美貌の魔王は人間界を侵略する……ご飯で。
……じゅるり。
私は、口の中から溢れそうになっているよだれを急いで呑み込んで、皿の上に乗っている大きな肉を見つめた。こんがり綺麗な狐色に焼けているその肉は、ランプの仄かな明かりに照らされて、てらてらと脂を光らせている。
……なんて、美味しそうなのかしら。
その肉は、とても大きな骨付き肉。
狂角牛と呼ばれる、魔王城の周囲に生息する気性の荒い、野生の牛だ。
けれども、野生の牛と侮るなかれ。人工的に飼育している牛なんかと比べられないほど、上質な脂と、旨味たっぷりの肉を持つのが狂角牛だ。
私は、そっとその肉を持ち上げた。
――黒胡椒と、塩。それだけで味付けがされた肉は、とても食欲をそそる匂いを発している。その匂いが鼻孔をくすぐると、私は堪らずごくりと喉を鳴らした。
……ああ。もう駄目。我慢できない。
私は舌なめずりをすると、大きく口を開け、一気にそれに齧り付いた。
「〜〜〜〜〜っ!んんっ……」
歯が肉に差し込まれた瞬間、驚くほど大量の肉汁が溢れ出てきた。
じゅわ、と染み出す肉汁を零さないように苦労しながら、肉を口へ運ぶ。
とても柔らかなその肉は、歯で噛みちぎるまでもなく、唇で挟み込むと、ほろりと肉の塊から別れを告げて、私の元へとやってきてくれた。
もぐ、とひと噛みすると、一番に感じるのは肉の甘さ。
海水を汲み上げて、手間暇かけて作った天然塩をふった肉。その塩が肉の旨味を最大限に引き出している。
胡椒の刺激も中々いい。
人間界では、金と同等の価値があることで知られている胡椒。
けれども、近年、魔界では盛んに生産されていて、値段はかなり下がってきた。けれども、未だ一般家庭に普及するまではいかない高級品であることは変わりない。それが惜しみなく表面にたっぷりとかけられた肉だ。黒胡椒がいいアクセントとなって、とても大きい骨付き肉だけれども、飽きることなく食べ進めることが出来るだろう。
「……ああ。美味しい……」
「……そうかい」
私の口から自然と漏れたその言葉に、男の声が反応した。
私がテーブルの向かいに座った男に目を遣ると、男は椅子にだらしなくもたれ掛かり、脚を組んで不機嫌そうに天井を眺めていた。
……あら、相変わらず強情なこと。
「……どう?貴方も、食べない?」
「遠慮する。……それを食べたが最後」
男は傷だらけの顔を歪めて、私を睨みつけた。
「――魔王。お前の下僕にされるのだろう?」
「あら、勇者。下僕だなんて、そんなこと」
私はなるべく男――勇者から見て、色っぽく、美しく、そして強かに見えるように笑みを作って、勇者に近づいた。そして、彼の体にしなだれかかって――勇者の唇を指でなぞった。
「善意の協力をして欲しい……そう言っているだけよ?」
勇者は私の言葉に、ぐっと眉を顰めたかと思うと、いきなり立ち上がって、私を置いて部屋から出ていってしまった。
**********
「うふふ。勇者、今日はこれよ?」
勇者は今日も相変わらず無愛想な顔で、明後日の方向を向いて私を見もしない。
仕方がないので、私は今日もまた彼の目の前で独りでそれを食べることにした。
皿に乗っているのは、所謂シュークリームというものだ。
最近魔界で流行り始めた流行最先端のお菓子。
金色のふかふかの皮のなかに、とろとろ甘いカスタードと生クリームがたっぷりはいった一品。
それと一緒に美味しい紅茶を飲めば、きっと素晴らしい午後のひとときを得られるに違いない。
私はシュークリームをそっと持ち上げた。
もこもことしたクリーム色のシューを手で持つと、まるで雲を掴んだかと思うほどに柔らかい。
けれども、たっぷりのカスタードと生クリームを期待させるずっしりとした重さを持っている。
そして、なによりふんわりと香るバニラの匂い!
ああ……甘いもの好きには堪らない!
そこで、私は誰かの視線を感じて顔を上げた。
すると、こちらを凝視するように見ていた勇者と目が合う。
いつもは不機嫌そうな顔をしている勇者が、呆けたような顔で口を半開きにしてこちらを見ていたのだ。
「うふふ。勇者も食べるわよね?」
「――うるさい!誰が食べるものか!」
そういうと、勇者は私に背を向けてしまった。
……もしかして、意外と甘いもの好きなのかしら。
そういえば、人間界では甘味は貴重なものだと聞いたことがある。
今度からは、甘味攻めもいいかもしれないわね?
