第十話 聖女の帰還
本日二回目の更新です。
麻由良は、ぼんやりとベッドの上で枕に上半身を預けて座っていた。
目が覚めてすぐ、ヴァレリーに言われたことが未だ信じられない。寝起きだったせいか、夢だったのではないかとすら思った。しかし、現実だ。
明後日の夜に元の世界へ帰還する。帰還と言っても、特に麻由良が準備するようなことは何もない。もともとほとんど何も持たない状態でこの世界に来てしまったし、術式の発動に必要なものは、すべて魔導師長が整えてくれることになっていた。
「帰らせてください」
ヴァレリーにそう願い出たものの、二年もの間この世界で過ごしてきたせいか、麻由良には元の世界に戻れるという事実がまったく現実味を帯びて感じられなかった。
部屋には今、麻由良一人だ。
クラリスは、麻由良が食べ終えた朝食を下げるため、席を外している。クラリスが部屋を後にしてからずっと、麻由良は窓の外を眺めているようでいて、その実、何も見てはいなかった。
どのくらいそうしていただろうか。ばたばたと廊下を走る足音が聞こえてきた直後、バタンと乱暴に扉が開いた。
麻由良が驚いて入口を見ると、そこに立っていたのはアランだった。よほど急いだのだろう、息を乱している。
「アラン……どうしたの? そんな顔して」
珍しく冷静さを欠いたアランの表情に驚き、麻由良は声を掛けた。アランは無言のまま麻由良の居るベッドへと詰め寄って来た。ちょうど逆光になり、麻由良の位置からはアランの表情が上手く読めなくなる。
「異界へ、元の世界へ帰るとお聞きしました」
「ヴァレリーに聞いたの?」
「ええ。本当ですか?」
麻由良はアランの方を見るのを止め、手元に目を落とす。
もちろん、アランに隠したまま帰還することはできないと思っていた。だが、こうも真向に問いただされると、悪いことをしているような気持ちになって、どうしていいかわからなくなってしまう。
「うん、そうなの。明後日。満月の日じゃないと術式が発動しないんだって」
麻由良はそう言って曖昧に微笑んだ。
「何故……そんな急に……」
「もともと帰りたかったんだもの。方法が見つかったなら、できるだけ早く帰りたいと思って当然でしょう?」
「ですが」
「それに、私が帰ろうが、アランには関係ないでしょう?」
何故かいつもよりも食い下がろうとするアランに、麻由良は語気を少し荒げた。
憎んでいる人がようやく居なくなるというのに、この人は何を言っているのだろうか。焦っているようにすら見える。
なんで構うの? なんで、いつもみたいに「そうですか」と言ってくれないの? なんで「よかったですね」と送り出してくれないの? そうしてくれれば、後ろ髪を引かれることもなく、迷わず帰還できるのに。それができないなら、せめて、私を放っておいて。
そういった感情を全部、吐き出したかった。でも、できなかった。
アランの手が、拳を作って戦慄いているのが見えたから。
「──関係、ない?」
呟いたアランの纏う空気が変わった。麻由良を睨むように鋭く見据えているのがわかる。
「騎士が剣を捧げたのです。関係ないとは言わせません」
何故かアランは怒っているようだった。でも、何に? 心当たりがない。むしろ怒りたいのは麻由良の方だ。
「じゃあ何で私の名を呼ばないの? 聖女様、聖女様って、私にはちゃんと麻由良って名前があるわッ! 呼ばないのは、私の名を口にすらしたくないからでしょう?」
「っ、それは……」
「いいの。もういいの」
先程の勢いが掻き消え、アランが怯む。麻由良は首を横に振り、言い訳を聞く気はないと暗に示した。
麻由良が帰還したら、もう二度と逢えないのだ。仲違いしたまま別れたくはなかった。
大きく深呼吸し、麻由良は普段の声色に戻すよう努めながら続けた。
「アランにはいっぱい迷惑かけたよね。私はもうすぐ居なくなるから、安心して。今まで本当にありがとう。あと少しだけ、我慢してね」
俯いていたアランが反射的に顔を上げた。
「どういう意味です? 私が嫌々貴女様と居ると仰りたいのですか?」
「だって、あなたは私を憎んでいるんでしょう?」
麻由良がそう口にしたとき、ちょうど雲が隠したのか日の光が陰り、アランの表情が見えるようになる。
アランは目を見開き言葉を失ったまま、凍り付いているかのように麻由良を見つめていた。
ああ、言ってしまった。これでもう、アランとの関係は修復できないわね。憎んでいると知られていては、アランも私に接しにくいはずだもの。でも、これだけは、言っておかなきゃ……。
麻由良はアランの目を見つめた。未だ驚愕の感情に染められた深い碧色の瞳が、自分を捉えている。麻由良は頭を下げた。
「この二年、憎んでいる人を守り続けるのは、世話するのは、きっと苦痛だったよね。本当に、ごめんね」
「誰が……誰が、そのようなことを?」
そう問うたアランの声は掠れていた。麻由良は自嘲気味に微笑むと質問に答えた。
「あなたよ、アラン。あなたは覚えていないかもしれないけど、この前私を助けてくれた後、臥せっているときに、治癒しに部屋へ行った私を見て言ったの。『貴女が憎い』って。朦朧としてたけど、はっきり、そう言ったわ。無意識だったからこそ、本音が出たんでしょう?」
麻由良は一気にそう言い切ると、アランから毛布の上に置いた自分の手へと視線を落とした。もう、アランの表情を見る勇気はなかった。
麻由良がアランの憎しみを知っていることは伝えた。つまり、アランにはもう取り繕う必要がなくなったのだ。自分を見る視線にその憎しみを隠さなくなるのではと思うと怖かった。
アランが唇を引き結ぶ。一度ゆっくりと瞬きした後に麻由良を睨むと、低い、低い、怒気を孕んだ声で告げる。
「──貴女は、何もわかっていない」
わかっていない? いまさら、何をわかっていないと言うのだろう? 憎まれるようになった原因?
