傷弓の鳥
普段よりも地味なドレスに身を包み、深く帽子を被ったアメリアは建ち並ぶ店の前を足早に通り過ぎていく。その隣にいつもあるはずの姿はない。
『一時間で帰ってくること、いいわね?』
諦めたようにため息を吐いて、渋々そう言っていた母親の姿が脳裏を過ぎる。約束を破ったらどれだけ叱られるか分からないと、歩くスピードはまた少し速くなった。
バケモノと呼ばれる存在を忌み嫌わず、将来恥をかかないようにと厳しくも愛情を持って育てられたことをアメリアはよく理解していた。そんな両親には感謝してもしきれないし、これ以上の迷惑はかけられない。ましてや今日は我儘を言って一人で街まで出てきたのだ。自分を信頼してくれた母親を裏切ることになってしまう。
明日は幼少の頃からずっとお世話になってきたアマンダの誕生日。彼女の誕生日を祝いたいと相談したら「今日だけ特別よ」と許可してくれた。きっと今頃、母親がアマンダの気を引いてくれていることだろう。
昔の自分なら一人で街に行くなんて周囲の目が怖くてできなかったと思う。でもエマと一緒に街に出掛けるようになって、こんな私でも大丈夫かもしれないと思えるようになった。
目当てのお店はもうすぐそこ。
何度かエマと一緒に来たことがあるから店主とも顔馴染みだ。このお店のハンドクリームは香りも効能もいいと評判だった。仕事の影響で手が荒れがちなアマンダのため、アメリアは随分と前からここでプレゼントを買おうと決めていた。
カランカランとベルの鳴る音がして、店の奥から「いらっしゃいませ」と声が飛んでくる。それを合図に中にいた全員の視線がこちらに集中した気がして、居心地の悪くなったアメリアは耐えきれず顔を伏せた。
帽子だって被ってるから、彼女たちを直視しなくて済む。けれど、彼女たちの反応が怖くて入口で固まったまま動けない。したくもないのに、ぴんと張り詰めた神経が敏感に様子を伺おうとしている。
他人の目を気にして日陰で生きてきたアメリアとは対照的に、自分のやりたいように真っ直ぐに生きてきた令嬢たち。お店に入っただけなのに、心臓がバクバクとうるさい。
住む世界が違うと、はっきり告げられた気分だ。いっそこのままUターンしてしまいたいとさえ思ってしまう。そんな弱い自分に自己嫌悪していれば、ひそひそと話す声が聞こえてくる。
「ねぇ、もしかして噂のコリンズ嬢じゃないかしら」
「やだ、わざわざ一人で何しに来たの」
「お揃いのものを持ってたら馬鹿にされてしまうわ」
「いつも顔を隠してるなんて気味が悪いわね」
不躾な視線、遠慮のない悪口。聞こえても構わないのだろう。アメリアが傷ついたとしても、彼女たちにとってそれは取るに足らない些細な出来事なのだから。
いつも盾になってくれるエマもアマンダも今日はいない。最近は二人が睨みを利かせているから忘れていたけれど、アメリアが嫌われ者であることはいつだって変わらない。
傷つくことに慣れたと思っていても、心は素直だ。言葉のナイフは悪意を持ってアメリアの心にグサグサと突き刺さり、背中をじんわりと嫌な汗が伝った。
「ほんと、バケモノみたいよね」
そんな一言が耳に入った瞬間、アメリアはベールを被るきっかけになった出来事を思い出した。
◇◇
――それは、遠い昔の記憶。
アメリアがこの国の第三皇子の婚約者だった頃に話は遡る。
先祖代々コリンズ家は宰相を務めてきた、堅実で優秀な家系だった。皇帝陛下の右腕として信頼も厚かったため、アメリアはこの世に生を受けるとすぐに二歳上の第三皇子の婚約者に選ばれた。
物心つく前に決められた運命。アメリアはそれを窮屈に思うことなく、未来の夫のために厳しい妃教育も乗り越えていた。
初めて彼と顔を合わせたのは、アメリアが五歳になる誕生日だった。
将来を共にする婚約者を祝おうと遠路はるばる伯爵家までやってきた第三皇子は少し緊張した面持ちで頬を赤く染め、それでも微笑みを絶やさずに恭しくアメリアの手を取った。
