぞ?」
「それはさすがに嘘……じゃなさそうだね」
事実だ。たとえ二人が結託して泣いているユウカに襲いかかったとしても、片手で制圧されてしまう。
魔力があるのと無いのとでは、それほどの差が生まれてしまう。
「だけど──俺たちは歳上だ。歳上で、今はこの子たちの保護者だ。無垢な子供を健やかに育つように守るのが、先を生きる者の役目ってやつだろ?」
「……死ぬかもしれないんだよ?」
「そん時は飛鷹に言っといてよ。──『香典は高めに持ってこいよ』ってね」
──木陰から不破は飛び出した。
「俺が囮になる! 伊落さんはその間に髪ユウカを! 子供は動くんじゃないぞ!」
持てる全力を出してクマの前にダッシュ。途中で拾った小石を投げつけ、手を叩き、クマに向かって叫ぶ。
「オラァ! 子供がお前のせいで泣いてんでしょうが! ちょいとお兄さんに着いてきてもらおうか!」
──クマがのっそりと振り返った。口元は真っ赤に染まっており、手元には熟しきって涎が出るほど甘美な匂いを漂わせているミカンがある。
口元の赤色はどう考えてもミカンの果汁の色じゃない。ピンクのブヨブヨしたものがついてるし。
「な、名前が可愛いくせに雑食かよ……どうせならミカンだけ食えや」
そんなものは人間の道理。言葉を理解できない獣はこう考える。『餌が餌を食うのを邪魔しに来た』と。
どうなるのか──予想するのは容易い。
怒り狂ったクマは不破を捕食しようと地を鳴らしながら向かってきた。
「今だ伊落さん!」
「──もう! 私の同意も得ずに決めちゃって!」
悪態はつきつつも、クラスメイトが子供のために命を張っているのに、自分だけ隠れておくなんてことはできない。
走ってユウカを抱きかかえる。片手をブンブン振り回して、不破に奪還したことを伝える。
「不破くん!」
「りょ、了解──」
クマの走るスピードは時速六十キロ。異世界におけるミカンクマはそれ以上の速さだ。
この世界に来ても不破の身体能力は変わらず。百メートル走十二秒の速力では、クマに追いつかれるのに五秒もかからないだろう。
なら──策を考えておくのは至極当然のこと。人類が生存競争に生き残ってきたのは他の種族にはない『知能』を使ったからだ。
地面をえぐりながら急停止。足を引き摺って体を反転し、クマに向かって振りかぶる。
「ギュッてしないと爆発する──お前が一番よく知ってんだろ!」
手に持っていたのはそう──ミカンだ。野球選手が鼻で笑いそうなフォームでクマの顔面に向かってミカンをぶち当てた。
──瞬間、オレンジの閃光がクマの眼前で弾ける。
クマは鼻に神経が集中している。だから襲われた際は鼻を攻撃すれば良い。もちろん最終手段として、だが。
ぶち当てたのはピッタシ鼻。集まった神経にミカンの火花が襲いかかる。
「はんっ! お前相手に真っ向から勝負するかい! こちとら立場の弱さはとっくの昔に理解してんだよ!」
大きく出た隙。このまま逃げるべき──だが、ここは異世界。あらゆるものが規格外な場所。
隙を見せたとしても、すぐに復活して襲いかかってくるかもしれない。子供たちは逃げられても、自分と彩葉は捕まってしまうかも。
「もう一発いってやる──!」
地面に転がっていたミカンに手を伸ばす。時間は有限だ。しかも相手は生態系の頂点に位置する生物。一秒の遅れで『死』が見えてきてしまう。
今こそ──スキルの使い道だ。たとえ一センチでも、使わないよりはマシだ。
──全てはこの時のために。
想像するのは移動する自分。一センチ先へと動く自分。存在しなかった空間に存在をねじ込む──。
「瞬間移動──」
──指にミカンがめり込んだ。
「あ──」
──と、思ったらミカンが吹っ飛んだ。
「……へ?」
なんの脈絡もないミカンの動きに思考が停止する。え、なんで吹っ飛んだの。なんで飛んでったの。
──しかし考えてる暇はない。クマが涙を流しながら睨みつけてくる様子を視界の端に捉え、またすぐに体を動かした。
隣にあったミカンを掴んでスローイン。再度襲ってこようとしたクマはカウンター気味にミカンの直撃を喰らう。
弾けるミカン。怯むクマを横目に全力でクマの横をダッシュ。暴れる腕を紙一重で回避して子供たちの元へと走った。
「逃げるぞチビ共! 伊落さん!」
命が助かってユウカ彩葉に抱きつきながら号泣。涙止まらぬ感動シーン──はやってる暇などない。ユウカを抱えた彩葉と不破は二人の子供を引き連れて走り出す。
森の木を糸を縫うように走る。──視界が復活し、追いかけてくるクマには関係ない。極太の木々をなぎ倒しながら、一直線に五人を追いかけてきた。
「全然時間稼ぎになってねぇじゃねぇか! もっと怯めやこんちくしょう!」
「いざって時は私たちを置いて逃げてね!」
「そ、そんなのダメだよ!」
「そうだよ! 不破とお姉ちゃんも一緒じゃなきゃダメ!」
「ワガママいうな! でも気持ちはありがとう!」
怒りたいのか、感謝したいのか。これほどの命の危機は初めての経験。不破も半分パニックになっていた。
「どうする……どうやったらこの状況を脱せる……!」
考えろ。考えろ。考え抜け。何か、手はあるはず。神様は乗り越えられない壁など作らないはずだ。……多分。
今ある手札でどうするか。子供を救いつつ、自分と彩葉を救いつつ、クマを止める方法を──
──なんで、ミカンは吹っ飛んだ。
あの時の動きは明らかにおかしかった。どうしてミカンはあんな動きをしたのだ。物理学的に見ておかしい。
物理学……それは地球における絶対の法則だ。この世のものは『物理』から離れることなく行動する。
だが──ここは地球じゃない。ここは異世界だ。地球の感覚でものを考えてはいけない。
「俺は……スキルを使った……」
スキルを使った。不破の保有するスキルは『一センチだけ瞬間移動する』というもの。
どれだけ念じても移動するのは一センチ。クールタイムはきっかし十秒。
それは何度も試したから確実だ。他に持ってる能力なんてない。
ならあの現象は不破が保有するスキルによるものだ。瞬間移動する能力が何らかの影響を与えて、ミカンがあんな不規則な動きをしたのだ。
どうして。思い出せ。何があったのかを思い出せ──。
「──めり込んだ。そうだ、指がめり込んだんだ。あの時」
指が一瞬、ミカンにめり込んだ。吹っ飛んだのはその後だ。
めり込んだ。なんで──瞬間移動を使ったからだ。ミカンに触れる直前に瞬間移動を使ったからだ。
「指がミカンにめり込んだ……完全にじゃない。指先だけだ。指先ちょうど──」
一センチ。一センチめり込んで、吹っ飛んだ。
これが意味することはつまり──。
「瞬間移動した先に物体がある場合、同じ場所には存在できずに吹き飛ばされるのか……!?」
──まったく使えないと思っていたスキルに不破は初めて可能性を感じ始めていた。




