第四話 聖女の衝撃
麻由良が扉の方を見る。その向こうから、麻由良のよく知る、麻由良の心を温かくしてくれるテノールの声が聞こえてきた。
「聖女様、アランです。入ってもよろしいですか?」
麻由良が「どうぞ」と言うと、扉を開けてアランが部屋に入って来た。髪を結い終えわたばかりで、未だドレッサーの椅子に腰かけていた麻由良を認め、頭を下げる。
「おはようございます」
「おはよう、アラン。昨日はいろいろとありがとう」
「いえ、聖女様の護衛として当然のことをしたまでです」
麻由良はアランの言葉にツキンとした胸の痛みを覚える。アランにとって、麻由良を守ることや世話することは、仕事であり義務なのだ。そう、言われた気がして。
「もうお身体は大丈夫なのですか?」
窺うように自分を見るアランに、麻由良は微笑みを返した。
「見ての通り、動けるようにはなってるわ。でもまだ、治癒魔法を使うのは難しいみたい。明日には多分、治ってると思うけど」
「そうですか。それでは、今日はゆっくりとお休みください」
「そうするわね」
こういう日、麻由良はいつも部屋で過ごしている。そして、この世界の文字をクラリスに教えてもらっているのだ。
この世界の本を読んでみたいのだが、麻由良にはこの世界の文字を読むことができない。ヴァーチの腕輪には、会話を補助してくれる力はあっても、文字の読み書きを可能にする力はないようだった。
二年間、根気よく教えてくれたクラリスのおかげで、なんとか自分の名前だけは読み書きができるようになった。今日は、アランやクラリス、ヴァレリーの名前の読みを教えてもらうつもりだ。
早速クラリスにお願いしようとした麻由良は、アランに呼び止められた。
「聖女様、急で申し訳ないのですが、本日、護衛の任を休ませていただいてもよろしいですか?」
アランがこんなことを言い出すのは、この二年で初めてだ。
驚いて動きを止め、アランを見つめ返す。
「どうかしたの?」
「それが」アランは言い難そうに一瞬言葉を切ってから続けた。「父上に、一度家に帰って来るよう言われまして」
アランが、手にしていた何故か皺だらけの手紙を見せてくれたのだが、麻由良にはやはり何が書かれているのかわからなかった。
アランは下手な嘘を付く人間ではない。きっと手紙にはアランの言う通り、父からの息子の顔を見たいという願いが綴られているのだろう。
確かに、常に麻由良の隣にいるアランが、この二年、満足に家に帰っているとは思えない。麻由良がいるために、アランはもう長い間家族の顔すら見ていないのだ。
アランはクリフォード伯爵家の次男だと聞いている。アランの父親とういうことはクリフォード伯爵家当主で、家というのは伯爵家の屋敷のことだろう。わかってはいたが、質問が口を突いて出た。
「家って伯爵家?」
「ええ」
即答するアランに、麻由良は、やはりアランは自分とは住む世界が違うのだと思い知った。
聖女様と崇められ、城に住んではいるが、麻由良は所詮、庶民の感覚しか持ち合わせていないのだ。
そう言えば、この世界に来てしばらくした頃に参加した夜会でも、気後れしかしなかったな、と麻由良は思い出した。ヴァレリーに「参加してみたいかい?」と聞かれて、映画の中くらいでしか見たことがない世界を実際に見てみたいと思い、参加させてもらったのだ。
アーチを描く高い天井、ピカピカに磨かれた大理石の床、きらきらと輝くシャンデリア、華やかな色とりどりのドレス、この国の貴族にとっては当たり前の催しであるのだが、麻由良は圧倒されっぱなしだった。
キツく身体を締め付けるコルセットと履き慣れない踵の高い靴のせいで、立っているのもやっとなのに、休む暇もなく次々と挨拶に来る貴族の面々に時間を取られ、疲弊もした。見かねたらしいアランにそっと連れ出されるまで、麻由良はじっと耐えていた。楽しいとも素晴らしいとも思えなかった。
それ以来、夜会には参加していない。度々催されているのは知っているが、ヴァレリーやクラリスが麻由良を誘うことはなかったし、参加しないことで特に誰かに何か言われることもなかった。多分、初めて参加したときの様子から、ヴァレリーが気を遣って、麻由良が参加しなくても済むように手を回してくれているのだろう、と麻由良は推測している。
しかし貴族にとっては、あれが当たり前なのだ。麻由良とは、基準が、住む世界が、何もかもが、違う。
麻由良は笑顔を作り、顔に貼り付けた。
「アラン、いつもありがとう。もう随分長い間、ご家族に会ってないんじゃない? どちらにしろ今日はみんなを治癒できないだろうし、私は部屋でのんびり過ごすわ。アランも、せっかくだからゆっくり休んできてね」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
アランが一礼し、部屋を去ろうとする。その背に、麻由良は声をかけた。
「いってらっしゃい」
アランが足を止め、振り返る。その表情が驚いているように見えて、麻由良は何か変なことを言ったかしらと首を傾けた。アランはすぐに嬉しそうに顔を綻ばせた。麻由良の心臓がトクンと鳴る。
「……はい、聖女様。行って参ります」
アランが出て行った後、閉ざされた扉を見つめながら麻由良はクラリスに言った。
「ねぇ、クラリス。私、アランに嫌われてるのかな?」
クラリスが驚いたように瞠目する。
「なぜ突然そのようなことを?」
クラリスは『突然』と言ったが、実は麻由良にとっては前々から思っていたことなので、実は全く突然ではなかったりする。
麻由良とて、嫌われているとは思いたくない。しかし、アランは麻由良のことを決して名前で呼ばない。常に『聖女様』と呼ぶのだ。
いや、違う。違った。初めは呼んでくれていたのだ、『マユラ様』と。しかし、いつからか、それが『聖女様』に替わっていた。
その事実に気が付いたのは、アランのことを意識するようになってからだ。
惹かれ始めている人に名を呼んで貰えないというのは悲しい。麻由良は一度、アランに聞いたことがある。
「なぜ、私を『聖女様』と呼ぶの? ヴァレリーやクラリスみたいに、名前で呼んでくれていいのよ?」
と。
アランは少し困惑の表情を浮かべ、そして答えた。
「聖女様は、聖女様だからです。人々に治癒を施す、わたしがお守りすべき方を『聖女様』と呼んではいけませんか?」
はぐらかされたことはすぐにわかった。答えになっているようでなっていない。
──つまり、私のことを名前で呼びたくないっていうことなのね。
麻由良は理解し、以後、その話題を出さないことにしていた。名を口にすることを避けられるなんて、嫌われている以外にどんな理由があるというのだろう?