「はじめまして、アメリア嬢。そして、お誕生日おめでとう。貴女が産まれた今日という日にお会いできたことを嬉しく思います」
コリンズ家自慢の庭園の花々がさらさらと清かな風に揺れる。それはまるで二人の出会いを祝福しているかのよう。
顔合わせの日程が決まってから今日まで、夢に見るほど何度も繰り返し作法を練習してきたアメリアは失敗を許さない。ドキドキと高鳴る心臓の音を悟られないよう、綺麗な微笑を浮かべて頭を垂れた。
「はじめまして、殿下にお会いできることを心待ちにしておりました。今日はお越しくださりありがとうございます」
全ての負の感情を隠し通し、マナー講師も感涙するほど完璧に振る舞ってみせたアメリアに降ってきたのは、控えめで上品な笑い声。
「ふふ、アメリア嬢は噂通りの方なんだね」
「……?」
「貴女が私の婚約者でよかったということだよ」
「……もったいないお言葉です」
曖昧に誤魔化されて理解が追いつかないアメリアは、素直に褒め言葉と受け取って再び頭を下げた。
そんな彼女の様子を見つめていた第三皇子は、最初の緊張はどこへやったのか、堅苦しい空気は終わりだと言わんばかりに半ば強引に手を引いた。
「ほら行こう、アメリア嬢と話したいことがたくさんあるんだ」
二歳歳上の婚約者――レオン・ヴェンネルベリは、きょとんと目を丸くするアメリアに向かって悪戯な笑みを零すと、庭園の真ん中に用意されたテラスへ彼女をエスコートした。
最初は緊張していたアメリアだったが、彼は第三皇子という身分をひけらかすような真似をすることもなく、二人の間にはただ穏やかな空気が漂っていた。
幼い年齢の割にやはり英才教育の賜物か、物腰は柔らかいのにユーモアがあって、観察眼が優れているからか、気配りも素晴らしい。彼が笑う度にプラチナブロンドの髪がさらさらと揺れる。あまりにも眩しくて、その煌めきからアメリアは目が離せなかった。
(こんな素敵な方と将来を共にするのね……もっと頑張らなくちゃ)
今のままでは彼に見合わないと、アメリアは内心奮起した。レオンに恥をかかせるわけにはいかない。笑い者にするわけにはいかない。
顔合わせは何の問題も起きず、平穏に終わった。そして、その日からアメリアはこれまで以上に妃教育に熱心に取り組むようになった。
微笑ましい二人を周囲の大人たちも暖かく見守っていた。将来一緒になることが決まっているのだ、仲がいいに越したことはないだろうと。
まだ幼いアメリアはそれが恋なのか分かっていなかったが、レオンが彼女を特別に思っているのは周知の事実だった。
そんな甘酸っぱい関係が突然崩れ去ったのは、アメリアが八歳になったときのこと。レオンと出会って、三年が経っていた。
爽やかな風が吹く、よく晴れた夏の日だった。
いつものように、アメリアたちはテラスで向かい合って談笑していた。背の伸びたレオンは十歳だと思えないほど大人びていて、アメリアの知らないことをたくさん知っていた。
「レオン様は何でもご存知で、すごいですね」
「僕なんて、兄上たちに比べたらまだまださ」
「いえ、そんな風に卑下なさらないでください。私がいつも頑張ろうと思えるのはレオン様のおかげなのですから」
レオンから新しい知識を与えられる度、アメリアは自分の世界がどんどん広がっていくようで、ワクワクが止まらなかった。
彼の話についていけるようになりたいと思うと、学ぶことに対する意欲は止めどなく湧いてくる。だからこそ、尊敬している彼が自分自身を卑下するのを許せるはずがなかった。
もちろん、彼の二人の兄が優秀であることは紛れもない事実であるし、アメリアもそれは理解している。けれど、密かに劣等感を抱いていたレオンはまっすぐなアメリアの言葉に表情をふと崩して下を向いた。
(いつだって僕が欲しい言葉をくれるのはエイミーだけだ)
三年の間に彼女の存在はレオンにとってかけがえのないものになっていた。
