【二】 シャコウバ
【二】 シャコウバ
降って湧いたように決まった「バイト」の、集合場所は駅前。
僕は学校から一度帰宅して、シャワーを浴びて、外行き用のリュックに一泊分の荷物を詰めてから家を出た。
徒歩五分足らずのところにある、小さなビルと一体になった駅前・西口のロータリー、その一角のバス停の待合で、制服姿の千夏先輩が本を読んでいた。
やたらキラキラした装丁の、図鑑並に大判な書籍の題名は『超常の目覚め方』、先輩の愛読書だ。いまだこれを読んでいるということは、まだその手の力には目覚めていないらしい。
というのは、さておき。
「お待たせしました、千夏先輩」
「ううん、待ってないよ」
「まだ何も言ってないです。それに見たところ、先輩は僕と違って駅直行のようですから、実際待ったでしょうに」
「帆高くん、これは粋ってやつじゃんか。手紙の前につける時候の挨拶と一緒で、逢引には必須のセリフなの」
「またそんなこと言って」
僕はため息をつく。
逢引、なんてこの人が思っているわけがない。そのあたりの気合の違いは、僕らの服装にも表れている。
シャワーを浴びた成り行きで、服装をクルーネックのTシャツとカーゴパンツに替え、通学カバンを大きめのリュックに持ち替えてきた僕。片や、制服姿も所持品もそのままで、ほとんど手ぶらといっていい先輩。
これが逢引なら、盛り上がっているのは僕だけだろう。
「ところで先輩、泊まりの準備はそれでいいんですか。あまりに着の身着のまま過ぎません? 一度帰って、身支度を整えて来てからの方がいいんじゃないですか」
「大丈夫、大丈夫ー」
こちらの心配をよそに、先輩は本を通学鞄に押し込んで、バス停の席から腰を上げる。
すらりと立ち上がった長身の後ろで、きれいな黒髪が風に乗って翻った。
普段は一時間そこらしか時間を共有しないこの人と、今日はこれから朝まで一緒にいるのかと思ったら、少しだけ胸がざわついたような気がした。
夕刻の西口ロータリーは、仕事帰りのサラリーマンたちがバス停に列を作っていたり、学生がたむろしたりしていて騒がしかったけど、駅の構内を反対側に抜けると、すっかり静かになった。
こちら側は東口で、西口と違ってコンビニの一つもなく、閑散としている。あと、この時刻は駅ビルの影になるから、やたらと薄暗い。
急に色合いを変えた景色に、ちょっと寒くなるかなと身構えたけど、Tシャツ一枚で十分なくらいには暖かくてほっとする。
「南国に住んでると、季節感なくなりますよね」
「だよね。秋口って言うには、道がトロピカル過ぎるもん」
僕らが歩いている駅前の街路には、葉っぱがギザギザとした、背の高い南国由来の植物が植えられている。
「ここは一つ、まだ夏ってことにならないかなあ」
「目先の受験から目をそらさないでください。本州の人は今頃、コートにマスクで、年末の試験をポシャらないように防備してるというのに」
「夏っていえばさ……」
僕の話を完全に無視して、先輩が切り出す。
「今年の夏休みは楽しかったよね」
青信号の横断歩道を渡ると、トロピカルロードからは離れ、雑居ビルの間の細い路地へと入っていく。
「夏休みですか。……まあ、はい」
「なーんでそんな苦い顔するの!? オカ研で過ごす初めての夏、刺激的だったでしょ?」
「まさか僕も、はるばる県をまたいでまで、先輩のリサーチしてきた『パワースポット巡り』をさせられるとは思いませんでした。電車移動、きつかったなぁ」
あれは……思い出すだけで、お尻が痛くなってくる。
数十か所を地方の私鉄で巡って、まあそれなりに思い出もできたけど、貧乏私鉄の作りが甘い座席に長時間揺さぶられたせいで、貰ったパワーも全部落としちゃったような気さえした。
アスファルトの道を進む後ろから、先輩の弁解が聞こえた。
「大変な部分には目をつむってよ、あれは言うなら『劇場版』の活動だからさ。だって超常現象っていうのは本来──」
