第九話 王子の告白
ヴァレリーが麻由良の部屋を訪れると、ちょうど扉からクラリスが出てきたところだった。
「クラリス……」
ヴァレリーが名を呼ぶと、クラリスは驚いた表情で振り返った。
「っ、ヴァレリー様。マユラ様に逢いに?」
「ああ」
ヴァレリーが首肯すると、クラリスは少し顔を曇らせて目を伏せた。
「申し訳ありません。マユラ様は今眠っておられます。お伝えすることがあるならわたくしが伝言をお預かりいたしますわ」
「いや……、私から話そう。出直すよ」
麻由良の二年越しの願い──元の世界への帰還──が叶うという報告だ。やはり伝言ではなく、後見人である自分が直接伝えるべきだろう。あれから二年経っている。麻由良の意思も再度確認したかった。
「何か重要なお話なんですのね」
ヴァレリーの様子に何かを感じたのだろう。クラリスが気遣うような目で自分を見ている。
クラリスは、先に知っておくべきかもしれない。この二年間ずっと、本来は侯爵令嬢の勤めではないことをさせてきたのだから。麻由良を世話する女性が必要だったのは真実なのだが、その人材としてクラリスに命じたのは自分の我儘からだ。思惑通り、麻由良が来てからクラリスとはほぼ毎日顔を合わせることができるようになっていた。アランに指摘された通りなのだ。
「ああ。魔導士長からマユラが元の世界に帰るための術式が完成したと報告があってな。それを伝えに来た」
「真でございますか?」
珍しくクラリスに詰め寄られ、ヴァレリーは瞠目した。鳶色の瞳が大きく見開かれて、自分を映している。
「そんな酷い冗談を言うわけがないだろう」
そう言いながら、ヴァレリーは嘆息した。帰りたいと願っている麻由良に、冗談では済まない嘘をつくと思われているのだろうか。
「では、本当に」
「ああ。帰る、帰らないを選ぶのはマユラ自身だがな」
「ヴァレリー様は……」
そう告げるクラリスの双眸が潤んでいることに気付き、ヴァレリーはぎょっとした。麻由良との別れを惜しんでかと思いきや、クラリスは予想外のことを口にした。
「ヴァレリー様は、それでよろしいのですか?」
強い声色にヴァレリーは怯んだ。クラリスがこのように語気を荒げるのを、ヴァレリーは初めて見た。
「クラリス?」
「マユラ様が異界へと帰ってしまわれたら、もう二度と逢えなくなるのですよ? それでもよろしいのですか?」
ヴァレリーはクラリスを宥めるように、優しい口調でゆっくりと告げた。
「私とて、マユラにはできればずっとここに居て欲しいと思っている。だが、マユラが帰りたいと願っているなら、それを止めることはできない。マユラは我々の世界へ来てしまったことで様々なものを失っている。家族も、友人も、もしかしたら恋人も。それを取り戻せるかもしれないのだ。伝えるべきであろう」
クラリスの瞳から、ついに涙が一筋流れ落ちた。白く細い指でその涙を拭うも、またすぐに別の雫が筋を作る。
「でもそれでは、あまりにも…ヴァレリー様が……」
静かに涙を流しながら何かを伝えようとするクラリスに、ヴァレリーはどうしていいかわからずにおろおろする。
「クラリス? なぜそなたが泣く?」
「ヴァレリー様が、想う方に二度とお逢いできなくなるかもしれないと思うと、私まで辛くて……」
──想う、方? 逢えなくなる?
聞き捨てならない単語が聞こえたヴァレリーは、思わずクラリスの両肩をぐいと掴むとフィアンセの顔を覗き込んだ。
「ちょっと待て。クラリス、私が誰を想っているというのだ?」
ヴァレリーに目を合わせると、クラリスは流れ落ちる涙をそのままに微笑んだ。そしてまたゆっくりと目を伏せる。
「私に気を使って隠そうとしなくともよろしいのです。ヴァレリー様がマユラ様を慕ってらっしゃるのはわかっておりますから……」
ちょっと待て。
クラリスは何を言っているのだ? 私がマユラを慕っていると言ったのか?
