第七話 令嬢の決意
クラリスは、小走りで麻由良を追っていた。
麻由良の足は病人だと思えない程に速く、走ったことなど今までほとんど経験のないクラリスには、まるで追い付くことができなかった。現に、麻由良の姿はとうに見えなくなっている。しかし、クラリスには麻由良の行き先がわかっていた。
彼女が今、心から心配している人──アランのところだ。
クラリスは麻由良のことが好きだった。明るくて、聡明で、優しく、女神の加護とも言われる強い治癒の力を持っているというのに、決して驕ることもない。突然迷い込んだ異世界で心細いことも多いだろうに、人前では涙を見せず、人のために一生懸命になる。まさしく『聖女』と呼ばれるに相応しい。
そんな麻由良だからこそ、クラリスは、麻由良には嫌な思いをして欲しくないし、常に笑顔でいて欲しいと心から願っているのだ。それなのに。
アランが臥せっていると知ったときの麻由良の表情を思い出す。悲痛な表情をしていた。自分のせいだと言って。
クラリスは、麻由良にあのような表情をさせてしまったことを後悔していた。自分の弱さから、真実を告げてしまったことに。アランの状態を知れば、麻由良なら自分を顧みずに助けようとすることはわかっていたはずなのに。
麻由良は、間違いなくアランの部屋へと向かっているはずだ。
今の麻由良の状態では、アランに治癒を施した途端にまた倒れてしまうだろうことは目に見えている。治癒の魔法は、少なくとも麻由良が思っている以上に、術者の身体に負担をかけるものだということを、クラリスは知っていた。
麻由良の部屋からアランのいる部屋までは、そこそこの距離がある。それでも、階段を上って廊下の突き当りを左に曲がったら、すぐにアランの部屋があると言う場所まで来た。
クラリスは廊下を曲がろうとして──目にした光景に息を飲み足を止めた。
そこには、クラリスがずっと愛しく想う人がいた。ヴァレリーはクラリスに背を向けているが、幼い頃からずっと見つめ続けてきた相手だ、見紛うはずがない。
ヴァレリーは誰かを抱きしめているようだった。逞しい腕の間から、黒い艶のある髪が覗く。麻由良だ。僅かに見える麻由良の肩は小刻みに震えていた。
麻由良を腕に抱き、その頭を撫でるヴァレリーの表情は、ひどく優しく温かいものだった。
クラリスは、咄嗟に壁の影に身を隠した。
ヴァレリー様が、あのように私に触れてくださったことは、今までに一度もない……。ヴァレリー様は、マユラ様を望んでいらっしゃるのだわ。
クラリスの目の前が真っ暗になる。足元から何かが崩れていくような感覚を覚えていた。
七歳の頃だったか、クラリスがヴァレリーの許嫁となったのは。その時点で一度もお逢いしたことがない王太子殿下を将来夫に持つことになったと知ったとき、クラリスは未だ幼過ぎて事の重大さを理解していなかった。
その後すぐ、父親とともに国王陛下とヴァレリー王太子殿下へ挨拶に行くことになった。
初めて訪れる由緒正しき城、荘厳な謁見の間、威厳ある国王──そのすべてが七歳のクラリスにとっては憂惧に値することだった。狼狽し泣き出してしまったクラリスの目の前に、国王の傍らにいた少年が近付いてきて跪いた。
「泣かないで」
少年は、そう言いながらハンカチを差し出してくれたのだった。驚いたクラリスは本当に泣くのをやめてしまった。しゃくりあげながら鳶色の瞳を大きく見開いてその少年を見つめる。
少年は、十五、六歳だろうか。国王と同じサンディブロンドの髪をしていた。海のように暖かい瑠璃色の目を優しく細めてクラリスを見ている。
こんなに綺麗な男の人は見たことがないわ。
クラリスは頬に熱が集まるのを感じた。
差し出したハンカチを受け取る様子のないクラリスに少年は苦笑し、代わりにその頬を優しく拭って微笑んだ。
「私はヴァレリー・オルブライト。ヴァレリーと呼んで。貴女の名前を窺っても?」
ヴァレリーが言う。
そこでようやくクラリスは理解した。この目の前にいる美しい少年が、自分の将来の伴侶になるのだと。
「クラリス・ファリントン、です……」
半ば呆然と名乗る。そのクラリスの背を父がそっと突いた。クラリスはハッとし、慌ててドレスを摘まんで淑女の礼をしたのだった。
その後、定期的にクラリスはヴァレリーと会う時間を設けられた。結婚するまでの間、ゆっくりとお互いを知っていくために。
生来からそうなのか、八歳という年の差から来る余裕なのか、ヴァレリーはクラリスに対してどこまでも紳士的だった。
親同士が決めた許嫁の関係ではあったが、クラリスが、優しく美しいヴァレリーを好きになるのに、そう時間はかからなかった。
恋をしている自分に気付いてからは、ヴァレリーと過ごす時間が来るのが待ち遠しくて仕方なかった。ヴァレリーの瑠璃色の瞳に見つめられると、胸が高鳴りが抑えられず、息苦しさすら覚えた。それを悟られないように微笑み続けるのが大変だった。
