8.不確かな日常(中)
それからのことは、あんまり覚えていない。
五時間目の数学、六時間目の世界史、因数分解がどうとか、ネアンデルタール人がどうとか重要そうなことを言っていた
気がするが、私の頭の中は昨日のことと、霧咲響也。
彼のことで頭がいっぱいだった。
気がつけば、授業中は前の席の彼をちらちらと見てしまっていた。
HRがおわり、千夏たちが話しかけてくる。
しかし、それさえも耳に入ってはこない。
「千代、いいか」
「ひゃい」
後ろから、声をかけてきたのは予想もしなかった、響也君からだった。
あまりに驚いたため、声が裏返ったため、千夏たちに笑われた。
「この前借りた、これを返す。」
そういって取り出したのは、昨日仮面の男が落とした、ハンカチ、・・・・・・。
やっぱり、昨日の仮面の男は、・・・・・・。
「ちょっと来て」
「なんだ」
ハンカチを受け取り、そのまま彼の手を握り、屋上へ。
黙って着いてくる、彼の顔を見る。
「なんか、私に言うことがあるんじゃないの!?」
「何をだ」
しらばっくれているのか、本当にしらないのか。
いつもと変らない表情からは、何も読み取ることはできない。
というか、私あんまりコイツの素の表情知らないわね。
「しらばっくれないで、昨日私のことを助けてくれたでしょ。・・・・・・、一応」
なんとなく、最後の一言が尻すぼみになる。
そんな、私の微妙は変化にも、彼は気がつかない様子。
「昨日君を助けた?何のことだ」
「架城駅の近くの高架下で私が、Jキラーに追っかけられてたとき、電話で誘導して、袋小路に追い込んで、私をかばってくれて」
「・・・・・・」
「アンタ、アイツの首を、・・・・・・、刺したでしょ!。変な狐の仮面をかぶってたけど、知ってるんだからね」
そのときの光景が、まじまじと瞳の中に蘇る。
振り上げられた包丁、死を覚悟した私、交わるナイフ、そして、飛び散る鮮血。
色のない記憶がまじまじと蘇る。
彼は下を向き、顎に手をあて、何かを考えている。
そして、しばらくし再び向き直る。
「ひとつ聞きたい」
さっきまで、距離を置いていた彼が、一歩距離を詰めてきた。
つられて、一歩後ずさってしまう。
「なによ」
「仮に俺が君の言うように、仮面をかぶって君を助け、そのJキラーとやらを殺害したのだとしよう」
「・・・・・・」
「では、なぜ君はその仮面の男が、俺だとわかったのだ。」
いつもとは違う、雰囲気の声が私の体を射抜く。
「だ、だって、そいつは落としたのよ」
「何をだ」
「これよ。」
さっき返してもらった、ハンカチを目の前に掲げ、恐怖を押し殺して
声を荒げる。
「このハンカチはね、世界で三つしかないの」
「この前ディスティニーランドでこのハンカチを千夏と姫野とおそろいで作ったの、このベアール君のポーズと色と人数と生地の組み合わせは10*10*10*10通りで10000パターンもあって、さらに自分の名前を入れれるから
世界でひとつしかないの。それを、なぜか昨日の仮面の男は落としたの。私の目の前でね。」
「・・・・・・」
「それは、アンタがJキラーを殺した、仮面の男だからよ」
言ってやった。なぜか達成感を感じつつ、彼の目を見る。
木々に止まっていた、鳥たちが飛び立ち、部活の声が世界から消えた気がした。
太陽を覆う雲はさらに分厚くなり、世界がより暗くなった気がした。
「ハンカチをちょっと見せてくれ」
先ほどとまったく変わらない声色で、口を開き、
言うが早いか、掲げていたハンカチを乱雑に取り上げられる。
そのまま広げ、まじまじと見つめる彼。
「一つ、いや二つ聞きたい」
「なによ」
「質問その一、俺が落としたというハンカチはどのように地面に落ちたのだ。」
え?
そりゃあ、・・・・・・。
「君の言うとおり、このハンカチは世界にひとつかもしれない。しかし、それを判別するにはこの熊のポーズと色、人数、もしくは君自身の名前の刺繍を見る必要がある」
ごもっともだ。
「しかし、見てわかるようにハンカチの右端と左端にそれらは、描かれている。これらを同時に見るにはハンカチをこう広げてみる必要がある。」
そういって、広げたハンカチを床の上に広げた。
「しかし、そんな風に普通はおちない」
「・・・・・・」
反論できない。とうか、そうだ。
折ったまま落ちるのが、普通。日本全国みたって、織らずにハンカチをポケットに入れる人なんていない。
「質問その二、なぜこの熊の色やポーズ、人数、刺繍がわかった。Jキラーは、夜に人通りの少なく暗い場所で犯行を行っていると報道されている。」
「・・・・・・」
「君が襲われた場所はその三匹の熊の色の違いや名前の刺繍がはっきりと見えるほど、明るかったのか」
そんなことは無い、暗かった。
私は暗闇の中を走り回っていたし、携帯電話の着信の光に安堵したのも覚えている。
袋小路の中は、高いビルと塀に囲まれ、ほとんど何にも見えなかった。
彼の言うとおりだ。私らしくも無い。
「その、ごめん。私が勘違いしていたみたい。本当にごめん」
頭を下げる私、見つめる彼。
「いや、誤解だとわかってくれたならいい。」
そういって、彼は私を置いて屋上から消えていった。
その背中を見送ったまま、なんとなく釈然としないまま、フェンスを背に座り込んだ。
「私、どうしちゃったんだろう」
答えるもののいないつぶやきが、オレンジ色に光る太陽に吸い込まれ消えていった。