7.不確かな日常(上)
糸の切れた人形のように倒れる黒い人影、顔にかかるどす黒い血、
キツネの仮面をかぶった男がナイフを構え近づく。
色のない黒と灰色の記憶が頭の中に蘇る。
その映像をかき消すかのように、いつもの電子音が耳へ突き刺さる。
「やめてっ」
両手を顔の前に掲げ、体を反射的に起こす。
寝ぼけ眼で周りを見る。
カーテンの隙間からは朝日が差し込み、耳を劈く目覚まし時計が、バイブレーションでゆれている。
見ると7:10分、いつもと変わらない朝に私は目を覚ました。
なぜかわかんないけど、頭がガンガンする。
「夢?」
部屋を飛び出して、洗面台に行って顔を見る。
髪に着いた血も、顔についた埃や泥も綺麗さっぱりなくなってる。
そんな馬鹿な。
部屋に戻って、ハンガーにかけてあった制服を見る。
血どころか、汚れひとつついていない。
携帯電話を見ても、非通知の履歴は残っていない。
リビングに行くとお母さんが、朝食の準備をしていた。
いつもの光景だ。
「お母さん、私昨日何時に帰ってきたっけ?」
目玉焼きを焼いているフライパンに、振り油の香ばしい匂いを漂わせ
ひっくり返す。
「おはよう、紗夜ちゃん。どうしたの?そんなにあわてて」
フライパンから目玉焼きをするりと皿に移し、野菜を添えてから
テーブルに置く。
「いいから、何時に帰ってきた?」
「ごめんなさい、私がお仕事から帰ってきた時は、紗夜ちゃんもう寝てたから。10時前には帰っていたんじゃないかしら」
まったく記憶にない。
痛む頭を押さえながら、記憶をたどる。
昨日は駅前で三人でカラオケに行って、駅前で千夏と別れて、それで、・・・・・・。
架城駅で姫野と別れて、それから・・・・・・。
思いだせない。
すごい怖い思いをしたような。
やっぱり夢?。
なんとなく髪の毛をいじり、思い出そうとするも、
なぜかガンガンする頭痛に悩まされ、思いだせる気がしない。
「それより早く、ご飯食べちゃいなさい。」
母さんの急かす声が、私を現実へと引きもどす。
まあいっか。
いつものように朝食を食べ、いつもの制服に着替え、髪を整え
鞄を手に靴を履いた。
「いってきまーす」
玄関の扉をあけると、冬の寒さが混じった薄ら寒い春風と
昨日に続いた曇り空が私を迎えた。
なんとなく、不安で不確かな朝だった。
学校について、授業を受けて、休み時間に他愛の無い会話をして向かえた昼休み。
いつものように、千夏と姫野が寄ってくる。
お弁当を広げる私に、千夏が興奮気味に近寄ってくる。
「聞いてよ聞いてよ、紗夜ちゃん、またまたビッグニュースだよ」
それをまたですのと、笑いながら、見守る姫野。
「なによ、千夏。遂に彼氏でもできたの。そりゃビックニュースね」
「違うよ、まあ、私に彼氏ができたらビッグニュースだけどね」
「違いありませんわ」
「もう、ひどいよ二人とも。そうじゃなくて、Jキラー、また犠牲者が出たんだって」
おかずをつかんでいた箸がとまり、一気に体温が下がるのを感じる。
少しめまいもしてきた。立ちくらみ?座っているのに?
