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父が入院してから、母と二人で毎日面会に通う。食欲が落ちている父に少しでも食べてもらおうと、果物や、時には缶のボトルに日本酒に松茸を炙って入れた物を作って持ち込んだ事もあった。後から父に、コーヒーの匂いもしたと笑われた。入れ物を思いつかず、缶コーヒーのボトルを洗って使ったから。
半月経ち病院食には殆ど手を付けなくなっていた父。自力での呼吸では、酸素が足りなくなっていた。全身に転移した癌の痛みは、想像もできない。体力も落ち、ベッドに横になったまま、起き上がることも辛そうに見えるのに、絶対に痛い、しんどいと弱音を吐かなかった父の精神力は、どれほどだったろうか。
それでも、母の事になると
「頼むぞ…」
と、何度も私に言うのだ。何度も
「俺が死んだら、ばーさんどうなるんだか……みんなで世話してけろよ、頼むぞ」
と……
夫婦として長年連れ添い、苦楽を共にし過ごしてきた日々を、私には想像する事しかできない。早くにシングルマザーになってしまった私は、夫婦として愛情を分かち合う前に、子供の父親を亡くしているからだ。
愛する人を亡くし、呆然自失の私と赤ん坊だった息子を
「かわいそうに、なんでお前がこんな目に合わねばねんだか…」
と、手を差し伸べてくれた両親。初孫の息子をほんとうに我が子と同じに育ててくれた。
子供だった私が兄弟喧嘩に負けて、父に不満をぶちまけると、決まって父は
「指はどの指がもげたって痛いんだ、お前達もおんなじだ、誰か一人だけ可愛んじゃない、みんなおんなじに可愛いんだ」
と、笑いながら膝に乗せて諭してくれた父。
いつ、自分の意識がなくなるのか、次の瞬間には昏倒してしまうかも知れないという不安と闘いながら、母のこれからを案じる父を、私は哀れんでいた。
この時はまだ、父に対して不満や、長年染みついた恐怖心からのトラウマを克服できず、日に日に衰えていく父を、漸く自分の支配下に置けた様な気分も少なからずあったのだ。
明日、死ぬかもしれない病身の父に、私はまだ、甘えていた。
それから間もなく、父が外泊したいと主治医に訴えた。主治医は私を呼び出し、外泊の許可と自宅で気をつける事を説明してくれ、外泊中の酸素の手配もすませた。
こんな時頼るのは弟で、すでに自力で歩けなくなっている父を、両側から支えて自宅に連れ帰った。
こんなにも、父は小さくなっていたのか。
あまりの衝撃に言葉も出なかった。恐らく弟も同じことを思っただろう。
あんなに、私達家族を支配し、有無を言わせなかった父が。
ここにきて、馬鹿な私は、漸く自分の父は死に逝くのだと実感した。もう、長くない。どうしよう。どうしたらいい?母はこんなんで、息子もまだ小学生。この先、どうしたらいいのか。
圧倒的な支配力で、私達を纏めていた父は、この時まで確かに私達を生かすために生きてくれていたのだと理解した。苦痛に耐え、目前の死の恐怖と独りで闘い、最後まで生きることに、生き続けることに懸命だった父から、命が零れ落ちていく。
間近で見ていながら、どこか他人事のように感じていた自分。
ちょっとした文句を言われて、早く死ねばいいのにって思った事もある。
残り少ない日々を支えなきゃいけないのに、まだ自分の事しか考えられなかった。
まだ、まだ、何もしてない。
親不孝は数え切れない程やった。親孝行は孫産んだからオッケーなんて、軽口を叩いて。
私は、情が薄いんじゃないんだろうか。
自分を責めながらも、最後になるであろう二泊三日の父の帰還を、楽しいものにしなければいけない。泣いたって、どうなるというのか。ただの自己憐憫でしかない。
気を取り直して、父が過ごしやすいようにリビングにソファベッドを持ち込んで、横になってもらうと、それだけで父は息を切らし力尽きたように目を閉じた。
書きながら当時の事がだんだん思い出されて、自己嫌悪。
でも、今の自分のルーツだし、この気持ちを浄化というか、昇華する為の作業なんだと改めて思います。
ここまで読んで下さりありがとうございます。