ジュースでも奢るか
選んでいただきありがとうございます。
「亜蓮これ食べて」
綾は自分の弁当箱からピーマンの肉詰めを僕の口に放り込んできた。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったけど、ボリュームと美味しさに免じて許してやった。隣に座っている輝は恨めしそうな顔をして僕を見る。
「あきくんも食べたかった?」
そう言って綾が弁当箱からたこ焼きを取り出し、白米の上に乗せた。
「あ、ありがとう」
この世で一番幸せそうな顔をして、輝はたこ焼きにかぶりついた。
チャイムが聞こえると、みんな急いで次の授業の支度をした。綾はゆっくり立つと、「また後でねー」と言い残し一番前の席に座った。
輝は周りに聞こえないように僕に耳打ちする。
「おい、わかってるよな?」
わかってる、とは輝が綾のことを好きでその邪魔をするな、ということだと思うけど、今日のあれはどっちかと言えば被害者じゃないか。
それだけを言って、輝は隣のクラスへと帰っていった。
僕と阿部 綾は幼馴染だ。これは疑いようのない事実だし、だからこそ間接キスとか気にしない。とか思ってたけど、別に輝とは去年の春から知り合った仲だしそんな関係ないのかな?
なんて考えていたら、外から輝の声がした。校庭ではサッカーをしており、そういえば輝はサッカー部だったなーとかどうでもいいことを思い出した。
放課後になりぼちぼち生徒が、校庭や体育館に移動した。僕と綾は帰宅部だったため、人の波に逆らうように下駄箱に向かった。
外は雨が降っていて、今日部活やるとかマゾなの?と思っていた。
綾は雨を気にしてないのか、靴を履き替えてすぐに外に出ようとする。引き戸になっているドアに手を伸ばしたところで僕が声をかける。
「傘どうしたの?」
「忘れた」
「今日雨降るっていったじゃん。入る?」
「うん」
綾はバックを持つ手を右手から左手に変えて、僕の右半身を圧迫した。
このやり取りはいつものことで僕は気にしないんだけど、輝は気に入らないらしく、見つかるたびに次の日に文句を言ってくる。
歩いていると、アスファルトに跳ねた雨が靴下を濡らす。アスファルトは灰色から黒色になり、雨特有の匂いを帯びていた。
黙って歩いていること約5分。綾が住んでいる高層ビルが見えて始めたところで綾が唐突に言った。
「私さー、最近スートキングされてるんだよね」
「へー?へ?」
意味がわからなかった。なぜこのタイミングなのか、どうしてストッキングとスートキングは語感が似ているのか。
言葉に詰まって次に何を言うか迷っていると、いつの間にか着いてたみたいだ。
「今日も来る?」
綾は上を指差す。
「行くよ」
僕たちはエレベーターで屋上に向かった。
その途中で綾の家から傘を持ってきた。
「亜蓮はさー、ここ好きだよね」
「まぁね、僕って高いところ好きだし。それに綾も好きでしょ?」
「うーん、私はそんなに。見慣れちゃったっていうのもあるけど、ここから帰るのがめんどくさいかなー」
僕は高いところが好きだ。幼少期から飛行機に乗ってたし、今はパラグライダーやバンジージャンプ、スカイダイビングもやっている。
高層ビルの屋上からの景色は、町を一望できる。小さく四角いのが所狭しと並び、緑や赤、オレンジ、色んな色が飛び出している。
柵を片手で押さえながら下を見る。人や自転車、自動車、それが不規則に動いている。時に一直線に、時に右へ左へ。それを目で追っていくだけで楽しい。道路を挟んだ先に街路樹が並び、緑の葉っぱが影を作っている。夏場には影を作り、冬になると陽の光を道路に当てる。その目的を果たそうとしている木は、このビルのわずか半分。もともとこのビルは建設予定じゃなかったため、しょうがないけれど、もう伐採が決まったらしい。
「もう帰るね」
後ろから綾の声がする。よほど雨が嫌だったのか、ドアの軋む音が聞こえて、閉める時の大きな音が鳴った。
もう少しだけ見ていようかと思って下を見ていたら、黒のレインコートを着た誰かと目があった気がした。
綾の家のすぐ隣の隣の隣が僕の家だったから、ちょっとだけ怖くなった。
次の日から僕は綾をストーキングすることにした。そのために、綾とは別々に帰った。数十メートル離れたところから見てるけど、特に以上はない。その日も次の日も、一週間経ってもあの黒のレインコートは現れなかった。
我が校に文化祭の季節がきた。今は準備期間で、原則として部活がないらしい。ただサッカー部と野球部、それとバレー部はあるらしく、心の中で合唱した。どんまい、輝。
とは言っても、帰宅部は帰宅部でやることがある。
「綾、そっち終わった?」
「まだー。今文面打ってるー」
そう、出し物の準備だ。僕と綾はチラシのデザイン構想になって、放課後まで残っている。