その言葉の先を、僕は奪い取る。
「日常の中にある、ですよね?」
超常は日常の中に。それは先輩の口癖だった。
そういう意味では、夏の遠征は、まさしく「劇場版」と言えるかもしれない。
普段は「立地がいいのになぜか店が潰れる呪いの場所」とか、「身につけていると運気が下がるキーホルダー」とか、そういう身近なくだらないことを調べているわけだから。
お株を奪われたというのに、千夏先輩はニヤニヤとしていた。
「帆高くんも、なかなかわかってきたねぇ。私の教育の賜物かな?」
「さあ、でも今回ばかりは、先輩のモットー通りにいきますかね」
そこで僕は足を止める。
正面は、黒ぐろとしたシルエットの雑木林がざわめく、一本道の行き止まり。
その左手側、道路に面して戸建の住宅が並ぶ一角の端に、僕らの目的地があったからだ。
……ネオジョウの姿は、相変わらずだった。
隣の民家と比べると、明らかに背の高い三階建ての建築物は、壁面が朱色に塗られ、模様入りの太い円柱が、正面扉を挟むようにして屋根を支えている。一見した感じは、まるで中華料理屋だ。
そんな派手で不気味な外見の中でも、一際目立っているのが、突き出した入り口部分の上に鎮座した、金色の立体招き猫である。経年劣化のせいで、あちこちひび割れた顔についた、円形の黒い瞳が、僕らを虚ろに見下ろしていた。
これが、僕らが「ネオジョウ」と呼ぶ、古くからある建造物だった。
あそこの管理人を名乗るコオリ氏は、ネオジョウを商業施設にするために改装工事を行ったらしいけど、残念ながら外観までは手をつけられていないらしい。
壁のひび割れも、埃っぽい窓も、そしてネオジョウの象徴たる巨大招き猫も、すべて僕の記憶の通りだった。
「あんなところに突入するなんて、まさしく『劇場版』展開ですよ」
「なら、夏以来三ヶ月ぶりの上映ってわけだね。いい頃合いじゃない?」
いまいち緊張感のない素振りで、先輩はずんずんネオジョウに近づいていった。
入口の扉の前に掛けられていた鎖をためらいもなく外し、ノブの上の鍵穴に、コオリさんから渡された真鍮の鍵を挿入する。
「なんかこの鍵穴、入れた感触が気持ち悪いなぁ」
手元を見ながら、先輩は妙な苦情を申し立てていたけど、すぐに鍵穴が回る音がした。
小さい頃から近所にあって、それはもう、気にはなっていた「オバケ屋敷」の中身が、いま明かされる。そう考えたら、ちょっと胸が高鳴ってきた。
ごくり。
つばを飲み込んで見守る僕の前で、千夏先輩がついにノブに手をかけ、重厚な扉を引き開ける。
──ギィ。
きしんだ音を一つ上げ、ネオジョウはそのはらわたを露わにした。
先輩と一緒に、僕らは建物の内側へと入っていった。
どうやら、コオリさんの話は本当だったらしい。
一階部分は、たしかに「大人の社交場」らしい、広々としたエントランスになっていた。地面にはアジアンテイストのラグが敷かれ、正面にはホテル風のカウンター台が置かれている。壁面には古めかしいランプ風の電灯が並び、仄かな明かりを抱えていた。
見たところ、壁や仕切りのたぐいはなく、古めかしい柱と梁だけが構築する空間は、独特な空虚さを演出していた。
──パタン。
背後で扉が閉まる。いや、千夏先輩が閉じたのだ。
いつの間に取り出したのか、先輩は紫色の薄いファイルを手にして、間に挟まった資料を注視していた。
「ええと、入ったらまずは……」
「なんですか、そのファイルは?」
「ああ、これ? バイトにさしあたって、コオリさんから貰った資料だよ。『指示書』と言い換えてもいいかな」
先輩はファイルを見ながら、扉の方を向いた。
「『チェックリストその一、中に入ったらすぐに戸締まりをする』」
ぶつぶつ言いながら、手を伸ばして先輩が触れたのは、正面扉の中央下部に取り付けられた、ライオンを象った金属の装飾だった。
