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69話

霊峰インテグロモンテ──その山腹にそびえる大司教館。

イングリア大司教は、豪奢な執務机の前に深く腰掛けていた。

その手には、開封されたばかりの親書が握られていた。

一通り目を通した瞬間、彼は親書をくしゃくしゃに丸め、床へ叩きつけた。

 

「……背天者風情の成り上がり者が、図に乗りおってからに!」

 

唾を飛ばしながら吐き捨てる。

 

「……大司教様、いったい何と書かれていたのですか?」

 

傍らに控えていた秘書が、恐る恐る尋ねた。

イングリアは不快そうに鼻を鳴らした。

 

「霊峰に駐留している我が武装兵の即時退去と、行軍の通行許可だとよ。それが容れられぬ場合……この霊峰を焼き払う、と抜かしおる」

 

「……焼き払う、ですか」

 

秘書は拍子抜けしたように少し表情を緩めた。

 

「脅しにしては、あまりにも幼稚ですか」

 

「その通りだ」

 

イングリアは椅子の背もたれに横柄に身体を預けた。

 

「ここは帝国内外のあまたの信徒が崇める女神教の絶対聖域ぞ。焼き払うなど、世界中の信徒すべてを敵に回すに等しい。どれほどの切れ者と噂されようが、所詮は脅しのやり方も知らぬ青二才に過ぎんわ」

 

イングリアはくっくと喉を鳴らして笑った。

 

「それより──」

 

急に声のトーンが変わる。

 

「派遣されてきた武装兵の指揮官どもの懐柔は、どこまで進んでいる?」

 

秘書が下劣なにやけ顔を浮かべた。

 

「ええ、ぬかりございません。彼らには優先的に『秘薬』と女を惜しみなくあてがっておりますので、今や誰もが大司教様を深く信奉しております。聖都へ送る報告書の内容も、すべてこちらの意向通りのものに書き換えさせております」

 

「よろしい」

 

イングリアは満足げに頷き、窓の外へと視線を向けた。

壮大な山々の景色が広がっていた。初雪を被った白銀の峰々が、黄昏時の茜色の中に幻想的に浮かび上がっている。

元よりあの武装兵どもは、教皇ゲオルクスの命によってこの地へ送られてきた手勢であった。

表向きは「聖域保護」を掲げたグランツ陣営への軍事的牽制であったが、イングリアはその真の目的に感づいていた。

自分に対する「監視」である。

 

かつてイングリアは、ゲオルクスにとって最大の政敵であった。

三十代という異例の若さでインテグロモンテの大司教に就任したイングリアは、この聖地で密かに行われていた表裏の稼業を強引に拡大させた。高利貸し、恐喝、人身売買──それらを徹底的に組織化し、莫大な闇資金を聖都へと還流させ続けたのだ。当時の下馬評では、彼こそが次期教皇に最も近い人物と目されていた。

しかし──ゲオルクスとの泥沼の権力闘争に敗れた。

南部の有力商家や大銀行を味方へ引き入れたゲオルクスが、圧倒的な資金力で枢機卿会議を力づくで動かしたのだ。敗れたイングリアは枢機卿の地位を剥奪され、この霊峰へと事実上の軟禁状態に置かれた。以来三十年、彼はこの山を一度として降りることができずにいた。

今回の武装兵派遣も、その延長線上に過ぎない。自分が勝手な暴走を起こさぬための牽制であり、いざという時の封じ込め策であったのだ。

 

ならば──それを逆手に取るまでのことであった。

戒律で厳しく禁じられた甘美な女と、「秘薬」という名の強力な麻薬をふんだんに与えることで、派遣された指揮官たちを瞬く間に快楽の毒へと溺れさせた。懐柔した者たちを飼い慣らし、聖都へは「異常なし」との偽りの報告を送らせ続けた。

聖都に鎮座するゲオルクスは、霊峰が今も自らの支配下で平静を保っていると信じ込んでいるはずだ。

だが、実態は大きく異なっていた。

派遣された一万の兵に加え、周辺地域から密かに掻き集めた無頼漢や、普通なら忌避するような極悪非道な者も含む傭兵が二万。実に三万に及ぶ軍勢が、今やこの山中に隠匿されていた。武器の蓄積も万全である。フリンテも、火薬も、莫大な量が倉庫に備蓄されていた。

イングリアの脳裏には、極めて雄大な野望の絵図が描かれていた。

来春、ゲオルクス率いる教皇軍が帝国本領で大規模な大攻勢を開始する。グランツの主力軍は必然的にそちらへ釘付けとなり、ローズヴェルとヴェーデルの手薄なまま晒される。

その千載一遇の隙を突き、自らが動くのだ。

隠し持った三万の大軍を率いてヴェーデルへ侵攻し、手薄な防衛線を一気に破砕して支配下に収める。続いてローズヴェルの領土を切り取り、自らの確固たる基盤とする。

霊峰が持つ絶対的な権威と、三十年かけて蓄え込んだ莫大な裏資金。これらを惜しみなく投入すれば、周辺の弱小勢力を配下に収めることなど造作もない。

支配領域を完全に固めた後、ゲオルクスに対して堂々と反旗を翻すのだ。今度は自分こそが圧倒的に優位な立場から、三十年前の雌雄を決してやる──。

実に輝かしい未来であった。

三十年間にわたって溜め込んできた鬱屈を根こそぎ晴らす、完璧なる逆転のシナリオであった。

だからこそ──リデルが送りつけてきた親書など、失笑するほかない戯言に過ぎなかったのだ。

ヴェーデルの若造宰相が青臭い脅し文句を並べたところで、何ほどの意味があろうか。

イングリアは、この神聖なる霊峰に敵が攻め込んでくるなど、微塵も思っていなかった。

ゆえに、この愚かな脅迫状を聖都へ報告するつもりも毛頭なかった。これを理由に聖都から「増援」という名目の新たな監視が送り込まれては、己の計画の邪魔になるだけだからだ。