私はそう思って、にっこりと微笑みながら、勇者に見せつけるようにシュークリームに齧り付いた。
「ああ……カスタードクリームと生クリームが最っ高!」
「黙って食え!馬鹿野郎!」
――ガンッ
勇者は、苛立ちを隠しきれずに、テーブルを思い切り蹴った。
**********
人間界と魔界。
隣り合って存在するその2つの世界は、遠い昔から絶え間なく争い続けていた。
人間と魔族はこの世に生を受けた瞬間から、果てしなくどこまでも、そして飽きることなくいがみ合い、殺し合い、奪い合い。今までの歴史上、ふたつの世界がお互いに歩み寄ることは無かった。人間と魔族は争い、殺し合うもの。誰もが皆、そう信じ、思い込んでいるのが現状だ。
今から千年前、当時の魔界を統治していた魔王が、人間の勇者に殺されてしまった。
その影響で、暫くは人間界の優位が続き、魔界に入り込んできた人間に魔族たちは怯える日々を過ごさなければいけなくなった。けれども、その50年後。魔族の中から、新しい魔王が生まれた。……それが、私。
私は自分で言うのもなんだけれど、魔王としては素晴らしく優秀な方だった。
私は魔界に入り込んできた人間共をあっという間に駆逐すると、人間界と魔界の間にある境界の守備を固めた。
……それ以来、人間がその境界を越えて魔界に侵入したという話は聞かなかった。……つい、最近までは。
今代の勇者と呼ばれる男が境界を越えて魔界に侵入し、ついには魔王城を襲撃してきたのだ。
いつも通り書庫に篭って読書をしていた私は、その報告を受けたときは随分と驚いた。境界にはそれなりに強者を配置していたからね。
勇者は、複数人の仲間とともに境界を守っていた魔族を皆殺しにして、まっすぐに魔王城へとやってきたらしい。……そして、勇者と私は魔王城の玉座の間で対峙した。
彼らは人間としてはとても強かった。歴代の勇者の中では頭一つ抜けていると言っていいのではないかと思う。それは誇っていいことだろう。
――けれども、それ以上に。
――彼らの能力なんて、まったく問題にならないくらいに、私の力は、圧倒的で。
――勇者一行は、私ひとりの手によって、赤子の手を捻るより簡単に痛めつけられ、全身血まみれになり、武器を粉々に粉砕され、遂には心を折られ――……暗く、深い絶望に身を染められて、足元に広がる自らの血溜まりの中に沈んだ。
勇者は、私をじっと見つめている。
テーブルの上にはちらちらと小さな炎が灯されている、ガラス部分が煤けてしまっている年代物のランプが
置かれている。
ランプの温かな光に照らされているのは私と勇者だけ。
日が落ちてから随分経っている。夜も更けてきて、窓からは青白い月の光が部屋の中へと差し込んでいた。
私は2つのグラスに、茶色い瓶からお酒を注いだ。
しゅわしゅわと弾けながらグラスに注がれるのは――ビールだ。
ランプの明かりに照らされて、黄金色の酒はより一層輝きを増す。
グラスにビールを注いでいくと、白い泡がグラスの縁から零れそうなほど盛り上がってきた。……それを見た私は、すかさず唇を尖らせて、ちゅっと泡を啜った。
苦くて、さっぱりした味わいのビールの泡は、たまらなく美味しい。
私は唇に着いてしまった泡を舌で舐め取ると、勇者に「あなたもどうぞ?」と、グラスを勇者の方に寄せた。……けれども、勇者はぷい、とそっぽを向いてしまって――また、私はふられてしまった。
「このお酒は泡が美味しいのよ?泡を楽しんでから、中の金色のお酒を飲むの。ああ……泡が消えちゃう。勿体無いわね」
「……なら、お前が飲めばいいだろう。俺はこんな得体のしれない酒を飲む気はしない」
「得体の知れない……うふふ。そうなの?魔界では一般的なのよ」
このビールも、ここ300年ほどで魔界に浸透してきた酒のひとつだ。
今では、魔界のどこの盛り場でも提供されている、どちらかというと安価な酒。
「……」
「今日もつれないわね。別に、これを飲んだからと言って、どうこうするつもりはないわ。今日は私、お酒を飲みたい気分なの。独りで飲むのは寂しいから。……付き合って?」
勇者は私の言葉を聞いて、ちらりとビールが入ったグラスを覗き見た。
……とある筋の情報によると、彼はかなりの酒好きらしいから、随分と惹かれているようだ。
私は勇者に見せつけるようにお酒を飲んだ。
ごく、ごくと喉を鳴らして、キンキンに冷えたビールを飲み干す。舌先に感じる嫌味のない苦味、しゅわしゅわと口の中で弾ける炭酸。それが喉を通過する感覚が、とても心地良い。
「……っ、ぷっはぁ……!」
私は、女性としては幾分はしたないけれども、グラスの中のビールを一気飲みした。
ふう、と一息つくと、ほんのりと酒精が回ってきて、心地良い酩酊感が得られるのもビールのいいところだ。はじめの一杯にこそ相応しい酒。それがビールだ。
「……本当に、何も要求しないんだな?」