雄々しく口を広げたライオンのたてがみに触れ、指を立てて力を込めると、小気味よい金属音とともに、たてがみ部分の金属パーツが右に半回転した。
──カチ。
「資料通りなら、これでしっかり鍵がかかったはず」
「また面妖な」
「とっても古い錠前らしいよ。せっかく屋内を改装工事したんだから、こういうのも取り替えちゃえばよかったのにね」
もっともな指摘をする先輩だけど、現状、気になるのはそこじゃない。
「『チェックリスト』とかなんとか、言ってましたけど」
紫のファイルを指差すと、先輩は一つ頷いてから、数枚のページをパラパラと捲ってみせる。
「ここに、私たちがモニターとしてとしてチェックする事項が書いてあるんだよ。といっても、今の戸締まりみたいな簡単な指令がほとんどで、あとは施設の概要図が書いてあるくらいだけどさ」
見たくなったらいつでも言ってね、と付け加えて、先輩はファイルをぱたんと閉じた。
一旦落ち着いたので、僕は入場者らしく、まずはカウンターへと向かった。
入場者の名前を書く紙が置かれていたので、備え付けのペンを使って記名しようとしたけど、どうもペン先がおぼつかない。
「なんかこの部屋、めっちゃ暗いんですけど」
「言われてみればね。電灯の光はあるけど、やたらめったら薄暗いよね」
最近の家ときたら、窓の一つもないのかね! と、遺憾の思いで見渡してみると、よく見れば窓枠はいくつもあった。
しかし、なんと恐るべきことに、そのどれもが分厚い木板を打ち付けられて、塞がれていた。なるほど、これでは暗いわけである。
「冗談でしょう……? なんでまた、こんなことを」
「台風対策かなぁ」
そんなまさか。たしかにこの辺り、台風の数は全国一だけどさ。
「あと塞ぐなら、普通外側でしょうに」
「うーん、廃墟だった頃の名残じゃないのかな。……チェックリストには帳簿の記名もあるから、名前だけすぐ書いちゃってよ」
「アイアイサー」
仕方なく、窓枠からは目を凝らして、二人分の名前を記入した。
・鈴木 帆高
・鈴木 千夏
そういえば──二つ並んだ氏名を見て思い出す。どうでもいいけど、僕と先輩は名字が一緒だ。
ありきたりな名字だから、被るのは仕方ない。けれどその相手が、たった二人きりの同好会活動の相方ともなると、まさか「鈴木先輩」、「鈴木くん」などとは呼び合えない。
だから、僕らがお互いを下の名前で呼びつけているのは、ただの不可抗力であって、それ以上の意味はまったくない。
僕が記入を終えると、先輩が思いもよらないことを言い出した。
「じゃあわたし、先にシャワー頂いてくるね」
「はい?」
耳を疑うとはこのことだった。
「今から自宅に帰って、シャワーを浴びてくるってことですか?」
「違う違う、『ここで』済ませるんだよ。実はあっちにシャワールームがあるんだ」
示した方向は、一階フロアの右奥。薄暗くて気がつかなかったけど、そこには奥へと続く細い廊下の入口があり、天井から案内の板が吊るされている。
【シャワー・ロッカー】
どうやら、先輩の言葉は事実らしい。
「驚きました、あんな設備まで付いてるなんて。温水が出るとしたら、ガスとかも通ってるんでしょうか」
「『チェックリストその三・シャワーが出るか確認してほしい』──とのことだし、ついでだから入っちゃおうという算段だったのだ」
入ってすぐ体を清めるとか、まるで山猫軒……。半分口に出かかったけど、家主のコオリさんに失礼な気がしたのでやめておく。
「出るまでのあいだ、これ持っててね」
先輩は持っていた紫色のファイルを僕に押しつけると、ここよりもさらに仄暗い、不気味な廊下の方にスタスタと歩いて行く。
途中で一度振り返り、彼女はそのしなやかな体に触れながら、いたずらっぽく笑った。
「旅行に来たみたいで、ちょっとドキドキするよね」
「は……、浮ついたこと言ってないで、早く行ってください!」
