第六話:ケツ踏み
懐朔鎮は、沃野鎮の影に隠れるようにして在った。
六鎮の中でも目立たぬ小鎮で、兵の質も、規律も、沃野鎮に一段劣る。
だがそれゆえに、人の出入りは多く、顔を覚えられにくい。
密偵を潜ませるには、うってつけの土地であった。
その懐朔鎮の兵舎に、一人の新兵がいた。
名を、オムツ=セイカツ。
年の頃は二十前後。
痩せすぎず、太りすぎず、どこにでもいそうな顔立ち。
声も低すぎず高すぎず、訛りも薄い。
——印象に残らない、という点において、これ以上の素材はなかった。
彼は今、北魏の兵として、槍の柄を握り、泥だらけの中庭に立っていた。
「新兵! 列を乱すな!」
怒号が飛ぶ。
オムツ=セイカツは一瞬遅れて姿勢を正した。
その一瞬の遅れすら、周囲の兵は気にも留めない。
(……上出来だ)
胸の内で、そう呟く。
彼はモモジリが選んだ、もう一人のプリケツの密偵だった。
だが、そのことを知る者は、この鎮には一人もいない。
彼は戦が得意なわけでもない。
剣の腕も、槍の冴えも、並だ。
だが一つだけ、誰にも真似できぬ才があった。
並であること。目立たぬこと。
それは密偵にとって、致命的なほど重要な資質だった。
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その日の昼下がり。
訓練が一段落し、兵たちが水を飲んでいると、伝令が駆け込んできた。
「沃野鎮にて——密偵、発覚!」
場が凍りついた。
「何だと……?」
「どこの間抜けだ」
「生きてるのか?」
ざわめきが広がる。
オムツ=セイカツは、水袋を持つ手を、ほんの僅かに止めた。
(来たか……)
伝令は続ける。
「詳細は不明。ただし、鎮内の検問が一斉に厳格化されたとのこと!
懐朔鎮においても、同様の措置が取られる!」
部隊長が一歩前に出た。
「全員、集合だ!
これより——“試験”を行う!」
兵たちの顔色が変わる。
「試験……!?」
「一体何をするんだ……」
兵士たちが口々に呟く。
「一人ずつ前に来て、俺のケツを踏め!」
部隊長はそう怒鳴った。
ケツ踏み。
それはケツの一族を摘発する、最も手早い方法。
理由は単純。
味方であれば、躊躇なく踏める。
だが、ケツであれば——踏めぬ。
部隊長は鎧を外し、堂々とケツを向けて立った。
「一人ずつ、前へ出ろ。
余計なことは考えるな。
踏め」
最初の兵が出る。
無言で、力強く踏みつける。
次も、次も。
鈍い音が、乾いた中庭に規則正しく響いた。
誰も躊躇しない。
誰も、迷わない。
オムツ=セイカツの番が、近づいてくる。
(……さて)
彼の胸は、静かだった。
鼓動は乱れていない。
逃げたいとも、叫びたいとも思わない。
ただ——
(踏めば、終わる)
彼は知っていた。
これを踏めば、自分は「北魏の兵」で確定する。
この鎮で、これ以上怪しまれることはない。
だが同時に、それは——
自分が、ケツの一族であることを、否定する行為でもあった。
「次!」
名を呼ばれる。
オムツ=セイカツは、一歩、前へ出た。
部隊長のケツ。
無防備に晒された、その臀部。
踏めばいい。
ただ、それだけだ。
だのに。
彼の足は、上がらなかった。
中庭に、妙な沈黙が落ちる。
「……どうした」
部隊長が、低く言った。
オムツ=セイカツは、視線を落としたまま、動かない。
踏め。
踏めば、終わる。
踏まねば——
オムツ=セイカツの足は、震えたまま、宙に留まっていた。
そして———




