第二話 聖女の過去
日本に生まれ、普通に大学を卒業し、社会人三年目の普通のOLだった麻由良が、異世界に迷い込んでしまったのは、今から約二年前の話だ。
あのとき何があったのか、麻由良にも未だによくわかっていない。
仕事からの帰路、地下鉄の駅から地上へ上がる階段を上り切った時、麻由良は既に、この異世界の、森の中に立っていた。後ろを振り返っても、上ってきたはずの階段は見当たらず、愕然としたのを覚えている。
辺りには、麻由良が五人いても抱えられない程の大木が隆々と並び立っており、深く生い茂る葉のためなのか、時間帯のためなのか、気味が悪いほどに薄暗い。
とにかくこの場に居続けることに危険を感じ、歩き始めてすぐ、少し離れた大樹の根元に人がいるのを見つけた。小走りで近付いた麻由良は、さらに愕然とすることになる。
その男は、全身血だらけだったのだ。上半身を幹に預け、下半身を投げ出した状態で。僅かに上下する肩から、かろうじてまだ生きていることはわかるが、服を染めるおびただしい量の血が命に関わる傷を受けていることを如実に知らせていた。
自分の身に起こった事態を呑み込めず混乱していた麻由良は、それでも縋る思いで男の傍らまで走り寄り、その身体に触れて強く願った。
お願い、目を開けて──!!
その途端、眩いまでの光が麻由良から発せられた。麻由良自身が驚く中、その優しい光は怪我をしている目の前の男をも包み込む。光が少しずつ弱まり、やがて消えたとき、男の身体から、傷が綺麗に消えていた。まるで、初めからなかったかのように。
「大丈夫ですか?」
何が起こったのかわからないまま麻由良が遠慮がちに肩を揺すると、男がゆっくりと目を覚ました。
麻由良を捉えたのは、深い碧色の瞳。アッシュブロンドの髪は少し癖があり、精悍でありながら端正な顔立ちは、女性である麻由良を以ってしても『綺麗』と表現したくなるものだ。身体つきはマントに隠れてはっきりとはわからないが、隙間から覗く逞しい腕や脚から鍛えられていることが見て取れる。腰には剣を携えているのが見えた。
男は目の前にいた麻由良の姿に驚愕の表情を浮かべ、何かを言う。しかしそれは、到底麻由良の理解できる言語ではなかった。
その事実は、麻由良を動揺にさせるのに十分だった。突然来てしまったどことも知れぬ森の中で、ようやく出逢えた人の言葉がわからない。これから自分はどうすればいいのだろう?
「ごめんなさい、わかりません」
意味が分からないことを伝えようと、そう言いながら首を傾げてから横に振った。
男は麻由良の言いたいことを理解してくれたのだろう。少し困ったような表情をした後、麻由良の前に跪くと、その手を取って熱の籠った瞳で麻由良を見つめてきた。
元の世界では見たこともないような美丈夫に跪かれて、麻由良は激しく気後れしたのを今でも覚えている。
その後、わけもわからぬままに、男にとある城へと案内された。そこで麻由良は、豪奢な部屋のふかふかなソファに座らされ、男に輝く青い石の嵌め込まれた銀色の腕輪を渡された。身に着けるようジェスチャーで促され、腕を通してみる。
「わたしの言葉がわかりますか?」
男が言った。驚きつつも頷く麻由良に、男は思わず見惚れてしまうほどの微笑を浮かべたのだった。
どうやら、この腕輪には言語の壁を越えさせてくれる力があるらしい。麻由良がそれに思い至ったのは、しばらくしてからだった。
「勝手にお連れして申し訳ありません。先程は助けていただきありがとうございました。わたしはアラン・クリフォードと申します。アランとお呼びください」
「あ、私は、笠原麻由良と言います。あ、麻由良が名です。あの、アランさん、ここは……」
麻由良がここは何処なのか尋ねようとしたとき、突然、麻由良が通されていた部屋の扉がバタンと乱暴に開いた。
「アラン! 無事か!?」
慌てた様子で入ってきたのは、サラサラとしたサンディブロンドの髪に海を思わせる深い瑠璃色の瞳を持った、アランに負けない程の美男子だった。
「ヴァレリー様。ご心配をおかけしました。この通り無事です」
「心配したぞ。お前が血だらけで帰って来たと聞いたから」
「血……?」
アランは自分の手足を見、既に乾き切ってはいるが確かに赤く染まっているのを確認した。
「あぁ、このことですね。傷は完治しています。こちらの方が助けてくださいました。マユラ様と仰るそうです。どうやら異界から渡って来られた方のようでしたので、先程ヴァーチの腕輪をお渡ししました」
会話を聞いていた麻由良に、アランとヴァレリーと呼ばれた男が注目する。麻由良は慌てて頭を下げた。ヴァレリーは麻由良を見て一瞬驚きの表情を浮かべ、次いで人好きのする笑顔を浮かべた。
「私はヴァレリー・オルブライトだ。アランを助けてくれたそうだな。私からも礼を言う。アランは私の大切な友人なのだ」
「いえ、その、私は何も……」