確かにマユラは可愛いらしい。私に恩を感じてくれているのか、聖女として振る舞う姿も好ましい。だが、マユラのことを女性として見たことなど、一度としてない。
私が、心から愛しいと思える相手はただ一人。
今、目の前にいる、亜麻色の髪の乙女だというのに──
怒りにも似た衝動が、ヴァレリーの身体を貫いた。
初めて逢ったときは、許嫁とは言ってもあまりにも幼過ぎ、妹のようにしか思えなかった。
その後、週に一度、一時間だけ共に過ごすよう予定を組まれた。毎週少しずつ知っていく少女を、人形を愛でるのと同じように愛らしいと思いこそすれ、やはり八年と言う年齢差が埋められるとは到底思えなかった。
その後、ヴァレリーが二十歳の時、とある友好国へと留学することになった。「行ってらっしゃいませ」と涙を湛えた目で見送ってくれた十二歳の少女は、三年の歳月を経て帰国したとき、やはり「お帰りなさいませ」と涙ぐみながらも柔らかく微笑みかけてくれた。
ヴァレリーは、目の前にいる少女が、一瞬、誰なのかわからなかった。
その艶やかな微笑みに、美しく洗練された仕草に、ヴァレリーの背をぞくりとしたものが走ったのを、今でもはっきりと覚えている。
三年という時間は、ヴァレリーを王太子として成長させてくれたが、同時に、クラリスを女性として成長させてもくれていた。
クラリスはもう愛らしい人形ではなかった。未だ年齢から来る幼さは残るが、それが抜けてしまえば、誰もが自然と惹かれてしまう程に、男ならば誰でも目で追いたくなってしまう程に、美しく魅力的な女性へと変貌を遂げるだろう。幼虫が蛹となりやがて綺麗な蝶へと羽化するように。
今のクラリスは蛹であった。麗しい蝶へと変化する直前の。
その後以前と同様に、週に一度、一時間、共に過ごす時間が再開される。ヴァレリーは、クラリスを知れば知るほど、惹かれていく自分を自覚していた。自分の心が、クラリスで満たされていくのを心地よいとさえ感じていた。
蛹は少しずつ蝶へと羽化していく。他の貴族男性がクラリスに見惚れているのに気付き、嫉妬すらした。
もう誤魔化すことはできなかった。私は、クラリスが好きなのだ、と。
しかし、結婚への踏ん切りはなかなかつかなかった。帰国した後、本格的に王太子として執務をこなさねばならなくなっており、自分の未熟さを痛感させられる毎日だったからだ。そんな自分に自信のない状態ではクラリスと結婚できないと思った。クラリスが、自分のために日々努力してくれているのを知っていたから。
だが、結婚はせずとも安心していた。クラリスも自分に好意を寄せてくれていると感じていたから。
「私は、そなた以外を娶るつもりはない」
いつになく強い口調でヴァレリーは断言した。
クラリスが顔を上げ、信じられないものを見るかのようにヴァレリーを見つめる。
「ヴァレリー、様……?」
「わからないのか? そなたを愛していると言っているのだ」
勢いでそう言ってしまってから、ヴァレリーは我に返った。今更ながら身体が熱く火照る。
クラリスの鳶色の目が、零れ落ちるのではないかと思うほどに大きく見開かれた。
「…と……すか?」
じっと自分を見つめたまま、クラリスが何事かを呟いた。しかし声が擦れていてよく聞こえない。
「すまない、もう一度言ってくれ」
ヴァレリーが懇願すると、クラリスは目を潤ませてヴァレリーを見上げ、言った。
「それは、真でございますか?」
クラリスの目が、以前のようにヴァレリーのことを好きだと告げている。ヴァレリーは顔を綻ばせた。
「ああ。女神に誓って」
クラリスの瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。ヴァレリーはクラリスの頬を伝うその粒を指でそっと掬う。しかし涙は後から後から流れ落ちた。
「泣くな。そなたに泣かれると、私はどうしていいのかわからなくなるのだ……」
