第六話 聖女の悲哀
「マユラ様、気が付かれましたか?」
麻由良が重たい瞼を開けると、心配そうに自分を覗き込むクラリスの姿が見えた。どうやらベッドに寝かされているらしい。
「あれ…クラリス……? ここは……?」
「マユラ様のお部屋です」
そう答えたクラリスの表情が歪み、鳶色の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「よかった…本当によかった……!」
泣き始めてしまったクラリスに驚き、麻由良は慌てて身体を起こそうとした。が、くらりと視界が揺れてまた枕へと頭を預ける羽目になる。
眩暈が止まるのを待って、麻由良はクラリスに尋ねた。
「私、どうなったんだっけ……?」
クラリスは細い指で涙を拭い、口を開く。
「アラン様が連れ帰って来てくれたのですわ。でも、マユラ様の熱がなかなか下がらなくて……」
「そっか……」
あの時見えたのは、やっぱりアランだったのだ。曖昧にしか覚えていないのは、気を失ってしまったからだろう。
「ごめんね、クラリス。いつも心配ばっかりかけて」
涙声で答えてくれるクラリスの口調からして、かなり危ない状況だったのだろう。聞けば、三日も眠ったままだったらしい。
「私はもう大丈夫よ、クラリス。だから泣き止んで?」
麻由良が言うとクラリスは苦笑交じりに微笑み、頷いた。
「お腹が空いているのではありませんか? すぐにお粥を用意させますね」
クラリスは麻由良に毛布を被せ直すと、いったん部屋を出て行った。
一人きりになった部屋で、麻由良はそっと目を瞑る。
アランにお礼を言わなきゃ。来てくれなかったら、今頃きっと、私は連れ去られてただろうから。アランは無事なのかな。あの私を連れ去ろうとした人たちみんな、とっても訓練されているみたいだった。
程なくして粥を運ぶ侍女と共に戻ってきたクラリスに、麻由良はアランのことを尋ねてみた。
「アラン様なら大丈夫ですわ。マユラ様は、とにかくこのお粥を食べてくださいね」
微笑みながらそう言ったクラリスだったが、アランの名を出した瞬間、一瞬だけその表情が曇ったのを麻由良は見逃さなかった。その理由を思い至り、麻由良は口に出した。
「──アランも臥せってるのね?」
クラリスの表情が強張る。それでも尚唇を固く引き結んでいるクラリスを静かに見つめ、麻由良は言った。
「クラリス?」
クラリスが俯く。鳶色の瞳に、涙を湛えて。
「ええ。マユラ様と共に帰ってきたとき、アラン様は深手を負っていらして、城へ辿り着けたのも不思議なくらいで……」
「っ!? 生きてるのよね?」
縋るように聞いた麻由良に、クラリスが俯いたまま小さくこくりと頷いた。
「私のせいだ……。クラリス、アランはどこ? 連れてって」
麻由良はベッドから降りた。まだ熱が高いのだろう。多少ふらつきはするが、倒れるほどではない。
「いけません、マユラ様。まずはマユラ様のご病気を治さないと」
クラリスが止めるが、麻由良はそれを振り払って部屋を飛び出した。
アランがいるだろう部屋は予想がつく。ヴァレリーの執務室の隣にある、アランが城内で寝泊りする際に使用している部屋だ。
麻由良は息が切れるのにも構わず、重い脚を叱咤しながら廊下を走った。
階段を上ってしばらく進むと、目的の部屋へ到着する。ノックする時間すら煩わしく思えて、いきなり扉を開けた。
思った通り、部屋の隅に置かれたベッドには、アランが横たわっていた。他には誰もいないが、ベッドの脇に椅子が置かれているので、不定期に誰かがやってきていることがわかる。
アランは苦しそうに眉根を寄せ、瞼を閉じ、浅く速い呼吸を繰り返していた。毛布の上に出ている両腕も、アッシュブロンドの髪の間から覗く額も、痛々しいまでに包帯が巻かれている。椅子の脇に置かれたバケツには、どす黒い染みのついた包帯や布がたくさん入っていた。
いつもは、あんなに悠然としているのに。
普段の姿からは考えられないほど弱ってしまったアランに、麻由良の胸がじりじりと痛んだ。麻由良はそっとアランの頬に触れる。アランの身体は熱く、浅黒い肌がじっとりと汗ばんでいた。かなり辛いのだろう。
「今、治すから」
麻由良は小さな声で呟くと、両手をアランの胸の前にかざそうとした。
そのとき人の気配を感じ取ったのか、アランが薄らと目を開けた。深い碧色の瞳が、力なくぼんやりと麻由良を認める。
「アラン……」
微笑もうとした麻由良は、聞こえてきたアランの声にその表情を凍らせた。
「こんな、ときにまで……」
その声は唸るように低く、麻由良が初めて聞くものだった。いつもの柔らかいテノールの声とはまるで違う。
「アラ、ン?」
「本当に…貴女は私を苦しめる……。憎いですよ。貴女が憎い。
すべてを見透かすような瞳で…私を見つめてくる貴女が……、真実を…知らぬがゆえに……無邪気に…微笑み…かけてくる貴女が……。私は…心の……底から──」
アランが低い擦れた声で、息も絶え絶えに言葉を紡ぎながら、すぅっと瞼を閉じる。相変わらず苦しそうではあるが、アランは再び眠ってしまったようだった。
麻由良はそんなアランを呆然と眺めた。
──憎、い?
