老舗の看板メニュー
――
「すみません、二名で予約しているんですが……」
貸し切りと書いた板がぶら下がった扉を開けて、四十歳位の男女が店に入ってくる。八十年間続いたこの老舗にとっての、最後のお客様だ。
「はい、お待ちしておりました。こちらのお席です」
男性は案内された席へ着き、一息吐く。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声掛けください。因みに、当店自慢の看板メニューは、創業当初から人気のビーフシチューとナポリタンになります」
そう言って、私は調理場へと踵を返す。ナポリタン用のフライパンに火をかけると、お冷とおしぼりを持って、また二人の元へ戻る。
「ビーフシチューとナポリタンを、一つずつで」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
私は注文を受けると、また調理場へと向かう。
今まで何度も何度も熟してきた作業に少し感慨を覚えながら、この店で出す最後のメニューになるであろう二品の調理に取り掛かった。
――
「雰囲気のある店だなぁ」
「そうねぇ」
親父の紹介で三十年以上振りに来た洋食屋の店内を見渡す。前に来た時の事はほとんど覚えていないが、恐らくその時も良い雰囲気のお店だったに違いない
頼んだのは親父に勧められたナポリタンとビーフシチュー。この店のマスターも勧めてきた二品だ。
「お待たせいたしました」
注文から十分経たない位で、二品は運ばれて来た。妻と共に手を合わせる。
「「いただきます」」
俺はナポリタンを、妻はビーフシチューを口へと運ぶ。
「美味い! 」
「美味しい! 」
俺がナポリタンを食べてそう言うのとほぼ同時に、妻も同じ様な事を言う。
「半分食べたら取っ替えよう」
「ええ」
実に美味しそうに食べる妻を見て、ビーフシチューも食べたくなり提案すると、すぐに首が縦に振られた。恐らく、妻も同じことを思ったのだろう。
その後、かなり良いテンポで食べてしまい、交換しようとした時にはお互い三分の一程度しか残っていなかった。
――
「俺はやっぱりナポリタンの方が好みかな。高級レストランで出てくるものじゃないけど、高級レストランじゃあ出せない懐かしさと言うか、温かみを感じるよね、食べてて」
「私はビーフシチューの方が良かったと思うわよ。シンプルに美味しかったって言うのもあるけど、何かこう、深みがあると言うか」
食事を終えて、仲睦まじく話す四十歳位の、恐らく夫婦。その二人の会話に、何か既視感を覚える。
『メニュー表にもビーフシチューが看板メニューって書いてあるし、やっぱりこっちの方が美味しいわよ』
『看板メニューって言ったって、店が決めてるもんだろ。就職してから毎週欠かさずに来てるけど、俺にとっての看板メニューはこのナポリタンだね。そこに書いてある看板メニューってのは、あくまでも作ってる側にとってのだろ。店が自信持って看板メニューって言ってるんだから、そりゃ美味いよ。でも、俺はナポリタンもそれに全く劣ってないと思ってるね!』
私がナポリタンについてこんなにも熱弁している男性客を見たのは、店を継ぐ前――父の元で修行を始めた、まさにその日だった。
『まあ、お店からしたら自分達が看板メニューって言ってるもんを美味いって言ってもらった方が嬉しいだろうけど』
男性客はそう言って話を纏めると、『ご馳走様』と言って会計を済まして店を出ていった。
まさかその客がこの店が終わるまで通い続けているなんて、そんな事は夢にも思っていなかったが、今、私の目の前では、その常連客の息子夫婦が同じ様な事について語っている。なんとも感慨深いものだ。
「あっ、マスター。親父や俺はナポリタンが一番だとは言いますけど、それはきっと好みの問題だと思います。現にこいつはビーフシチューの方が良いと言っていますし、母も生前、ビーフシチュー派だったそうですから。だから、なんと言うか……その―― 」
そう言って一拍置くと、彼は続けた。
「――マスターが看板メニューだって言ったら、その料理が看板メニューですよ」
こんな所まで父親と同じような事を言うのか。今にして思えば私も父親に似ているとよく言われたものだ。
祖父に父、私と、親子三代を繋いでいたのはこの店のビーフシチューだったが、もしかしたら、常連さんとその息子さんを繋いでいたのはこの店のナポリタンだったのかも知れない。
なんの根拠もなかったが、私はそう思った。そうであったらいいな、と思った。
「ご馳走様でした」
二人は食べ終わるとそう言って、会計を済まして店を出る。
「ありがとうございました」
私は深々と頭を下げて、最後の客を見送った。
僅かな喪失感があったが、それ以上に出来ることは全てやり尽くしたんだと、そんな誇りが私の中では生まれていた。
もう聞かれることはないだろうが、もしこの店の看板メニューを聞かれたとしたら、私ははっきりと答えられるだろう。
『ビーフシチューです』
と。