真綿のように優しく包みこんでくれる愛が心地良い。いつだってあたたかく照らしてくれる、道標だった。レオンはスっと前を向いてアメリアを見つめる。
(どんなときも、エイミーに誇れる存在でいたい)
「エイミー、」
「はい」
陽の光を反射して、キラリと輝く瞳が宝石のようだと思った。この瞳を曇らせるようなことなど、あってはならないと思っていたのに。
「……っ、」
「?」
一世一代の告白。
僕には彼女しかいない。
改めて将来を誓い合いたい。
そう思ったものの、アメリアがあまりにも眩しくて、なかなか言葉にできない。
どうしたのかしらと不思議そうに首を傾げたアメリアは、そんなレオンの顔を覗き込んで目を合わせた。
(嗚呼、きっと兄上たちならこんなときもスマートに対応するだろうに)
生まれて間もない頃に側室だった母親を亡くしているレオンにとって、二人の兄の母親、つまりこの国の皇后陛下から疎ましく思われていることはよく分かっていた。
――出来損ないの忌み子。
それは皇后から放たれた、呪いの呼び名。
レオンにだけ聞こえるようにこっそりと耳打ちされたため、その呼び名を知る者は彼ひとりしかいない。
一国の皇子であるレオンにとって、あまりにも不名誉な呼び名は彼を苦しめるには十分だった。
レオンは何もしていないのに、ただそこに存在するという事実が皇后の機嫌を損ねたのだ。だから憎悪溢れる瞳で睨みつけられ、時にはいないものとして扱われる理不尽にもただ耐えるしかなかった。
その度に呼吸が浅くなるほど恐怖し、フラッシュバックして眠れない夜を過ごしたのは数え切れないほど。幼い彼は皇后の反感を買わないよう、完璧を演じられるように努力するしかなかった。
そんな彼が初めてそばにいてほしいと願った相手、それがアメリアだった。
この世の悪なんて知らない、純粋な瞳にすべてを見透かされているような気持ちになる。そうして、あの呼び名を思い出してしまって自己嫌悪。
彼女にだけはバレたくない。つきんと胸の奥が痛んで、眉間に皺を寄せればアメリアが口を開いた。
「レオン様、」
宝石の瞳にじんわりと涙が浮かんでいる。理由は分からないけれど、それを拭ってあげたくてレオンは指を伸ばした。
「レオン様は『出来損ないの忌み子』じゃないです。私は、」
――ビクッ。
何を言われたのか、まるで理解できなかった。
驚きで動きが止まって、アメリアが話し続けているのに何も頭に入ってこない。
今、彼女は、何と口にした?
どうして誰も知らないはずの呼び名を知っている?
かあっと頭に血が上る感覚がした。
気づいたときには立ち上がって、ばっと掴んだ目の前のグラスの中身を彼女の頭にかけていた。
「どうしてその呼び名を知っているんだ!」
「ッ、レオン様、」
「近寄るな、このバケモノ!」
そこまで言って、ハッと我に返る。
ポタポタと、綺麗な金髪から雫が零れ落ちるのがひどくスローモーションに見えた。慌てふためいたメイドの声が耳に入ってくる。
戸惑いを隠せない彼女の瞳は揺れていた。
その色は絶望に染まっている。
取り返しのつかないことをした。
そう理解した手からグラスがするりと落ちて、パリンと音を立てて割れてしまった。
貴女だけには知られたくなかった。
このグラスのように、砕け散った自分たちの関係は元に戻れない。
アメリアを傷つけたという事実に自分勝手に傷ついて、大人びたはずの十歳の少年は彼女の全てを失ったのだとすぐに悟った。
綺麗な思い出にするなんて、嘘でも言えなかった。唯一無二ともいえる存在を忘れることなんて、簡単にできやしない。
だけど、無理だった。
アメリアを傷つけておいて、平気な顔をして横に並んでいられるほど、彼は鈍感ではなかった。
こんな自分に彼女を幸せにする資格なんてない。
唇を噛み締めた彼にできることは、後日、婚約破棄の連絡を伯爵家に送ることだけだった。
その手紙を受け取った日からアメリアはベールを被って過ごすようになり、明るい笑顔は滅多に見られなくなってしまった。
