前を向いて
新しい恋。
そんな言葉が自分の口から出たことに驚いた。
あたしはやっぱり恋がしたかったんだ。
今なら、すんなりと素直にそう思えた。
「……新しい恋か。そっか……」
憲彦は呟いた。
「ちなみにさ―」
憲彦が言いかけたところで、あたしのスマホが鳴った。
画面を見ると由美からだった。
「もしもし?」
幸い電波は悪くなく、すんなり電話は通じた。
『あっ!依織?良かった!無事に家に帰れた?』
静かなエレベーター内では会話が筒抜けだ。
憲彦は聞いていいのか迷っていたが、自然と耳に入ってくるのだから仕方ない。
「いや、無事というか……。マンションには着いたんだけど、停電しちゃってエレベーターに閉じ込められてる」
『ええっ!?大丈夫なの?』
「救助を待ってる所」
『やっぱり停電してるんだ……。良かったよ、依織に連絡して。匠海が心配しててさ。停電が大規模だから、依織が怖がってるんじゃないかってずっと言ってて』
『いや、エレベーターに閉じ込められてるなら良くないだろ』
隣にいるらしい匠海さんの声もする。
『それはそうだけど……』
『山崎さん、平気ですか?救助すぐに来そうですか?』
「わかりません……。たぶんそこまで時間かからないと思うんですけど……」
『今一人なんですか?』
「いや……同じマンションの住人と一緒にいます」
『一人じゃないならよかった。不安でしょうけど、気を強く持ってくださいね。山崎さんに何かあれば大変ですから』
「ありがとうございます。無事にここを出られたら、また連絡しますね」
『そうしてください。気をつけて』
そこで通話が終了した。
急に静かになると、静寂が耳に痛い。
「……匠海さんって依織の彼氏?」
憲彦が遠慮がちに聞いてきた。
「えっ……なんで?」
「いや……新しい恋ができるって言ってたから………好きなやつがいるのかと思って……」
「匠海さんはそういうのじゃない」
「そっか……」
憲彦は少し困ったように首をかいた。
「あのさ……こんな話をして過去の浮気の事を謝っておいてアレなんだけど―――俺にもまだチャンスはあるのかな?」
「…………チャンス?」
「あの時から……いや、依織を泣かせたあとも、ずっと依織の事が好きだったんだ。ずっと忘れられなかった。付き合った人も依織以外いないし、俺の心はずっと止まったままなんだよ。依織しか俺の中にはいない」
あたしは唖然とした。
声が出なかった。
「呆れるのはわかるよ。でも……でも………もう会えないと思ってた依織とまた会えて、やっとこうして話をしてくれるようになった。なら、ちゃんと気持ちを伝えたいと思ったんだ――。図々しいのは百も承知だよ。今さらとか、どの面下げてとか思うだろうけど……」
憲彦は必死に言った。
決して冗談でも遊びでもなく、真剣にあたしに告白していた。
「依織が好きだ。昔も今も、依織だけが……。付き合ってほしい」
この時のあたしの心は『無』だった。
嬉しいとか怒りとか戸惑いもなかった。
あたしは視線を落とすと、
「ごめん……。なんとも思わない――」
正直にそう伝えた。
「嬉しいも困ったも、何を今さらとも思わない」
「―――それって、返事を待ってていいってこと?」
「………………分かんない」
憲彦はあたしと同じくらい困惑していた。
「なら、たまに見かけた時、少しは話をしてくれる?それくらいはいい?」
「…………たぶん」
「たぶん、か………」
だって、そうとしか言えない。
気まずくて手をこねていると、急に電気が煌々とついた。眩しくて目を細めると、ガタン!とエレベーターが動き出す。
ふらついてよろめくと、憲彦が受け止めてくれた。
「大丈夫ですか?」
エレベーターの扉が開き、メットを被った作業員らしき人が声をかけてきた。
「はい」
「怪我などしていませんか?」
「大丈夫です」
「しばらくはエレベーター使わず、階段を利用してください。また停電するかもしれませんから」
2人でエレベーターを出ると、階段で部屋の階まで帰った。
それぞれの部屋のドア前に立つと、
「じゃぁ、また。しっかり暖まれよ」
「……うん」
そう言って別れた。
あたしはお風呂のお湯を溜めると、また停電してもいいように充電式のライトを付けた。念のためろうそくとマッチもテーブルに置いてい対策すると、借りた上着を抜いで、冷え切った体を湯船に浸けた。
ぼーっと天井を見ていると、さっき話した内容がぐるぐると頭の中を巡る。
付き合う……?