校庭ではまだ部活動をしているらしく、それぞれの掛け声が教室内まで届く。カーテンを閉め切っているのに、机がオレンジに染まる。綾はひと段落ついたらしく、軽く伸びをする。
「そろそろ帰るか」
僕がそういうと、賛成とばかりに、帰り支度を整えた。
ドアを開けて一歩踏み出すと、誰かとぶつかる。プラスチックの乾いた音と共に、ドンっと地面から鈍い音が聞こえた。
「大丈夫か?って輝じゃん、どした?」
心配で声をかけた主は輝だった。右手の先にあったのは、プラスチック製の定規だ。その定規のメモリが書いてある部分は黒くなっていて、数字が読めなくなっていた。拾って渡すついでに手を貸す。
輝はお尻をほろって、大丈夫と気さくに笑った。
「いやぁー、その、なに、忘れ物しちゃって。あはは、でもそんなんなかったわ。じゃぁなー」
言うが早いか、すぐに下駄箱の方へと行ってしまった。
というかなんであいつ部活行ってないんだろう。訝しむように視線を足跡にたどると、なぜか綾が顔を合わせる。
「外見て、また雨みたい」
ドアの開けた先にある窓から霧雨のような小さな雨粒が見える。音までは聞こえないから強くはないんだろうけど。
「僕たちも帰ろっか」
靴を履いて、一緒の傘で帰る。いつもの日常が今日で終わった。
綾を家まで送り、高層ビルのせいで日照時間の短くなった我が家に帰ろうとする。そこで見つけてしまった。電信柱に隠れる全身黒の雨具を着た誰か。少し勇気を出して、話しかけてみる。
「す、すいません。ここにコンビニってありますか?」
声や顔を見たり聞いたりすれば怪しいかどうか分かると思ったけど、顔を見た瞬間に分かってしまった。
「え、あ、はい。ここの角を右に回るとって、亜蓮じゃん」
輝は電信柱から身を出すと、やれやれと首を振った。
色々聞きたいことはあったけど輝は、
「あ、そういえばこの後予定あったわ。またなー」
と逃げるように俺の家とは逆方向に行ってしまった。仕方なく、僕は帰ることにした。
家のポストにA4の紙が投函されていた。外から見えるように刺してあったから、少し濡れていた。玄関で外側を軽く拭いて裏返す。
差出人、不明。住所、不明。本文「阿部 綾に今後関わったら、直ちにキサマをコロス」
黒インクは濡れて滲んで、少し読みづらかったけど、一画一画が定規で引いたみたいにまっすぐだった。不意に放課後のことを思い出す。まさか、な。あいつはそんなことするやつじゃないよな。でもだったらどうして綾の家の前にいたんだ。それより、なんで逃げるように去ったんだ?
不安だった。自分の命のこととかじゃなくて、親友が大切な人を追いかけ回している。そんなはずはないと頭を振るけど、一度固まったイメージは簡単には忘れてくれない。その悶々としたものを抱いていたせいで、朝に日が昇るまで寝付けなかった。
モワッとした空気が体にまとわりついた。気持ち悪さで体を起こす。目覚まし時計はまだ鳴っていない。
「水でも飲むか」
気分を変えたくて、リビングまで行く。リビングには色んな音がして、テレビの音や雨の音、フライパンで何かを焼く音、時計が秒針を刻む音、その音で驚いたフクロウが目を覚ます音。
どれもこれも一つだけではあまり意識することはないけど、いっぺんに合わさるとジャムセッションみたいな自由さが出る。一つ一つは規則的なんだけど、全部合わさるといびつな気持ち悪さみたいなのが出る。それを聞いていると、少しだけ心が落ち着いた。
「あんた早いわねー、まだ5時半よ」
母さんは火を止めて塩胡椒をしていた。隣の蛇口をひねってコップに水を汲む。
「なんか寝れなくてさ。というかいつもこんな早いの?」
「お父さん、今6時半には会社に行かなきゃならないの。ほら、今大事な会議の準備で忙しいんだって」
不意に、感謝したくなった。何気ない日常は、母さんや父さん無しではなし得ないことに気づいた。
「ありがとう」
「え?」
母さんに何か言われそうだったので、足早にリビングを去った。
雨は食事が終わっても止んでなくて、行ってきますの声が消えるくらいには降っていた。これはこれで綾との接点が消えるから問題ないんだけど。何か物寂しい気持ちが僕の心を満たした。その気持ちには名前があったはずだけど、考えつく前に学校に着いた。
下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから輝と、その友達の声がした。
「お前さーなんで昨日休んだんだよー。昨日めっちゃ大変で」
「いや、悪い悪い。用事があってさ、ほんとほんと。すぐに帰らなきゃいけなかったんだよね」
その声が聞こえた途端、僕は走り出した。
チャイムが鳴って、ホームルームが終わった。不意に机が叩かれるまで、意識が飛んでいた。午前中、午後共になにをしたのか覚えていない。
「どした?元気ないぞー」
その声はいつも聞いていて、いつも和ませてくれる声だ。声の主、綾の方を見る。すると驚いたように綾は顔を引きつらせた。