――カランカラン。
背後からベルの音がしてアメリアはハッと我に返った。昔のことを思い出すと、一気に心臓がぎゅうっと苦しくなる。
ふうと大きく息を吐いたアメリアは自分が立ち止まっているのが店の入口付近だということに気づき、これ以上他のお客さんの邪魔になってはいけないと足早にその場から去ろうとした。悪意を持った視線の中でプレゼントを選べるほど、強くはなかったから。
「……っ、」
そうして後ろを振り向いた瞬間、アメリアの顔が泣きそうに歪む。ベール越しに合った目は何を考えているのか分からない。
あの日から癒えない傷がまたじくじくと痛み始めた気がして、踏み出そうとした足が止まってしまった。
「これはこれは、レオン殿下じゃありませんか」
珍しい来客の正体に気づいた店主が笑顔を浮かべながらも慌ててやってくる。どうか人違いであってほしいという願いは、あっという間に砕け散ってしまった。
こうして直接お会いするのはあの日以来。彼は幼い頃の面影を残しながらも、高貴に成長していた。
(私だけがあの頃に囚われたままで、何一つ変わっていないのだわ)
元婚約者とは思えないほど、釣り合っていない自分自身。自然とそう思ってしまうことすら惨めで、彼の前に立っていることが恥ずかしくなった。
アメリアは唇をぎゅっと噛み締めると、顔を伏せるようにして足早に彼の隣を通り過ぎた。無礼だと罵る声があったとしても、この足を止めることはできなかった。
一心不乱に行くあてもなく歩き続ける彼女は知らない。レオンが自慢のプラチナブロンドの髪をぐしゃりと掴み、誰にも聞こえないように「くそ……」と呟いたことを。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。だけど忌々しい過去がいつまでも追いかけてくるようで、アメリアは足を止めることができなかった。
できるだけ人気のない方へ、建ち並ぶ店の前をいくつも通り過ぎ、気がつけば閑散としている街の外れまで来てしまった。
ようやく足を止めたアメリアはきゅっと唇を噛み締める。そうしないと、泣いてしまいそうだった。
――ポツリ。
自己嫌悪のため息を吐き出していた彼女の頬に空から雫が落ちてくる。
ぽつぽつと降り出した雨は、次第に勢いを増していく。傘を持っていないアメリアは、寂れた古本屋を見つけて慌てて軒先に駆け込んだ。
どうやら今日は休業日らしく、「CLOSE」と書かれた張り紙が入口のドアに貼られている。
気がつけば、さっきまで疎らにあった人影はきれいさっぱりなくなっていた。
ひとりだと自覚した途端、心臓がぎゅうと痛んだ。ザーザーと降りしきる雨粒のせいか、アメリア自身の気持ちの問題か、どよんと重たい空気が立ち込める。
何もかも上手くいかない。
そういう星の元に生まれてきたと、受け入れてしまった方が気が楽になりそうだった。
けれど、アメリアはそんな弱い自分に負けたくなかった。
その場に蹲ってしまいたい気持ちを抑え、彼女は凛と立ち続けていた。コリンズ家の娘として、誰も見ていなかったとしても己の弱い部分を表に出すことは許されないから。
きゅと口を真一文字に結び、深く息をして気持ちを落ち着かせる。「大丈夫」と何度も言い聞かせれば、少しずつ体の震えも収まってきた。
けれど、降り出した雨は止む気配を見せない。
門限は刻一刻と近づいている。過保護なアマンダのことだ、アメリアが長い時間姿を見せていないことに気づいたら屋敷を飛び出してしまうだろう。
そうなる前に帰らなきゃと思うが、この雨の中を傘もささずに歩いていく気持ちにはなれなかった。
どうしようと灰青色の空を見上げていれば、ザーザーという雨音に混ざって微かにコツコツと足音が聞こえてくる。
――誰か来たわ。
それにいち早く気づいたアメリアは、下を向く。
雨の中、お付きの者もつけずに嫌われ者の訳あり伯爵令嬢が店の軒先に立っている。そんな姿を目にした人にまた良からぬ噂を広められる、それを危惧してのことだった。