毛布の上で手を組み物思う麻由良の耳に、想い人の声が聞こえてきた。
「マユラ」
耳を疑う。アランが、麻由良の名を、呼んでいた。
「マユラ、貴女の言う通りです。貴女を憎まずにいられない……。俺をこんな気持ちにさせておいて、自分には関係ないと帰るつもりなのですか?」
──『俺』……?
初めて聞くアランの一人称に、麻由良は自分がアランという人間ののほんの一部しか知らなかったのだと知った。
麻由良はぼんやりとアランを見る。アランは苦しそうに表情を険しくしつつ、麻由良をその強い視線で縛り付けた。動けない。息苦しささえ感じる。
「貴女の名を呼べなかったのは、口に出してしまうと俺自身の気持ちに歯止めが効かなくなるとわかっていたからです。
貴女を想うあまり、あまりにも無防備な貴女の言動に、崩れそうになる理性を、欲望を、どんな思いで抑制してきたか、貴女にわかりますか? 貴女が『せっかく女神の加護を受けているのだから』と、何度も何度も気力を使い果たして倒れるのを、どんな思いで見てきたか、貴女にわかりますか? 目を閉じる貴女を見て、このまま二度と目を覚まさないのではないかと、恐怖に震える俺の気持ちを」
先程アランが言ったことを理解する間も与えられず、アランの口から、次々と信じられないような言葉が降って来る。
麻由良は言葉を失ったまま、呼吸することも忘れて、ただアランの言葉を聞いていた。
「貴女のいない世界など、俺には生きる価値がない。
ですから、マユラ。どうか、帰るなんて言わないでください。俺に、これからもずっと、貴女の傍に居させてください。守らせてください。後生、ですから……」
最後の言葉を絞り出すように言い、アランは切なさを滲ませて麻由良に懇願した。
「アラン……?」
この人は何を言っているの? これではまるで、私を好きだと言っているように聞こえてしまう。そんなはずないのに。アランのことを想い過ぎて、私は夢を見ているの? なんて、都合の良い──
「これ程お伝えしてもわかりませんか?」
アランの声が、麻由良の思考を遮った。未だ驚きを隠せないままの麻由良を前にアランは跪いて視線を合わせると、麻由良の手を取りその指先にそっと口付けた。
「マユラ、愛しています。ずっと、ずっと、お慕いしておりました」
「アラン……」
ああ、これは、この温もりは、夢じゃ、ない──
今まで我慢してきたアランへの想いが一気に溢れ、涙となって麻由良の目から溢れ出した。袖で拭っても拭っても、止まらない。せめてアランの自分を見つめる真摯な瞳に答えたくて、麻由良はしゃくりあげながらも口にした。
「私、も。私も、アランが、好き。ず…っと、好きだったの」
他ならぬアラン自身の口から『憎んでる』と聞いて、もう傍には居られないと思っていた。でも、違っていた。勘違いだった。
ただ単に、歯車が合っていなかったのだ。二人はもう随分前から、同じ想いを抱いていたというのに。
私は、この人の傍に居てもいいのだろうか?
「マユラ。貴女も俺と同じ気持ちだと思っていいのですか?」
アランの深い碧色の瞳が、真っ直ぐに麻由良を射抜く。麻由良が頬を染めて頷くと、途端にアランの顔に甘い微笑みが満ちた。その妖艶なまでの色気に、麻由良はくらくらと眩暈を覚えた。
「ああ。嬉し過ぎて、おかしくなりそうだ」
アランはそう言うなり立ち上がると、握ったままの麻由良の手を引き──麻由良を横向きに抱き上げた。アランの両腕にすっぽりと収まる。
すぐ近くにアランの顔があった。突然のことに麻由良は動揺し、アランの胸に手を当ててぐいと押す。しかし麻由良の抵抗などアランには全然効いていないようだった。
「ね、ねぇ、ちょっと待って……」
「無理です。二年も我慢してきたんです。もう待てません」
焦る麻由良にアランの顔が近付く。少し首を傾けたアランの唇が麻由良のそれに触れ、そっと這った。何度も何度も。
明日0時にもう一話(最終話)更新します。