「もう、張り合いがないんだから」
通学鞄から取り出したヘアゴムで、軽く髪をまとめながら歩いて行く後ろ姿を、僕は黙って見送った。
──さて。
一人残された僕は、早速渡されたファイルを開陳した。中身の冊子の一ページ目には、ネオジョウの間取り図が載っていた。
さらにページを捲ると、千夏先輩の言うところの「チェックリスト」が顔を出す。
実はちょっと疑っていたんだけど、目を通してみれば本当に『三・シャワーが出るか確認してほしい』という項目があった。
なるほど、これを知っていたから、先輩は泊まりだというのに、僕のようにひと風呂浴びずとも平気そうだったんだな。
……待てよ、着替えはどうするんだろう? タオルくらいなら持ってるかもしれないけど、あの通学鞄に、替えの衣服まで入っているとは思えない。
また謎が増えてしまったので、ひとまずファイルからは目を離し、いま一度、自分が立っている場所をぐるりと見渡してみた。
率直に感想を言わせてもらうと……さすがにランプの光だけでは頼りない。商業施設として盛り上げるなら、窓の件を抜きにしても、照明の量は増やすべきだ。
床のラグや壁紙は、真新しくていい感じだけど、圧倒的に暗いせいで、それも魅力が半減だし。
それに──。僕はさらにもう一周、首を回してみる。
壁の一つもない広々としたフロント、その奥にあるシャワールームとロッカー。言ってしまえば、それが一階部分のすべてなわけだけど、その単純さがどうも引っかかった。
うーむ。
顎に手を当てて、名探偵のように考えてみても、胸の中にあるトゲトゲとした違和感をうまく言語化することができない。今はただ、なんとなく変な感じがするというだけ。
「先輩が出るまで、上の階で待つとするかな」
気持ちを切り替えて、一歩踏み出してみることにした。フロントのすぐ左横に、上に続く階段はすぐに見つかった。
ここに突っ立っていたら、湯上がりの先輩とうっかり出くわしちゃいそうだし、これもまた僕の危機回避。
遠くからかすかに聞こえてきた水音から逃げるように、僕は暗い階段を登っていった。
二階へと上がった僕は、その有り様にかなり驚かされた。
一階とは雰囲気ががらりと変わり、正面には洒落たバーカウンター、フロアにはダーツマシンやビリヤード台といった遊戯設備が並べられ、まさに「オトナの社交場」という趣だったからだ。
おまけに、天井の照明には紫色のステンドグラウスが被せられていて、部屋全体が妖しい毒色に輝いている。
これはに流石に、恐れ入ってしまった。さてはコオリさんとやら、二階は本気で改修したらしい。
すぐにでも一息つきたいところだったけど、ワインやリキュールのボトルが並んだバーカンに座るのは、一介の高校生には気が引けた。
代わりに、フロアに点々と配置されたソファの一つに腰を落ち着け、荷物も床に下ろした。
「……ふぅ」
部室を出てからというもの、初めて息をしたような気がした。
カラオケ店とかによくある低反発でマットなソファは、思ったよりも、疲れだとか緊張だとかをほぐしてくれた。
他にやることもないので、足元においたリュックから数学の参考書とノートを取り出して、ソファの前のローテーブルに広げる。
この時間を利用して、期限が近い数学の課題を片付けてしまおうと決意したんだ。
先輩を笑ってばかりいられない、僕だって期末試験に追われている身だ。
それはあたかも、横スクロールのゲームように、人生はいつも単一方向へと進み続ける。今日が終われば明日が来て、試験日だって来て、冬になって、年が明けて、先輩は卒業していく。
それを思うと、なぜか胸の奥が締め付けられて、どことなく肌寒い気がするのも「霊感」とやらのせいだろうか。
余計な考えを頭から追い出すように、僕は数学の問題を解き続けた。
とん──。
二十分ほど経った頃、何かの音で、はっと顔を上げる。
とん、とん、とん──。