私のそんな様子を見ていた勇者が、小さな声で聞いてきた。私が飲んでいるのを見て、耐えられなくなったのか、喉を鳴らして唾を呑み込んでいる。
私は少し笑って、小さく頷いた。
すると、勇者は勢い良くグラスを掴んだと思うと、一気に中身を煽った。
ぐび、ぐび、ぐび、と喉仏が上下しているのが見える。
そして、私のように一気に飲み干すと、大きな音を立ててテーブルにグラスを置いた。
ふう、と息を吐いている勇者の表情はなんとも満足げだ。
「美味しいでしょう」
「……悪くない」
私の言葉に、忌々しそうにそういった勇者の顔は、酒精のせいか、ほんのり赤く色づいていた。
「お前の目的を話せ」
暫くふたりで無言でビールを飲んでいると、勇者はぽつりと呟いた。
私は、勇者の方を見ると、ふふ、と小さく笑った。
「何から話せばいいのかしら」
「全部だ。お前が、殺しかけた俺を治療してこんなところに閉じ込めている理由も、人間界に何を仕掛けようとしているのかも、洗いざらい全部」
勇者はじっとこちらを見ている。暗闇の中、ランプで照らされた彼の金色の眼差しはとても真剣で、私は冗談を吐こうとした口を止めた。……そして、彼に全てを話すことにした。
「ねえ。どうして魔族と人間は争っているのかしら」
「それは敵同士だからだ」
「……敵。それは誰が決めたの?」
「太古の昔から、そう決まっている。誰がというわけではない」
「あなたも他の人間のように、思考を停止させて、何も考えずに周りに流されるタイプなのかしら。残念ね」
「……」
私の嫌味にも、勇者は動じなかった。この男は、一体何なのかしら。切れ者?それともどうしようもない馬鹿?
「私は生まれてこのかた1500年ほど経つけれど、ふたつの種族が争う理由が今だにわからないわ。だから、私が魔王になってからは人間界に攻め入っていない。そんなことに時間を使うくらいなら、私は読書をしたい。内政をして国を豊かにしたい。……美味しいものを食べたい」
「けれども、ここ数年、魔族が人間界に入り込んでいるという話を聞いた」
勇者はそう言うと、私を睨みつけた。
……そうね。矛盾しているものね、怒るのも当たり前だわ。
「それは、人間界の土地が欲しいからよ」
「それを侵略と言わずになんという」
「あら。そうかしら。私が欲しいのは人間の命ではなくて、人間界の土壌、気候……環境そのものよ」
私はグラスにビールを注ぎながら、話を続けた。
「……魔王になってから、魔王城の地下に大量の古文書が収められていることを知ったわ」
「古文書……?」
「それは遥か昔、一大文明を築いた国のものよ。ニホン、という国。ご存知?」
「ニホン?聞いたことがないな」
「そうでしょうね。とっくの昔に滅んだ小さな島国の名だから。……その国は嘗てとても平和な国だったそうよ。そして、美味しいもので溢れていた。ねえ、勇者。貴方にとって旅とはなに?」
「……魔王を打倒するために、勇者である俺に課された試練だ」
「まあ、恐ろしいこと。ふふふ。……その国ではね、美味しい名物を食べるために、遠くの街へと旅へ出るのが当たり前だったそうよ」
私がそう言うと、勇者はなんとも複雑そうな変な顔をした。
勇者にとっての旅とは、命がけで危険を伴うものなのだろう。……一般的な感覚だとそうに違いない。
「わたしはそれを読んで心底羨ましかったわ。美味しいものを食べることは、私のこよなく愛することのひとつだもの。そして……魔界を、世界をそんな風にできたら、どんなにか素敵だろうって思ったわ。だから、嘗てのニホンの食事を再現するために、魔王に就任してからの年月を費やしてきたの。……色々なものが出来たわ。けれどもまだ足りない。魔界の風土では作れないものがたくさんあるの。……だから、私は人間界が欲しい。土が、風が、太陽が……新しい何かを作れる人間界が欲しいの」
「全ては欲のためか。魔族らしい愚かな考えだな」
「……そのビールも、あのお肉の料理法も、甘い菓子も。全てニホンのものを再現したのよ」
「……」
「ねえ。勇者。私はいずれ、魔界も人間界もなくて、気軽に美味しいものを食べに行き来が出来るような世界にしたいの。あなたは強いわ。そして、人間界に大きな影響を及ぼすことが出来る『勇者』だわ。……ねえ。お願い。協力してほしいの」
私がそこまで言うと、勇者は静かに立ち上がって、ドアから出ていってしまった。私は閉まってしまった扉を眺めて、空になった勇者のグラスを見る。
……少しだけ、前進できた気がするわ。
「……絶対に、落としてみせるわ。勇者」
私の決意の篭った声は、誰にも聞かれることはなく、空気に溶けて消えていった。
……後の歴史書によると、後にこの魔王と呼ばれる人物が、人間界と魔界の垣根をなくすまで――この時からおよそ100年掛かったという。
6000字縛りでテーマは美味しい話。
…文字数の関係で尻切れとんぼに…涙
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