不変と変化
リリーシュの姿絵を肌身離さず、持っていた王子はある日突然、其れを投げ捨てた。驚いた周りの人たちは理由を問う。
其れに、リリーシュの姿絵はどこだ、と問い詰める王子は異質だった。床に落ちた其れが、探している物だと伝えても納得せず、必死に駆けずり回る。鬼気迫る表情に、誰も何も言えずにいると。
「あぁ、よかった。無くしたかと思った。あやうく、リリーシュに怒られてしまうところだったな」
そう言って朗らかに笑った王子が持っていたのは、婚約者であるマリアンヌの姿絵だった。
出会ってから、今に至るまでの二人を全て忘れ去れていた訳ではなかった。驚くことに王子は、詳細にマリアンヌのことを覚えていた。
ただ、目の前にいるマリアンヌが、その人だとは気が付かない。
「リリーシュ、今日はロレーヌ地方の紅茶が手に入ったそうだよ。昔から好きだっただろう?」
にこにこと、何の他意もない王子の笑みに、何も言い返せない。今までは傍に来てくれるのを待ち遠しい気持ちで待っていたが、リリーシュと呼ばれるようになってからはさも当然とばかりに隣に座る王子を複雑な気持ちで見つめることしかできない。
「はい。とても嬉しいですわ」
にっこりと微笑むと、満足そうに王子は頷く。リリーシュになることを“お願い”されたマリアンヌに選択肢はない。ただ順応に、王子の気が済むまで話し相手になることだ。
数日に一度登城し、王子との会合をする。兄と一緒の時もあったし、お茶会ではなく、勉強会の時もあった。他愛もない話をしていくと、どうしても記憶の齟齬が生じるが、王子はその違和感を特に気にしたことはなかった。
リリーシュとしての立ち振る舞いを求められたが、其れに完璧さは追求されなかった。そこに殿下の気持ちが表れているのではないかとマリアンヌは考えた。寂しい気持ちを紛らわせる、ただ一時の対応だ。王子の為なら、マリアンヌは協力を惜しまないことを誓った。
あれから3年が経ったマリアンヌは13歳になっていた。王子は16歳。未だに王子の記憶ははき違えたままだ。其れを正すこともできずに、マリアンヌはリリーシュと思われている。表に出る機会も出来て、亡き王女の名で呼ばれる訳にもいかず、愛称としてリィと呼ぶことにしてもらった。マリアンヌの、愛称はマリー、さらに簡素化され、リィ。そしてリリーシュの愛称とも取れるリィ。
成人を迎えていないマリアンヌは夜会に出る機会は少ない。其れでも王子のパートナーとしてどうしても夜会に出なければいけない時は、王子と兄とテラスに避難していた。王家が集まる場所に余程の身分の者しか立ち入ることは出来ないし、テラスならば人が来ればすぐにわかる。
作られた特等席に、わざわざ立ち入る無粋な人はいない。
一緒に入場をして、ダンスをした後、挨拶回りの際にマリアンヌと王子は別れる。逆に兄は王子の傍に常にいた。王子の言動、つまりマリアンヌの存在をフォローするためだ。
その後テラスで合流、いつもの流れで到着したマリアンヌは、何故か一度会場の外まで行った王子を、兄と時間を潰しながら待つ。テラスには特別に席が設けられていて、そこで給仕を受けながら、ゆったりと会場の様子を見ることが出来た。
慌てて来場した待ち人は、一直線に此方に向かってくる。その様子を微笑ましい気持ちで迎えた。
けれど、その隣に少女がいたことと、その少女を見つめる王子の視線で、マリアンヌの表情は凍り付く。
「リィ!よかった、もうテラスにいたんだな」
「小さい頃に一度会っていると思うが、もう一度ちゃんと紹介したくて」
「僕の婚約者のマリアンヌ・ウェルトンだよ」
「療養していたんだけど、ついに夜会にも参加できるようになったんだ」
はしゃぐ、愛しい人の声が空を駆ける、何を言っているのだろうか、見知らぬ言語のように身体に入ってこない。
だって、マリアンヌ・ウィルトンは私で。
私の目の前にいる、王子の隣にいるまだ背の小さい少女は。
「…リリーシュさま、これからよろしくおねがいします」
「ジュリ、アナ?」
茫然と紡ぐ名。
彼女の顔は、私によく似ていた。
当たり前だ、だって彼女は。
私の妹なのだから。
「どうして、」
「何度か見舞いにも行ったが、無事に回復して良かったよ。熱が高かったせいで、最初は、少しおかしなことを言っていたからね」
「自分はマリアンヌではないとか、姉がそうだとか、リリーシュは亡くなった、とかね」
「はは、そんなことある筈ないのに」
「リリーシュは目の前にいるし、マリアンヌに兄はいても姉はいない。あぁ、確か妹はいるんだっけ」
そうだろう、マリアンヌ。
問いに、あどけなく頷く少女と王子は、手を繋いでいた。
誰にも、何にも離されないように、しっかりと。
「リリーシュ様、今宵はもうお疲れなのではないですか?良ければ部屋までご案内します」
どうして此処にいるの?
どうして私をリリーシュと呼ぶの?
どうしてジュリアナをマリアンヌと呼ぶの?
つい、口から出てきそうになった疑問を遮るように、ロバートがマリアンヌの手を取る。優しく、いたわるように。
知らず冷え切った身体に、他人の体温は温かい。夢うつつから現実に引き戻される。
「あ、…えぇ、おねがい」
「言われてみれば顔色が悪いな。ロバート、すまないがリリーシュを頼んだぞ」
不意を突けば、泣き出しそうだった。そして喚き散らすところだった。
どうして王子の隣に貴女がいるの?
私がマリアンヌなのよ、と。
二人の手を離したくなる衝動を飲み込んだ。
胸が焼け付くように痛い。
真実を告げてはならない。
仲良く並ぶ二人を眺めながら、ぎゅ、と強く唇を引き締める。
本当なら彼の隣にいるのは自分なのに。
どうして逃げるように去らなければいけないのか。