しかしそれをクラリスに告げたくはなかった。クラリスに言えば、きっとヴァレリーに報告されるし、アランにも伝わることになるだろうから。
「うーん。なんとなく……?」
お茶を濁した麻由良の思いには全く気付かなかったらしく、クラリスは力強く断言した。
「アラン様に限って、そのようなことはないと思いますわ」
「なら、いいんだけど」
「アラン様がお休みを申し出るなんて初めてですから、もしかしたら、マユラ様はご自分で気が付いていないだけで不安なのかもしれませんね」
クラリスの言葉には、妙な説得力があった。確かに、この世界に来てからずっとアランと一緒にいたから、いつも一緒にいる人がいないということに、不安を覚えているだけなのかもしれない。
自分を納得させようとした麻由良は、聞こえてきたクラリスの次の言葉に凍りついた。
「アラン様は、お見合いをされるそうですよ」
「お見、合い……?」
どくん、どくん、と脈打つ音が耳の奥で聞こえる。自分自身の存在を、麻由良はどこか遠くに感じた。目の前にいるクラリスですら、遠くに居るように思える。
突き付けられた事実を受け入れるには、あまりに唐突過ぎて、麻由良は心と身体がバラバラになってしまったような気がした。
「ええ。そう、ヴァレリー様がそうおっしゃっていました。なんだか少し寂しそうでしたわ」
「そう……」
「マユラ様?」
呆然としていた麻由良は、クラリスが心配そうに自分を覗いていることに気が付いて、慌ててニッコリと微笑んだ。
「あ、ううん。なんでもない」
そう伝えたものの、激しく動揺している自分に麻由良は驚いていた。そんな感情を押し殺して、麻由良はクラリスを安心させるためにおどけて見せる。
「ヴァレリーったら、アランのお見合い相手に妬いてるのかしら。自分にはクラリスがいる癖にね」
途端に、クラリスは両頬を染め、その頬を白く細い手で覆った。
「そんな……」
「でも、許嫁なんでしょう? 嫌だったらとっくに解消されてると思うんだけど」
「マユラ様、からかわないでくださいませ」
「からかってるつもりはないんだけどな」
ますます赤くなっていくクラリスを、麻由良はなんて可愛らしいんだろうと思って眺めた。
麻由良から見て、こういう反応を示すクラリスがヴァレリーのことを慕っているのは明白なのだが、同時に、ヴァレリーがクラリスのことを好いているのも明白であった。
しかし、どうもクラリスにはヴァレリーの好意が伝わっていないらしい。確かに態度に現れることは少ないが、ふとした瞬間、ヴァレリーが、ときに嬉しそうに、ときに心配そうに、クラリスを目で追っているのを麻由良は何度も目撃している。
あの年齢の男性で、あんなにわかりやすいのも珍しいと思うんだけど、と麻由良は密かに思っているのだが、それをわざわざ口に出したことはなかった。
「わ、私、本を、持ってまいりますね」
顔をサクランボのように真っ赤に染めたクラリスが、逃げるように部屋から出ていき、麻由良は一人になった。
ぼんやりと、窓の外を見やる。
アランがお見合いをする。
この世界の医療技術や食生活のレベルからみて、寿命は麻由良が居た世界よりも短いだろう。そう考えると、三十二歳で結婚というのは、男性であっても早いとは言えない。
お見合いの場を設けるまでに至っているということは、お互いに結婚を視野に入れているはずだ。
アランの隣に、誰か、麻由良の知らない女性が立つかもしれないのだ。純白のドレスに身を包んで。幸せそうに微笑んで。
胸が張り裂けそうに痛い。一人になったことで張り詰めていた糸が切れ、ぽろぽろと涙が零れて来る。この世界に来て、一度も泣いたことなんてなかったのに。奥歯を強く噛みしめてみるが、涙が止まる気配はなかった。一瞬でも気を抜けば、嗚咽が口から漏れてしまう。
──どうしよう。私、こんなにアランのこと好きだったんだ……。
そう思ってしまったら、麻由良はもう堪らなくなって、両手で顔を覆った。
「う……っく。ふ……」
声を殺して泣く。しかしすぐに、麻由良は手で涙を拭うと、立ち上がった。
すぐにクラリスは戻ってくるだろう。泣いているところを見られたくなかった。
麻由良は、ショールを手に部屋を後にした。
本日19時にもう一話更新します。