「うわっ、ひどいくまだな。大丈夫?寝てないの?」
心配の声音は体の奥底まで響いたような感じがした。その瞬間、彼女を手放したくないと思った。
「あ、あぁ。大丈夫。それよりはやくパンフやんなきゃ」
「無理しなくていいよー。まだ時間はあるんだし。それにさ、文化祭、今年はどうする?」
「去年はお互いに友達同士で回ったんだっけ?」
「そうそう。まぁ、とりま帰ろっか。今日はモアモアして私もぃや。なんか髪の毛も負けないしー」
綾の提案にありがたく頷く。綾は下駄箱に行くと、手に持っていた折りたたみ傘をしまって、僕の傘を勝手にさした。
「それ僕のなんだけど」
「いいから、いいからー。男なんだから細かいこと気にすんなー」
そういう問題じゃないんだけど。まぁ、いっか。他愛もない話をして、今日も一緒に帰った。でも途中で、綾が僕の袖を引っ張る。
「後ろ、多分、いる」
「え?」
何が、と言いかけてやめた。そんなの決まっている。ストーカーだ。振り切ろうと曲がりくねった道を選んだ。だけど足音は遠ざかるどころか、近づいてくる。
綾のマンションまでたどり着いたけど、カードキーが財布にあって、もたついている。
「綾、上に行くぞ。多分輝だ」
「え、上って?それにあきくんは…」
言い終わる前に手を引いて、屋上を目指す。階段を上っていると足音が鮮明に聞こえた。それはもう僕たち、いや僕を狙っているのは疑う余地もなかった。足音はどんどん大きくなって、一つから二つに増えたように聞こえた。違うリズムを刻んだワルツは、僕の心拍数を上げた。
屋上に辿りついた頃には、雨と汗でビショビショだった。
ストーカーらしきフードを被った男は、一思いに外す。
「おい、朝倉亜蓮。俺はあれほど言ったよなぁー。綾ちゃんに近づくなって。もしかして俺がやらないと思ったのか?あぁ?」
その顔を見た途端安堵してしまった。よかった、輝じゃなかったんだ。中肉中背の男は腰元から刃物を取り出す。ぎらりと光ったそれは雨のせいで瞬く間に曇りを帯びる。
「なぁ、綾。一つ質問。あいつは僕を狙っているようだけど、助かる方法が二つある。一つは僕を差し出すこと。もう一つは、僕とバカなことをやること」
不意に綾の目が不安に染まる。でもそれは一瞬で覚悟を決めた目になる。そんな瞳に気持ちが高ぶった。こんな状況だというのに、心臓は正直者だ。
「決まってんじゃん。亜蓮とバカやる。それに亜蓮を差し出したって私の身が保障されるわけじゃないし。二つ選択肢があるように見えて実はないものって、質問って言うんじゃなくて強要って言うんだよ」
僕と綾の手が重なる。心臓が跳ね上がった。男は苛立ち混じりの舌打ちを何度かする。大雨なのにその音だけは、この場に残り続けた。
「綾飛ぶぞ」
左手に持った傘を広げる。大丈夫、いつもやってる。
「え、ちょっとまって、何を?」
柵を飛び越えるように促す。高さ20階からの絶景は、流石に今日ばかりは地獄絵図に見える。
「綾ちゃんに何する気だてめぇ」
怒声が後ろから聞こえる。その声はどんどん近くなる。でももう関係ない。綾は柵を跨ったし後はもう。
不意に輝が脳裏にちらつく。死ななかったらジュースおごるか。雨は視界を悪くして、落下地点が見えない。
「綾、飛びながら説明するぞ。俺にしっかり掴まってろ」
「は?正気?バカじゃないの」
「知ってるか?パラグライダーってもっと高くから飛ぶんだぞ」
言い終わると同時に地面に背を向けて飛んだ。ドアは完全に開いていた。
「いいか、傘があるんだ、骨折で済むだろ」
「バカバカバカバカ。きゃーーー」
二秒か三秒、傘が音を立てる。傘の骨が真っ直ぐになる。
その瞬間、右のほうで柔らかな感触を感じた。
それとほぼ同時に、地面方向から線状の何かにぶつかった。
高層ビルの景色が変わらない。止まった。安堵のため息を漏らす。はぁ、よかった。
「バカバカバカ、死んじゃう、死んじゃうって」
右腕にぎゅっとしがみついて、綾は僕に近づく。その距離は吐息が感じられるほどで、えらく緊張した。
「綾が決めたんだろ、僕とバカやるって。それに、下には街路樹が植えてあるんだから、骨折で済んだはずだ。めちゃくちゃ痛いけど」
綾はまだバカバカと猛抗議していたが、スマホが振動して一旦やめてくれた。
「あきくんからだ」
「え?」
思わぬ人物にすっとんきょうな声を漏らす。綾は言葉をメッセージを読み上げる。
「屋上から落ちた時は自殺でもするんじゃないかって驚いたわ。こんなに心配させたんだ。あいつに言っといてくれ、後でジュースおごりなって」
ラインには画像付きで、さっきの中肉中背の男が倒れている写真が載っていた。
ははは。僕は笑った。それにつられて綾も笑った。
あいつにジュース二本奢ってやらないとな。
僕は綾に聞く。
「文化祭、輝と一緒回らない?」
「うんっ」
いつのまにか雨は止んでいた。
お読みいただきありがとうございました!