黒い不安が胸に突き刺さる。
「まぁ、それはそれは、でも千夏さん、こういっては何ですが、これで5件目ですわ。それはそれで大きなニュースですが、そこまで興奮することはないのではなくて?」
「違うの、姫野ちゃん。これだけじゃないの。実はJキラーも見つかったんだって!!!」
「本当ですの?」
大きな声で驚く姫野、頭がガンガンしてきた。何か、思い出してはいけないとでも言っているかのように。
「本当本当、昨日の夜見つかったんだって。深夜に出てったお父さんが朝に言ってたから間違いないよ。しかも、驚くことにバラバラ死体だったんだって。」
千夏の話を聞いて、頭の中に朝の夢の内容がフラッシュバックした。
高架下で見た包丁、再開発地を当ても無く逃げ回る私、甘ったるい声の女性、そして、Jキラー刺した仮面の男。
まさか、まさか、まさか、夢に決まってる。
朝だって確かめたじゃない。顔や制服だって綺麗だったし、携帯だって変な履歴もなかったし、夢よ。
そう言い聞かせながら、黙々とお弁当を食べる。
「紗夜ちゃん、どうしたの。そんなに集中してお弁当食べて」
「な、なんでもないわよ。ちょっとお腹が減っちゃって」
「しっかり噛まないと太りますわよ。」
「な、なによぉ。」
あはははと乾いた笑いで、考えないようにした。
大丈夫、ちょっと疲れて悪夢を見ただけよ。そうに決まってるわ。
まさか、あれが現実なんてありえないわ。
そう自分に言い聞かせる。
「あら?」
私のお弁当を見ていた姫野が、不思議そうに声をあげ、
ゆっくりと指を指す。
「どうしたの姫野ちゃん」
「いえ、紗夜さん、いつの間に右手のネイルを直したんですの?この前は人差し指だけ無かったのに」
嘘、・・・・・・。
箸を置いて、右手のネイルをまじまじと見る。
そんな馬鹿な、なかった人差し指のネイルが、ある、・・・・・・。
頭の中に浮かんだのは、首を絞められる光景。
逃げようと思いっきり奴の手に爪を立てた?。
その時、ネイルは落ちた?
無かった人差し指のネイルが戻っているのはなぜ、・・・・・・。
わからない、わからない、わからない。
どこまでが現実で、どこまでが夢?
これ以上思い出すのが、怖くなって体が震える。
心配する二人が、声をかけるが頭の中に入らない。
確かめなきゃ。
食べかけのお弁当を置いたまま、廊下を思いっきり走って給湯室に向かい、盥にお湯を張る。
水を張り、ぬるま湯にしてから、置いてあった割り箸を割る。
「どうしたの、紗夜ちゃん。突然給湯室なんかに来て」
「そうですわ。何事かと思いましたわ。」
飛び出した私を追ってきた二人が、息を切らしながら心配して声をかける。
そんな二人を気にも留めず、ぬるま湯に指をつけ、ネイルを割り箸で押し込み、一枚一枚はがしていく。
はがす瞬間に一瞬痛みが走ったが、そんなことはどうでもいい。
一心不乱にネイルをはがす私に、二人はただならぬ様子を感じたのか、なにも言わず、ただただ私を見つめる。
しばらくして、十枚すべてのネイルがはがれ、盥にうかんだ。
私は手を引き抜き、姫野が差し出してくれたハンカチで水滴をぬぐった。
「「うわぁ」」
二人の驚きの声がハミングする。
はがしたネイルの下は、不規則に割れ、皹が入った
痛々しい爪があった。
私は確信する。
間違いない。あれは夢じゃなかった。
あの時、死に物狂いで抵抗して、・・・・・・。その時、爪がネイルが割れたんだ。
じゃあ、誰がネイルしなおした?
制服は?
携帯は?
誰が私を家まで運んだの?
頭の中の脳細胞が、人生一番ではないかと思うくらい回転している。
「もう、どうしたんですの?」
そういいながら、まだ掌に残った水滴を姫野がハンカチで、丁寧に拭いてくれた。
そして、右掌にうっすらと残った、一本の傷とハンカチが記憶の中で合致する。
そのハンカチはおそろいで作ったベアール君の刺繍と名前が入ったハンカチだった。
きしくも、それは私の記憶の最後に残っている、仮面の男のポケットから落ちたそれとほとんど同じだった。
唯一違うのは、赤い刺繍で縫ってあるある名前が、姫野ではなく、
私「千代 紗夜」であることだけだった。