遠くから、だんだんと近づいてくる軽快な足音……何かが階段を上がって来る音だった。
足音の位置がちょうど僕の背後のあたりまで来ると、その音色が変化する。
ひた、ひた、ひた──。
床をすり足で、歩み寄ってくる音だ。
間違いない、僕の背後から、何かがこっちに向かって近づいて来ている。
(思ったよりも早く来たな)
率直な感想はそれだった。ネオジョウを初めて見たときから、ここが「本物」だということは感覚でわかっている。
そこに立ち入ってしまっては、相応の〝出迎え〟があるのも当然のこと。
シャープペンシルをローテーブルの上に置くと、全身に力を入れて、勢いよく立ち上がる。
「いいよ……その顔、拝んでやる」
啖呵を切って振り返った僕は、その先にあったものを見て──情けなく叫んだ。
「うわぁっ!」
「きゃっ! なになに? ひとをまるで幽霊みたいに」
そこに立っていたのは、気まずそうな顔をしている千夏先輩そのひとだった。その外見が、あまりにも衝撃的だったもので、思わず叫んでしまったのだ。
乾かしたての髪がしっとりと艶めいていて……とか、そんなことはどうでもいい、先輩はなぜか、白と黒のツートンカラーの絵に書いたような「メイド服」姿だった。
メイド服、と言っても、中世の給仕係の制服ではない。エプロンドレスに、フリルとリボンを付けて華やかに改造したような、あの、メイド服だった。
「秋葉原?」
どこから突っ込んでいいかわからず、とっさに出た言葉がそれだった。
「何をおっしゃる後輩くん、ここは日本の最南端ですよ。ってのは冗談で、着替えとして借りてきたんだよ」
「そのコスプレがですか? っていうか、借りたってどういう……」
困惑している僕の前で、先輩は頭上に顔を上げる。
「『上』にね、衣装部屋があるんだよ。こういう可愛い服がたくさん置いてあってね、貸し出してくれてるの」
うえ。僕らの階層の上、つまり三階ってことか。
「……ん? ちょっと待ってください。千夏先輩、三階に行ってたんですよね? シャワーのあとで」
「心配しなくても、裸でウロウロしてたわけじゃないって。ちゃんと服を着てウロウロしてました」
「っ、僕が気にしてるのはそういうのじゃないです! 一階から三階に行ったってことは、途中で二階を通ってるはずじゃないですか。そしたら、ずっとここにいた僕は気がつくはずです」
課題に集中していたとはいえ、一階フロントから二階へ通じる階段はすぐ近くにある。今さっきもそうだったように、誰かが登ってくれば足音でわかる。
そして何より。
「先輩は階段を『登って』来たんじゃないですか」
そう、千夏先輩は、下から階段を登って現れた。ふいの足音のせいで、幽霊かと勘違いしてしまったけど、その足音だって下から上へと登って来る音だった。
「三階に行ってたなら、普通は上階から『下りて』ここ来るはずです」
「あぁね、そういうことか。本当に帆高くんは、細かいことによく気が行くね」
いやあそれほどでも、と謙遜する暇もなく、メイド服の先輩はあっさりとネタバラシをしてしまった。
「実はね、シャワールームがある通路の突き当りに、もう一つ階段があるんだよ」
「えっ」
「さっき渡したファイルの案内図を見てくれればわかるけど、そのもう一つの階段は三階まで直通のやつで、この二階は通らない。だから帆高くんが気づかなくても、無理はないよ」
「そんな抜け道が……」
先輩の言葉を信じないわけじゃなかったけど、僕は振り返って、ローテーブルの上に置きっぱなしだった紫のファイルを手に取る。
表紙を開き、チェックリストを捲って建物の略図を見てみると、シャワー室の隣に、先輩の証言通りの階段が見つかった。
【Stairs(階段) 1F→3F】
ご丁寧にそんな説明文まで振ってあって、もう一つの階段と区別できるようになっていた。
「逆に言うとね」
先輩は補足する。