(早く通り過ぎて……)
しかし、彼女の切実な願いは届くことなく、アメリアの元に足音が確かに近づいてくる。
彼女の前でぴたりと止まった足音。びくりと体を震わせるアメリアの視界に入ったのは、男性物の黒い革靴だった。
「……アメリア様?」
聞き覚えのある低い声が自分の名を呼ぶ。
まさかと思いつつ、恐る恐る顔を上げれば想像した通り、ルーカスが目の前に立っていた。
漆黒のコートに身を包み、心配そうにこちらの様子を伺っているルーカス。その姿を認めると、張り詰めていた緊張の糸が切れたアメリアの瞳に涙が滲んだ。
「……ルーカス様」
「っ、」
いつものベールが涙を隠してくれたけれど、震える声までは誤魔化せなかった。
ルーカスは彼女に一歩歩み寄るが、そこからなかなか動けない。今日も今日とて、業務という名のストーキングを行っていたルーカスは彼女の身に何が起きたかを全て知っている。
だからこそ、騎士としての気遣いと己の欲の間で葛藤していた。
(嗚呼、その瞳から流れ落ちる涙はどれほど甘美なものだろうか。だが、その相手がたとえレオン殿下だとはいえ、他の男を思って流す涙は気に食わない。すぐにでもその涙を止めて、貴女の心を俺で満たしてくれないだろうか。くっ、妄想の中では傷心した貴女を力強く抱き締めて慰められるというのに……。現実世界のアメリアはあまりにも神々しくて、手を伸ばすことさえ憚られる。しかし早く泣き止んでほしいと思う反面、涙を流すアメリアもまたいつもと違った美しさで惚れ惚れしてしまうのも事実。突然天候が変わったのだって、悲しむ彼女の心にリンクして神が雨を降らせているのだろう。天候まで操れるアメリアはまさに女神。ああそうか、これは恵みの雨か。ならば、この雨を貯めて美しい湖を作り、アメリア湖と名付けてしまえばいい。その湖畔に家を建てて、そこに永住しよう。勿論、その時はアメリアも一緒に……)
まさか誰も、冷静沈着で紳士的なこの男が脳内で目の前の女性をめちゃくちゃにしているとは思うまい。
「こちらを」
そう言って、ルーカスは手に持っていた大きな黒い傘をアメリアに手渡すと、「では」と立ち去ろうとする。
本音を言えばもっとアメリアの傍にいたかったが、少し雨に濡れた彼女の破壊力は凄まじい。理性の糸が切れる前に退散せねば、ルーカスは自分がどうなってしまうか分からなかった。
「っ、お待ちください」
縋り付くようなアメリアの声を無視できるはずがない。雨に濡れながらゆっくりと振り向いたルーカスは、いつもと変わらぬ無表情を貫いていた。
「どうして私なんかに……」
「私は先程まで任務を行っていたので、今更汚れようが関係ありません。ただ、綺麗な貴女を汚したくないのです。どうか私の我儘を聞いていただけませんか?」
「醜い」とか「バケモノ」とか、罵倒するような言われることはあっても、こんな風に真正面から「綺麗だ」と言われた経験がなかった。ぽぽぽと頬に熱が集まって、胸の奥がじんと熱くなる。気恥ずかしさと喜びで、なんだかそわそわしてしまう。
だけど、そこは心優しいアメリア。気になる男が自分のために犠牲になろうとしている姿を、そのまま受け入れるはずがなかった。
「そんなこと……。こんな雨に濡れては、ルーカス様だって風邪を引いてしまいますわ。私のことはお気になさらないでください」
「――ッ」
いじらしいアメリアに心を打たれたルーカスは、すーっと息を吐き出すと目頭を摘む。熱いものがこみ上げてきて、今にも溢れ出しそうだった。
(尊~~ッ! その美しい顏は見つめているだけで最高の治療薬になり得てしまうのに、それだけでなく、聖母もびっくりな優しさの塊。清らかな御心の前では、俺なんて下卑た心の持ち主はただひれ伏すことしかできない。嗚呼、エイミー。どこまで俺を夢中にさせるんだ。エイミー万歳! エイミー・イズ・ゴッド! 天使は神をも凌駕する……!)