「申し訳ありません」
「謝るな」
「っ、申し訳……」
また謝りかけて、クラリスは手で口を押えた。その間にも、涙は絶えることなくクラリスの頬を流れ落ちていく。
ヴァレリーは心臓をぎゅっと鷲掴みされたような気持ちになった。気が付いたときには、クラリスを抱き寄せ、その両腕の中に閉じ込めていた。
胸の中から、クラリスの焦った声が聞こえてくる。
「ヴァ、ヴァレリー様!? いけません、お召し物が……」
「構わん」
服など、いくらでも替えがある。だが、自分の愛するクラリスはこの世でたった一人しかいない。
「相変わらず、泣き虫なのだな」ヴァレリーは、クラリスの頭を何度も撫でながらふっと微笑んだ。「婚約は解消しない。いや、させない。そなたには、私の隣にいて欲しいのだ、クラリス」
クラリスを抱きしめたまま、ヴァレリーが言う。何度かしゃくりあげた後、クラリスの「はい」という小さな声が腕の中から聞こえてきた。
* * *
麻由良が目を覚ますと、クラリスがすぐ傍らに座って本を読んでいた。
「おはよう、クラリス」
「マユラ様、おはようございます。気分はいかがですか?」
麻由良が声を掛けると、クラリスはすぐに麻由良の方を見て微笑んだ。
「ありがと、随分よくなったみたい」そう答えた麻由良は、クラリスの顔がいつもと違うことに気が付いた。「クラリス? どうしたの? 目が赤いけど」
「あ、これは、なんでもありませんわ……」
麻由良が、語尾のどんどん弱くなるクラリスを不思議に思って見ていると、クラリスの頬がみるみる内に赤く染まっていった。
麻由良の視線に耐え切れなくなったのか、クラリスが、がばっと音のしそうな勢いで立ち上がる。
「そっ、そういえば、ヴァレリー様にマユラ様が起きたら教えてくれるよう言われておりますの。お伝えしてきますわね」
言うが早いか、麻由良の返事も聞かず、クラリスは小走りに立ち去ってしまった。
ヴァレリー様、と口に出したクラリスは、少し恥ずかしそうで、でも幸せそうだった。もしかしたら、ようやく、お互いの想いが伝わったのかもしれない。麻由良は一人微笑んだ。
熱は下がったようだが、数日間寝たきりだったせいで、随分と筋力が落ちているようだった。ヴァレリーが来る前に着替えようとしたが立ち上がれず、麻由良は手の届くところにあったショールを纏って待っていた。
すぐにヴァレリーはやってきた。扉を開け、開口一番に麻由良に問う。
「マユラ、身体は大丈夫か?」
「ええ。いろいろと心配かけてごめんなさい」
麻由良が頭を下げると、ヴァレリーはふっと笑った。
「いや、謝ることはないさ。それよりもいい知らせだ。そなたが元の世界に戻る術式が完成したと、昨日、魔導士長より報告を受けた」
「え……?」
元の世界に、もど、る……?
麻由良は言われたことが理解できず、呆然とする。ヴァレリーの言葉は続いた。
「ただ、その術式を行うには、月齢が重要らしくてな。魔導士の力だけで術式を発動するには魔力が足りないそうなのだ。それで月の魔力を借りるらしい。つまり、満月の夜しか発動できないのだ。
次の満月は明後日だ。もちろん、戻る、戻らない、はそなたが決めればよい。明後日までに決められないようなら、次の満月までゆっくりと考えればよい」
ヴァレリーの話を聞きながらも、麻由良の心を過るのはアランのことだった。
帰れば、もう二度とアランに逢えなくなる。でも、アランに憎まれているくらいなら、このまま側にいるよりも帰った方がいいかもしれない。その方がきっと、お互いに平穏に過ごせる。
「まぁ、突然の話だから驚くのも無理はない。ゆっくり考えてくれ」
そう言って去ろうとしたヴァレリーの背に向かって、麻由良は言った。
「帰ります」
ヴァレリーが振り返る。クラリスも、口に手を当て、麻由良のことを見つめていた。
「私を、元の世界に帰らせてください」
本日19時にもう一話更新します。