「そっちの階段じゃ、二階には来れないの。だから一度一階まで降りて、今後はフロント近くにあるほうの階段を使って、登ってきたというわけ」
「なんだ、そういうことですか」
謎は明快に解かれた、というか、単なる僕の見落としだった。
しかしなんでだろう、モヤモヤと後味の悪い感触が残る。
「そんなことよりさあ!」
目の前で、先輩が明るく話題をすり替える。
心配なくらい「ひらひら」としたメイド服のスカートの裾を持ち上げて、千夏先輩はまっすぐこちらを向いた。
「似合ってない?」
「ああ、よくお似合いですけど」
「えへへっ、そう? ……もっと、もっと続けて?」
「千夏先輩には、和服のほうが似合うと思いました」
「聞いて損した」
ええ、せっかくの黒髪美人なのに。
「帆高くん、三階の様子に興味はある?」
「まあ、はい。ここまで来たら、あちこち探索したいっていうのはあります」
「それなら一緒に見に行こうよ。この施設の使い心地を隅々まで体感するのが、我々の使命でもあるしね」
先輩はもっともらしいことを言ってから、ぼそりと付け加えた。
「それに、先輩を立てられない後輩クンには、報いを受けてもらわないと」
「……え」
「さ、行こ?」
あれよあれよという間に、僕は右手をひっつかまれて、階段の方へと連れ出されていく。
薄暗い一階まで降りた僕たちは、シャワー室ある奥の通路を通って、突き当りの壁に面した階段へと進んだ。
その階段は、二階に登るものより遥かに古く、年季が入っていて、段を踏みしめるたびにキィキィと音を立てた。
そこから、二階層分をまたぐ急な勾配を登りきると、左右に折れた廊下が現れた。
ここまで持参してきた紫のファイルに目を落とすと、向かって西側の奥に【衣装室】とあり、逆に東側は【資料室】と書いてある。
これで目的地は左手側とわかったが、個人的に気を引かれるのはむしろ……。
「【資料室】の方は、また後で見に行こうね」
心を読んだような先輩の一言に、僕は渋々、従うことにした。
廊下を右手に進み、階段を回り込むようにして進んだ先には、ニスが剥げかけた年代物の扉があった。
【資料室】とプレートがあるのを確認し、ノブを捻ると、思ったよりもあっさり開いた。
その先はさすが【衣装室】の名を冠すだけあって、六畳ほどの室内には、カラフルな衣装がびっしりと詰め込まれた横長のラックが置かれていた。そうしたラックの横には、引き戸のついた縦長の物置のような箱が設置されており、すぐに試着用のスペースだと分かった。
部屋の壁には、さらに奥へと続く扉もついているけど、さすがにそちらの探索よりも、並び立てられた衣装のほうが、はるかに興味を引いた。
僕は部屋に入ると、ひとまず衣装ラックに近寄って、まじまじと観察した。
「こういうの、テレビで見たことあります。芸能人のスタイリストさんが、たくさんの衣装から二、三着持ってきて、合わせたりするところ」
「へえ、帆高くんってテレビとか見るんだ。てっきり、娯楽は新聞の地域欄とかなのかなって思ってた」
「そんなに枯れてないですって! でも、ここに置いてるのはそういう『衣装』っていうよか、『仮装』みたいですが」
傍目からでもカラフルな色合いのラックに手を伸ばし、ハンガーを掴んで一着取り上げてみる。
紅色の絹地に、金色の刺繍が入ったそれはまさしく「チャイナ服」だ。
「ほら、これ以外のやつだって、バトラーっぽいスーツ衣装とか、いかにもシャーロックな探偵風のコートとか、警察の制服だとかナース服だとか……色物ばっかりなんですけど」
「私のメイド服もその一つだね。コオリさんいわく、ネオジョウではコスプレも楽しめるようにしたいらしいよ。チェックリストとしては……まあ、かなり後半の方だけれども、この【衣装室】を見るように、っていうのもあるしね。
つまり、この衣装の着心地を試すのもまた、私たちの仕事というわけさ!」