心の中でミニルーカスくんたちが万歳三唱しているのに、それをおくびにも出さないルーカスは、アメリアの方に戻ってきて淡々と告げる。
「では僭越ながら、私に貴女を家まで送り届けるという大役を与えていただけますか?」
「そんな……、私などのためにお疲れのところ申し訳ないです……」
「御自身を卑下するような言い方は、私はあまり好きではありません。アメリア様は――……」
この広い世界で唯一無二の尊い御方なのですから。
ついうっかり、勝手に口が動き出すのを間一髪のところで止めたルーカスは、誤魔化すように咳払いをひとつ。
ルーカスの言葉にハッとしていたアメリアはそれを気にする余裕がなかったようで、ルーカスはバレないようにほっと息を吐いた。
いけない、アメリアの前だとどうしても感情の昂りのままに行動してしまう。何にも興味を示さない無表情で硬派な騎士と言われているのがおかしくて笑ってしまうほどに、彼は自分の心に素直で貪欲だった。
「もし……、もし、ルーカス様の面倒じゃなければ、その、一緒に傘に入りませんか……?」
「……!」
言いにくそうにしながらも、頬を赤らめたアメリアが小さな声でそう提案する。思ってもいなかったお誘いを耳にしたルーカスは、その瞬間、目をかっと見開いた。
しかし、彼が口を開く前に何かに気づいた様子のアメリアが、失言したと言わんばかりにハッと口元に手を当てる。
「あ、ごめんなさい……。私は兎も角、ルーカス様の大事な方を傷付けるところでしたわ。勘違いさせてはいけないもの、やっぱり、」
「貴女と噂になっても、私には何の問題もありません」
もしも誰かに見られたら、狭い社交界で一瞬のうちに広まり、ルーカスの婚約者や恋人がアメリアとの仲を勘違いして傷付くだろう。
それはいけないと発言を取り消そうとしたが、ルーカスはきっぱりとした口調でそれを遮る。零れ落ちてきた幸運のチャンスをみすみす逃すことなど、彼が許すはずがなかった。
(むしろ、噂になって、俺とエイミーの仲を公然のものにしたいぐらいだというのに……。エイミーと相合傘? そんなの、したいに決まっているだろう。自分に対する好意に鈍感なエイミー、どうかいつまでもそのままでいておくれ。外堀なら少しずつ少しずつ埋めておく。本当は君のことを密かに想っている人が俺以外にもいるなんて、未来永劫、知らなくていいから。俺にだけ、その愛らしい笑顔を向けておくれ)
その思考、およそ0.3秒。
紳士の仮面を付け直したルーカスはふわりと柔らかく微笑むと、アメリアに傘を差し出した。
「どうぞ、(私の愛しい)マドモアゼル」
「ありがとうございます……」
これ以上ルーカスの時間を奪う方が問題だと、遂に折れたアメリアがおずおずと傘の中に入った。雨を遮る音が近く聞こえて、胸のドキドキは掻き消されそうなのが救いだった。
「濡れていませんか?」
「はい……」
耳元で囁かれると、そこから熱が広がって全身がむず痒くなる。なんてことないように平然としたフリをするアメリアは、傘を傾けすぎたルーカスの半身が濡れていることには気づけなかった。
突然の雨の影響もあって人通りは少なく、ルーカスはアメリアと二人きりという至福の時間を誰にも邪魔されずに、彼女を家まで送り届けることに成功した。
濡れた半身は冷えきっているけれど、これぐらいなんてことない。むしろ、すぐ隣から感じるアメリアの熱と香りにくらくらして、正気を保つのが精一杯だった。
「すみません、お足元の悪い中、こんなところまでわざわざ送っていただいて……」
「これぐらい、どうってことないですよ。貴女の綺麗なお召し物が濡れずに済んでよかったです」
柔らかな微笑みを浮かべたルーカスは、紳士の仮面を貼り付けて首を横に振る。
もちろん、色気の最大値に達した雨に濡れるアメリアの姿も見たいが? ぽたぽたと雫を垂らしながら自分を見上げてくるアメリアなんて、庇護欲掻き立てまくりで大歓迎だが??