だが──リデルの意思は、イングリアの甘い予測とは真反対の方向で固まっていた。

大司教イングリアは間もなく、自らの度し難い過信と油断に対する凄惨な報いを受ける運命にあった。


───

 

十二月に入った。

ヴェーデル公国の宰相府では、人知れず着々と作戦準備が進められていた。

アリシアが命懸けでもたらした詳細な軍事地図を基に、極秘作戦の精密な構築が進められていた。侵攻ルートの厳選、部隊の配置、補給線の維持──。極寒の冬山という過酷な悪条件の下、いかなる順番で手順を踏むべきか。リデルは、積み上がった地図と書類の山を前に連日不眠不休で詰めていた。

そんな折、帝都から一つの報せが届いた。

三千の援軍が、ヴェーデルの地に到着したという。

率いていたのは──リヒトであった。

旧親衛隊の残党を集めて再編された精鋭部隊を従え、彼はヴェーデルへと姿を現したのだ。

表向きの名目は「ヴェーデル軍との冬期演習」とされていた。

リデルは執務室にて、リヒトと対峙した。

リヒトは形式的な挨拶もそこそこに、まっすぐリデルを見つめて切り出した。

 

「先陣は、ぜひとも我々にお任せいただきたい」

 

リデルは一拍、間を置いた。

 

「……グランツ様から、あらかじめ話を聞いていたのか?」

 

「いいえ」

 

リヒトは静かに首を横に振った。

 

「我が軍が現在の決定的な苦境を脱するには、あの霊峰を迅速に打ち砕き、あそこを前進基地として確保するほかありません。……私なりに戦況を分析し、推測したまでに過ぎませんよ」

 

「……」

 

「ですが、今のリデル殿の反応を見る限り──どうやら私の推測は正解だったようですね」

 

リデルはリヒトをじっと見つめた。

この男の情報収集能力、そして戦況を見抜く直観の速度は、やはり常軌を逸してる。以前にも感じた恐怖に近い才能を、改めて実感せざるを得なかった。

 

「この作戦に従事すれば……この世のあらゆる信徒から『女神に唾をかけた恐るべき悪逆者』として、永久に猛烈な誹りを受けることになるぞ。それでも、先陣をやるのか」

 

帝国全土に膨大な信徒を抱える聖地を直接攻撃する──それがどのような宗教的・政治的意味を持つか、分からぬリヒトではあるまい。聖母派の宣伝工作によって、この作戦に関わった者は「神敵」として何百年も語り継がれる恐れがあった。

リヒトは自嘲気味に薄く笑った。

 

「新参者の私が成り上がるには、それ相応の泥を被る汚れ仕事を引き受けねばなりますまい」

 

「それだけか?」

 

「それだけではありませんよ」

 

リヒトの笑みが消え、その瞳が真摯な色へと変わった。

 

「……四年前、あの帝都で何が起きたか、我々は痛烈に知っています。第二皇子は真っ先に逃げ出し、民は見捨てられ、多くの仲間たちがマルシアの軍勢によって目の前で死んでいきました。あの塗炭の地獄の中で……神とやらが我々を助けてくれたことなど、ただの一度だってありませんでした」

 

静かな声であった。感情を殺した静謐なトーンであったが、その言葉の底には、黒くドロドロとした何かが沈殿していた。

 

「この世に救いの神など存在しないことを、我々はあの時、身をもって知ったのです。ならば……今さら『聖地』とやらを攻め落とすことに、何の恐れがありましょうか」

 

リデルはしばらくの間、リヒトの瞳を見つめ返していた。

それは紛れもない「狂気」であった。しかし、凄惨な現実から導き出された、あまりにも理知的な狂気であった。

四年前に味わった絶望の地獄が、この男から「神罰の恐れ」という概念を完全に削ぎ落としていたのだ。そして今、それは確実な戦力として使える極上の狂気へと昇華されていた。

 

「……大変よろしい」

 

リデルは静かに頷いた。

 

「では、作戦を説明する」

 

「はっ」

 

「作戦決行日は──十二月三十一日とする」

 

リヒトの眉が、わずかにピクリと動いた。

 

「……年越しの夜、ですか」

 

「そうだ」

 

「理由は?」

 

「年越しの祝祭の夜──聖地では徹夜で大がかりな宗教式典が執り行われる。警備の兵士たちも、その夜ばかりは確実に気が緩む。アリシアの調査によれば、例年その夜は守備と監視に大きな穴があく傾向にある」

 

「なるほど……格好の隙というわけですね」

 

「それと、もう一つ──」

 

リデルの表情は相変わらず氷のように静かであったが、その深い漆黒の目の奥には、冷たく燃える暗い火が灯っていた。

 

「あの霊峰に最初の聖堂が建立されてから、ちょうどその日で『三百年目』の大きな節目を迎えるという。……物事を終わらせるのであれば、何事も切り良く済ませるのが好ましかろう」

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比叡山をおお喜びで焼く明智光秀みたいな図だ
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