「また調子のいいことを、そんなの先輩が着たいだけで──ん? 『私たち』?」
嫌な予感がしたときには、もう遅かった。
千夏先輩はコスプレ衣装の塊をまさぐって、中から大正ロマンな雰囲気の、黒いマントと学生服のセットを取り出してくる。
「帆高くん、こういうの似合いそうじゃない? ここは一つ、将来文豪になりそうな、親と仲悪い大正のインテリ学生になってみてよ」
「そのやたら具体的なイメージは何……っていうか、なんで僕までコスプレする流れになってんですか!」
「仕方ないじゃん、これバイトなんだから。え、規約違反でお給料なしでもいいの?」
「ひ、卑怯だ……」
こうして、恐ろしい脅しに屈した僕は、先輩から渡されたコスプレ衣装に着替えることになったのだった。
試着室を出た僕を見て、先輩は目を輝かせ、手を叩いていたく喜んだ。
「やっぱり、思ったとおり! 身長の感じとか、凄く似合うよ!」
「身長の感じ」って、割と背の低い僕に向かってそれをいうのは半ば煽りなんですけど。
そんなことも言い返せないほど、凄く恥ずかしくて、小物として渡された帽子のつばを下げながら、黙っていることしかできなかった。
「もう……やりませんから」
これ以上の衣装替えは断固拒否して、衣装室の椅子に座り込んだバンカラスタイルの僕に対して、千夏先輩は実に楽しんでいた。
僕の目の前で、ラックにかかっていた衣装に代わる代わる着替えて、得意そうにお披露目していった。
「どうかな、似合うかな?」
チア服、コック姿、軍服……次々と仕様が変わるたびに、同じ質問をされた。正直、元の素材がいいので、どれを着られても「似合ってる」としか返せず、僕の返答はバリエーションに富んでいたとは言えなかっただろう。
だけど、先輩は僕が何かしら褒めるたび、手を振り上げて「やった」と無邪気に喜んでいた。
……二十分ほどのファッションショーに付き合わされてわかったこと。それはやっぱり、千夏先輩には和風の服装が似合うということだった。
本人にもそう伝えたら、先輩は最終的に、僕と同じく大正チックな雰囲気の振り袖衣装に落ち着いた。さすがに帯とかはなんちゃってだけど、赤い矢羽根の模様が入った上着と、臙脂色の丈長な袴という組み合わせで、目がさえるほど可愛らしかった。
「うん、バッチリだね。今日は私、これで行くことにしよっと」
壁に掛けられた姿見の前で、振り袖を翻しながらポーズを取る千夏先輩の後ろに、ぶっきらぼうな顔をした学ランコートの僕が座っている。
そんな表情になっていたのは、別にこの場が楽しくなかったからじゃない。
なんだかんだ、高揚した気分はありつつも、やはり胸の中に、ネオジョウに対する違和感というか、言葉にしがたいモヤのようなものが立ち込めている。
コオリさんが本気で改修したというだけあって、ここは華やかで、楽しい場所だ。僕は商売には疎いけど、お店としてオープンしたら、新感覚な遊興場として、案外繁盛しそうな気もする。
少なくとも、心霊スポットとはほど遠い──でも。
この「ネオジョウ」という建物は、何かがおかしい。
薄暗くてただっぴろい一階、役割の違う二つの階段、古い匂いのする三階。どこも異常とまではいかずとも、言葉にできない違和感が漂っている。
「──ちょっと、帆高くん? 聞いてた?」
声をかけられて、はっとする。
振袖姿の先輩が、屈んでこちらを覗き込んでいた。
「コスプレは十分堪能したし、二階に戻ってダーツゲームとかしようよ」
「ああ、はい」
それがいい。僕もちょうど、気分転換がしたかったところだ。
向かいの【資料室】や、ここから続く別の部屋も気になってはいたけど、なにぶん三階は埃っぽいので、下の空気を吸ってからまた来ることにしよう。
お互い大正ロマンな僕たちは、衣装室をあとにすると、一階まで直通の古びた階段を、またキィキィと言わせながら降りていった。