しかし、弱った様子のアメリアにそれを強いるルーカスではない。騎士の風上にも置けないようなことは、彼の少し歪んだ常識を以てしても許されなかった。
まぁ、雨に濡れて少しえっちなアメリアも拝みたいと、その夢はいつか絶対に叶えてみせると、欲深いルーカスは内心密かに意気込んではいるのだけれども。欲望リストにしっかりと書き連ねられたところで、ルーカスは踵を返そうとする。
「あの、ルーカス様」
「何でしょう?」
アメリアの控えめな声は雨に打ち消されてしまいそうなものの、ルーカスの耳にだけはしっかりと届いている。最早、愛が為せる業だった。
他人が見たら恐怖を感じるほどのスピードで反応して瞬時に振り返ったルーカスは、何かを言おうとしながらも、もじもじと躊躇っているアメリアをじっと見つめ、彼女の言葉を待つ。
そんな姿でさえも記憶の一ページにしっかりと刻みつけようとして、真剣な眼差しになってしまったのはしかたがない。
「その、もしよろしければ、……あの、私に何かお礼をさせていただけませんか?」
「お礼……?」
「はい、私に何かできることがあれば、なんですけど……」
尻すぼみになっていく言葉を受け止めたルーカスは、ふむと少し考える。そして、思いついたものを口に出していいものか、躊躇していた。
「どんなことでも、本当に些細なことでいいんです。お力になれれば、それで……」
「どんなことでも、と仰いましたか?」
「は、はい……」
本当にこの男にそんなことを言っていいのか。答えはノーだ。彼の頭の中をまだ知らないからこそ、出てきた言葉に過ぎない。
ずいと身を乗り出したルーカスのただならぬ圧にアメリアは思わず一歩後退るけれど、言ってしまった言葉をなかったことにはできない。
「では、……貴女の一日を私にくれませんか?」
鋼の心臓を持つ男も、この時ばかりは緊張で声が震えた。
アメリアの中に自分という存在をもっと刻み込みたい。アメリアのいろんな顔が見たい。アメリアとデートがしたい。そんな欲望をぶつけてみたけれど、断られたら一生彼女に近付く気にはなれないほど落ち込むだろう。
けれど、今の距離感をずるずると続ける気はなかった。今日、アメリアは元婚約者と邂逅してしまったのだから。彼女と彼の間にある未練が、今後二人の関係にどんな影響を齎すか分からない。
ルーカスは怖かった。第三皇子という身分でありながら、アメリアと婚約破棄して以降、婚約者を作っていないレオン・ヴェンネルベリという男が。
アメリアの中に、もし彼に対する未練が残っていたら……。そう考えると、不安で胸が押しつぶされそうだ。
そんな嫉妬と焦りに塗れたルーカスの心情も知らず、アメリアは嬉し恥ずかしくて思わず口元を手で覆った。つい表情が緩んでしまったのを見られたら、嫌われると思ったから。
「……貴重な一日を奪って、ルーカス様の負担にはなりませんか?」
「はい」
寧ろ、活力を始めとするいろんなものが溢れて大変なことになってしまいそうだ。
「それなら、……私でよければ、よろしくお願いします」
「っ、本当にいいんですか!?」
「はい、……あ、断った方がよかったですか? すみません、社交辞令とも気付かず、」
「違います! 私は本気です。正直、駄目元でお誘いしたので、嬉しくて……。つい声が大きくなってしまいました」
すみません、と頭を下げるルーカスだったが、その表情は普段と違って明るいものだった。それは、そんなに自分と過ごすのが嬉しいのかと、アメリアにもまっすぐ伝わるほど。
「またすぐにご連絡します」
「はい、お待ちしております」
「では」
甘い空気を残したまま、ルーカスはその場を立ち去った。まさに天にも登るような気持ちだった。浮かれてしまって、どうやって自分が帰ってきたのかも思い出せない。もしかしたら、本当に五センチぐらい浮いていたかもしれない。それぐらいふわふわして、夢のようだった。
(嗚呼、今日はなんて素晴らしい日だ。エイミーと肩を並べて歩けただけでも遥かな成長だというのに、デートの約束まで取り付けてしまうなんて……。今日をエイミー記念日として、国民の休日にした方がいいのではないか。 いや、その申請も大切だが、早く日程を決めないと。善は急げ。溜まりまくった有給休暇は、この日のために取っておいたと言っても過言ではない。今日過ごしたものの数十分でこんなに満足しているというのに、一日もエイミーと過ごしたら俺は一体どうなってしまうのだろう。星百のレビューを書いて提出すべきだろうか。嗚呼、俺のエイミーが顧客満足度ナンバーワン過ぎて辛い。一生推す。永久指名すること、決定。