目の奥に熱が溜まったことに気付いて、慌てて口を引き結ぶ。そうしていないと涙が溢れてしまいそうだ。
感情を殺し、奥歯を強く噛みしめて、両手をアランの胸の上にかざす。目を瞑り、いつものように治癒の魔法を施そうとした。
貴女が憎い
麻由良にそう告げたアランの声が鮮明に蘇り、頭の中をリフレインする。ぐるぐると頭の中を回るその声のせいで、とても治癒に集中できそうになかった。
麻由良にアランから憎まれるようなことをした覚えはない。でも、それ自体が問題なのかもしれない。確かに、我儘はたくさん言ってきたし、それに付き合ってもらってもいた。だけど、憎まれる程の無理は言っていないつもりだった。
いや、もしかしたら、憎まれて当然なのかもしれない。
そう、よね。王国を守る騎士としての活躍の場を、この二年、私が奪っていたんだもの。アランなら二年もあれば輝かしい実績を築けたはずなのに。
どちらにしても、私に心当たりがあろうがなかろうが、アランに憎まれていることに変わりはないわ。
この二年間で、アランが私にくれていた物は、たくさん、たくさんある。けど、優しさも、笑顔も、ときには叱咤も、そういった物すべて、造られた物だったのね。私の護衛騎士という仕事を全うするために。私を憎む気持ちを殺して。
「ごめんなさい……」
そう呟いた途端、涙で視界が歪んだ。
今更お詫びにもならないけど、すぐ、治すから。
麻由良はごしごしと手の甲で涙を拭い、深呼吸した。アランに向かって両手をかざし、強く、強く祈る。
──アランの怪我が治りますように。熱が下がりますように。元気になりますように。
麻由良の身体から光が溢れ、アランへと注がれていく。治癒が完了するのとともに、光は淡く消えた。
途端に眩暈を覚え、麻由良はその場に手をついてしゃがみ込む。少しでも気を抜いてしまえば、意識が遠退いてしまいそうだ。それでも、気を失わないよう必死で堪えた。
麻由良は椅子に縋りながらふらつく身体をなんとか立たせ、アランの様子を窺う。アランは、先程までの苦しそうな浅い息から、深く静かな呼吸へと変わっていた。表情も和らいでいる。もう、身体は大丈夫だろう。
「あと私にできるのは、アランを私から解放してあげることだけね」
麻由良はそう呟いたが、視界が再び滲んだ。涙を拭い、目を瞑るアランの整った顔を見つめる。
アラン、私ね、あなたのことがずっと好きだった。優しい笑顔も、怒った顔も、逞しい腕も、どんなときでも私を守ってくれようとする心意気も。全部、全部好きだった。伝えなくてよかった。伝える前でよかった。
ヴァレリーに頼んでみるね。アランに与えた、私の護衛の任を解いてくれって。そうすれば、アランはもう私に会わなくて済むから。私にいちいち構わなくて済むから。だから、もう、安心して。
頬を伝う涙が熱い。愛しい想いが涙となり、後から後から溢れて来る。好きだという自覚はあったが、ここまでだったとは。
あぁ、もう、限界──
「さよなら、アラン」
麻由良は呟くと、身を翻した。
どこでもいい。アランのいるこの部屋じゃない場所へ行こう。
麻由良は、とにかく一人になりたかった。一人で、思い切り泣きたかった。
勢いよく部屋を出た途端、麻由良は何かにぶつかった。下を向いたままだったため、扉の外の『何か』に気付かなかったのだ。
『何か』は突然体当たりしてきた麻由良をしっかりと受け止めると、驚いたように麻由良の名を呼んだ。
「マユラ!?」
その声で『何か』が誰なのかわかる。ヴァレリーだ。自分の部屋に用があるのか、アレンの様子を見に来たのか。多分、後者だろう。親友の容体が心配で時間ができる度に見舞いに訪れる、ヴァレリーはそういう人だ。
ヴァレリーは、突然アランの部屋から飛び出してきた麻由良に呆気に取られていたが、特に咎めることはなかった。逆に、心配気に尋ねられる。
「マユラ、もう身体は大丈夫なのか?」
麻由良は俯いたままこくりと頷いた。今は、とてもじゃないが、人に見せられる顔をしていない。
ヴァレリーの自分を窺う視線を感じ、麻由良は顔をそっと背けた。
「もしかして、泣いているのか?」
ヴァレリーの質問に、麻由良の身体が強張った。それだけでヴァレリーは答えがわかったらしい。
「どうした何があった? アランは?」
焦った様子でそう息巻いてアランの部屋に入ろうとする。麻由良は慌ててヴァレリーに正面から抱き着き、ヴァレリーが扉を開けるのを阻止した。
「待って。アランは大丈夫。私が治したから」
「マユラ……?」
ヴァレリーの手が、必死に伝える麻由良の濡れた頬に触れた。確実に、泣いていることがわかってしまっただろう。ヴァレリーはその手を麻由良の頭に置くと、落ち着かせるかのように何度も何度も、優しく撫でてくれた。
「やはり泣いているのか。何があった? 私にも言えないことか?」
ヴァレリーの声は柔らかく、麻由良を少し落ち着かせてくれる。呼吸を整えてから、麻由良は答えた。
「──なんでもないの。ただちょっと、ホッとしただけ」
ヴァレリーが頭を撫でるのをやめ、麻由良の両肩を掴んで身体を離すと真っ直ぐに目を合わせてきた。
「本当に?」
麻由良は頷いた。すべてを隠して。そして、続ける。
「それよりお願いがあるの。ヴァレリー、聞いてもらえる?」