自分が何かをした覚えは全くない。わけがわからず否定する麻由良に、ヴァレリーは微笑んだ。
「とにかく、順を追って説明しようか」
そうして麻由良がヴァレリーから聞いたのは、ここは日本ではなく、ましてや地球でもないということだった。エルメンガルト大陸にある、オルブライト王国──それが、今、麻由良のいる場所だという。
どうやら、極稀に、この世界へ他の世界から迷い込んで来る者がいるらしい。麻由良もその一人ではないか、と。
そんな、現実にはあり得ないような話を、麻由良は意外とすんなり受け入れていた。信じられないけれど、実際に我が身に起こってしまったのだから。しかし、この世界に居続けたいかと言われると話は別だ。
「元の世界に戻る方法はありますか?」
縋るように尋ねた麻由良に対し、ヴァレリーは安心させるように頷いた。
「大丈夫だ、方法はある。本人がこの世界へ残ることを希望すれば別だが、我が国では原則として、異界から渡って来た者は元の世界へ送り返すことになっている。ただ、魔導士がそなたの居た世界を示す座標を探し当てる必要があるのだ。すまないが、少し時間をくれないか。魔導士たちに命じて術式を作らせよう」
『魔導士』という言葉に麻由良が目を瞬かせると、ヴァレリーもアランも驚いたようだった。
どうやらこの世界には『魔法』と呼ばれる不思議な力が当たり前のものとして存在するらしい。そして麻由良は『治癒』の魔法、それもかなり強力なものを扱えるのだという。アランはその力に助けられたのだ、とも。
「昔は魔法を使うことのできる者はほんの一握りしかおらず、代わりに強大な力を生み出せたそうですが、今では魔法使いが増えた代わりにその魔力は極端に弱くなってしまいました。血が薄くなったからだという説を唱える者もいます。
現在も、治癒魔法を扱える者はたくさんおりますが、せいぜい傷を塞いだり熱を下げたりできる程度です。死の淵にある者を、傷跡すら消してしまう程に回復させることができるような治癒魔法の使い手は、話に聞いたことがありません」
自らの身体を示しながら話すアランの言葉で、ようやく麻由良は先程の光は自分が作り出したのだということを理解したのだった。
ヴァレリーがさらに説明する。元の世界に戻るまでの間は、彼自身──ヴァレリー・オルブライト王太子が麻由良の後見人となってくれること。王城の中に麻由良の部屋が用意され、衣食住を保障してもらえること。世話役の女性を一人就かせること。城内は自由に出歩いてよいが、城の外へ出る場合は、たとえ城下町であっても一人で出掛けるのは禁止とすること。
「それと、アランをそなたの護衛として就かせよう。アラン、頼めるか?」
「承知しました」
ただのOLである自分には手厚過ぎる待遇に、麻由良は焦り辞退を申し出たが、聞き入れられることはなかった。
「アランを救ってくれた礼というのもあるが、そなた自身を守るためでもある。そなたはこの世界のことを何も知らぬ。そなたが居た世界がどのようなものなのかはわからぬが、この世界の常識とは違うことも多かろう。危険があってからでは遅い」
そう言われてしまえば、引き下がらざるを得ない。
かくして、オルブライト王国の王都で過ごし始めた麻由良だったが、ただ何もせずに世話になるだけというのは性に合わなかった。考えた末、せっかく授かった力があるのだからと、怪我人や病人を診て回ることを思い付いたのだった。
麻由良の力はたちまち評判になった。相手の身分を問わずに治癒を施し、どんなに重い怪我や病気でもたちどころに全快させることから、いつしか『女神の加護を受けし、漆黒の聖女様』と呼ばれるまでになっていたのだった。
* * *
麻由良に与えられている部屋に着くと、アランは宣言通り麻由良をベッドに横たえる。布団くらいは自分で被ろうとしたのだが、まだ手足に上手く力が入らなかった。察したアランがそっと毛布をかけてくれる。
「ありがとう」
頬の赤みがばれないように毛布で顔を隠しながらお礼を言うと、アランは優しく微笑んだ。
「ゆっくりお休みください。わたしはヴァレリー様に報告をして参ります」
アランが出て行った扉を見つめ、麻由良は溜め息を付いた。
二年前は帰りたいと強く強く思っていたのが、今は帰りたいような帰りたくないような、妙な気持ちだ。気持ちの変化の原因は、自分でもちゃんとわかっている。
文化も違う、気候も違う、肌や髪や目の色も違う、知り合いもいない、腕に輝くこの腕輪がないと誰とも意思疎通ができない。そんな不安で一人ぼっちの世界で、見目麗しい男性が、甲斐甲斐しく自分を世話し、守ってくれる存在として、常に傍に居るのだ。そんな状態が二年も続けば、アランに対して『特別』を感じずにいられるわけがない。
新入社員が、優しく仕事を教えてくれる先輩にうっかり恋してしまうように、麻由良は、気が付いたときにはもう、アランに恋をしてしまっていた。
本日19時にもう一話更新します。