そうして年月を経ていく内に、八年という年齢差を歯痒く思うようになった。ヴァレリーはクラリスのことを大切にしてくれるが、子供扱いされていることはわかっていた。恋愛対象として扱われなくても、せめて、隣に立って恥ずかしくない女性になりたいと思った。
ヴァレリーと会えない時間、クラリスは自分を磨いた。将来胸を張ってヴァレリーの隣に立つために。王妃という立場に相応しい淑女になるために。勉学に励み、作法を学び、苦手なダンスは足のマメが潰れてでも練習を続けた。人知れず、努力し続けた。
愛するヴァレリーの傍にいるために。
そのすべてが、崩れ去ってしまったように感じた。
それでも、二人を怨む気持ちは生まれなかった。クラリスは、ヴァレリーのことも麻由良のことも好きだったから──
「クラリス?」
愛しい人が自分の名を呼ぶ声で、クラリスは我に返った。いつの間にか、すぐ目の前にヴァレリーが立っていた。その両腕に、麻由良を抱いて。じくじくと胸の傷が痛む。
「ヴァレリー様……」
「どうした?」
「あ、その。マユラ様を追って……」
一瞬だけ言葉に詰まったクラリスを不審に思ったのか、ヴァレリーが眉を顰めた。
「大丈夫か?」
「え?」
「いや、辛そうに見えたから」
どうしてこの人は、私の考えていることがわかるのだろう? なんて優しく、なんて残酷な人なのだろう? クラリスは、泣きそうになるのをぐっと堪えた。
今はまだ、泣いてはだめ。とても、とても辛いけれど、ヴァレリー様のお気持ちが分かった今、この優しさに甘えていては、私はどんどん心の醜い女になってしまう……。
クラリスは感情を押し殺し、完璧な淑女の微笑みを顔に貼り付けた。
「マユラ様を追うのに急いだので、少し疲れてしまっただけですわ。マユラ様はご無事ですか?」
無理矢理話題を変えたのだが、ヴァレリーは気が付かなかったらしい。ヴァレリーはぐったりと彼に身体を預ける麻由良へと視線を落とした。
「無事と言えるのかわからんな。気を失っているし、熱が高い。このままマユラの部屋へ連れて行く。クラリス、すまないが看病を頼めるか?」
「承知しました」
クラリスが軽く頭を下げると、ヴァレリーは頷き麻由良を横向き抱いたまま大股で歩み始める。クラリスもその後ろを早足で追いながらヴァレリーに尋ねた。
「あの、アラン様の容態は?」
「マユラが治癒を施してくれたらしい。様子を見てみたが、完治していたよ。今はぐっすり眠っている。出血が酷かったせいだろうな。目を覚ますのはもう少し先になりそうだ」
「よかった。安心いたしましたわ」
「だが、おかげでマユラがこの様だ」
ヴァレリーが唇を噛む。大切に想う女性がこんな状態なのに何もできず、やるせない思いを抱いているのだろう。クラリスはそんなヴァレリーに向かって、力強く宣言した。
「大丈夫です。マユラ様は私が絶対に死なせたりしませんわ」
ヴァレリーが驚いたようにクラリスの方へと振り向く。目が合ったとき、クラリスは大きく頷いて見せた。
「それは頼もしいな」
ヴァレリーがフッと微笑んだ。
麻由良の部屋に辿り着くと、ヴァレリーは麻由良をそっとベッドへと横たえた。クラリスが乱れたドレスの裾を整えてから麻由良の身体に毛布を掛け、額に冷たい水で濡らした清潔な布を置く。
熱が高く、浅い息を繰り返しているものの、麻由良は深く眠っているようだった。
「このまま、傍に付いております。もうマユラ様を一人には致しませんから」
クラリスはヴァレリーに言った。
麻由良を部屋に一人にしたことで、麻由良が行方不明になってしまったことをクラリスが気にしているのだとヴァレリーは見抜いたのだろう。
「気に病むな。過ぎたことだ。それに、マユラは帰ってきただろう」
そうクラリスに告げ、麻由良を一瞥すると「後は頼んだ」とヴァレリーは部屋から出て行こうとする。クラリスはそれを戸口まで見送ると、意を決してヴァレリーを呼び止めた。
「ヴァレリー様。一つお願いがあるのです」
「なんだ?」
「殿下との婚約、解消させてくださいませ」
「な……!?」
「勝手を申しているのはわかっております。お咎めがあるならばお受けします。後日、父より正式に申し入れさせていただきたいと存じます」
一気に言い切り、深々と頭を下げる。
これでいい、これでいいのですわ。これで、ヴァレリー様は誰にも遠慮することなく、マユラ様を伴侶としてお迎えできるようになりますもの。
マユラ様であれば、貴族たちも民たちも、国母として喜んで受け入れてくれるでしょう。何せ『女神の加護を受けし、漆黒の聖女様』と言われている方ですもの。
私はヴァレリー様が幸せになってくださるなら、それが一番嬉しいのです。
でも、できることなら──私が、あなたの隣に立ちたかった……。