はぁ……、長年の欲望が溢れ出さないようにしないと。天然であざと攻撃をしかけてくるから、俺のブレーキが壊れてしまう可能性がある。彼女を傷付けることだけは絶対にしないと誓おう。……いや、待てよ。もしも、エイミーがちょっと乱暴にされるのが好きなタイプだったら……。うっ、駄目だ。涙目で見上げてくるいじらしいエイミー。素直に自分の思っていることを言えなくて目で訴えるしかない、幼気なエイミー。かわいそうはかわいいのだから、こんなの、とんでもない威力だ。以前はSなエイミーを妄想してイケたが、Mなエイミーだって最高だ。SもMも、俺はどっちだって構わない。両方だって、喜んで歓迎する。エイミーなら、何でも美味しくいただけるに決まっているのだから。
嗚呼、自分に彼女の香りが移っている気がして、幻覚が見えてくる。……今宵も彼女を抱いて眠ろう。いい夢が見られそうだ)
気付いたら自室に辿り着いていて、ルーカスはなかなか収まらない興奮を落ち着かせるために部屋中をぐるぐると歩き回った後、ベッドに飛び込んで喜びを爆発させた。
一方、アメリアは自分が妄想の中でそんな風に汚されているとは露知らず、約束のことを思い出しては嬉しそうに表情を緩ませていた。アマンダへのプレゼントは買えなかったけれど、それはまた今度、改めて用意しよう。今はこの感情を大切に抱き締めていたかった。
◇◇
――帝城にて。
時は少し遡り、レオンは三人の兄弟たちと共に夕食の席に着いていた。
いつもの穏やかな笑顔ではなく、分かりやすく浮かない表情をしているレオンに兄二人はどうしたものかと目配せし合う。
半分しか血の繋がっていない弟だが、大事な存在ということに変わりはない。長兄・ライアンも次兄・リアムも、レオンが幼い頃から自分たちに遠慮して、一線引いていることに気付いていた。
賢いレオンのことだ。後継者争いを避けるために、自分を犠牲にしてきたことを兄たちもよく分かっていた。
食事が喉を通らないほど、嫌なことがあったのだろう。すっかり食べる手を止めてしまったレオンを見て、兄二人は頷き合った。
「あー、レオンは今日街に行ってたんだっけ?」
「…………はい」
「(暗っ……)」
聞いたことのないほど、低い声。あまりのテンションの低さに声を掛けたライアンは、どう会話を広げていいか分からなくなる。そんな兄をフォローするように、今度はリアムが口を開いた。
「何か嫌なことでもあった?」
「……!」
歯に衣着せぬ聞き方に、ライアンが「おい、そんなストレートに聞いて大丈夫か!?」と焦る。対するレオンはそんな風にしているつもりはなかったのだろう、弾かれたように顔を上げて眉を下げた。
「言いたくないならいいんだ。でも、話して楽になるなら兄さんたちがいくらでも聞くよ」
「ルイも聞くー!」
「うんうん、ルイは偉いなぁ」
ご飯に集中していた末弟のルイが「はーい」と手を挙げる。話の内容は理解していなかったが、ブラコンのリアムはそんなルイにでれっと表情を緩ませた。
「…………」
――エイミーに会った。
その一言で、敏い兄たちはきっと察するだろう。
後悔ばかりに囚われて、未だにあの日の夢を見る愚かな自分。あの日をもう一度やり直せるのなら、彼女を手放すような真似なんて絶対にしないのに。
久しぶりに顔を合わせた彼女はあの頃と変わらず清廉で、そこに女性らしい美しさが加わっていた。
(僕があの綺麗な顔にベールを被せたんだ。今更謝ったところで、この罪は消えることがない)
今日、アメリアがどんな顔をしていたのか。自分に会って、何を思ったか。レオンには何も分からなかった。あんなにアメリアのことを理解していると思っていたのに、今の彼女のことを何も知らないのが苦しかった。
「嫌なことはきっと寝たら忘れるさ」
「ああ、今日はゆっくり休みなさい」
「…………はい、ありがとうございます」
一人だけ、血が異なる自分。優しくて優秀な兄たちへの劣等感も加わって、顔を上げることもできなかった。
レオンが唇を噛み締めながら席を立とうとした時、ルイが口を開いた。
「喧嘩したときはね、仲直りすればいいんだって。お兄様が言ってたよ」
「……僕たちは、仲直りもできないんだ」
「どうして? 謝ったのに許してもらえないの?」
「……っ、」
末弟の言葉にハッとする。言い訳ばかり並べて、これ以上傷付くことも傷付けることもしたくなくて、あの日からずっと逃げ続けてきたんだ。
だけど、違う。そうすべきじゃなかった。
ちゃんとエイミーの話を聞いて、「酷いことを言ってごめんね」って謝るべきだった。
十歳ですら簡単に答えを導き出せるのに、僕は何年も何をしていたんだ。
「……そうだね、ルイの言う通りだ」
「仲直りするの?」
「うん、ずっとこのままはやっぱり嫌だから」
ごめんね、エイミー。
僕を許さなくていい。これが自分のエゴだって分かっている。だけどお願い、君にちゃんと謝りたいんだ。
決意を固めたレオンは、手で顔を覆って机に伏せた。いつもの凛とした彼なら絶対にしない行動。その瞳からは熱い涙が流れ落ちていた。