もう一度、憲彦と―――
確かに高校の頃は楽しかった。凄くいい思い出で、毎日が楽しくてお弁当作りも苦手な宿題も苦じゃなくて、ウキウキしてた。
でも、今付き合っても同じように思えるだろうか?
当時の気持ちと比較して、やっぱり違うなと落差を感じないだろうか?
何より……
「また浮気されるんじゃないかな……」
このまま近づいたら、また傷つくかもしれない。
それが一番怖かった。
数日悩んで頭を抱え、ネットにも頼ってみたけれど答えを見つけられず、あたしはとうとう弟切さんに泣きついた。
「今日、飲みに行きませんか?」
あたしから誘うのは始めてだったから、弟切さんは凄く驚いていた。
でもすぐに「いいよ」と返事をしてくれ、仕事終わりの居酒屋でエレベーターでの出来事を全て話した。
「その男、どうなの?」
まずそう言われた。
「やっぱりそう思います?」
「いくら若かったはいえ、浮気してたんでしょ?トラウマ植え付けた男ともう一度付き合うとか……。おすすめしない」
「――ですよね……」
でもねぇ、とおつまみに手を伸ばしながら弟切さんは続ける。
「山崎さんは謝罪されて、当時の下山がちゃんと自分の事を好きだったて分かって、どう思ったの?」
……どう感じたか――。
「デートで見てた全部、演技じゃなかったんだって安心した……と思います」
「安心、か……」
おつまみの枝豆をツンツンしながら、弟切さんはさらにうなった。
「なら、過去の清算は出来たって思えた?」
清算……。
思えば、あたしは浮気をした理由よりも、あたし自身をちゃんと好きだったのかをずっと知りたかった。
「当時の憲彦はちゃんとあたしを好きでいてくれたのか。浮気した理由よりも、あたしはそこに重きを置いていたと思います。もし好きでもないのにデートして、あんなに楽しそうにしてたのなら……全部嘘だったのかって、凄くショックだったと思うんです……。その挙句浮気されていたのなら、きっと次の恋が出来るとは思えなかったです……」
「そう……。下山と話したあと、恋がしたいと思えたのね?」
「はい……。自分でも意外でしたけど、そう思いました」
「そうか……。なら、過去の清算は出来たと言えそうね。ちゃんと前を向いて歩こうとしてるもの。でも、問題は次の恋に立候補したのが下山ってこと」
「…………はい」
「高校で盛大に振られたあとも山崎さんを好きだったっていうのは、一途だ思うわよ?ちゃんと反省も後悔もしてる。でもねぇ……」
ビールを一口ぐいっと飲んだあと、
「同じことしないか、不安じゃない?」
ズバリそう言われた。
「不安です」
あたしもはっきりと答えた。
「まずは様子見かしらねぇ……」
「様子見……というと?」
「普通に会話する隣人の関係になるの。まずはそこからよ」
「話……ですか――」
「お試しに付き合うとかムリでしょ?過去に浮気した男と付き合うとか、普通なら誰でも止めるわよ」
「ですよね……」
「でも下山の誠実さがあることを信じるなら、様子見が一番ね。
会話するにも2人きりの場所はダメよ?ゴミ出しとか出かける前にまたまた会った時とか、そう言うタイミングを狙いなさい。もし2人で話したいって言われても、人目がある所で話すのよ?
直接会うのが厳しいならLINEって手段もあるけど、連絡先を知られたくないなら会うのが一番いいわね。ちょうどお隣さんなわけだし」
あたしは考えた。たまたま会うタイミングなら、少しの時間の会話で済む。そっちのほうが気が楽だった。
「まずはばったり出会った時、声をかけるようにします」
決断したあたしをみて「ならそうしなさい。無理はせずにね」と言ってくれた。
弟切さんと話していると、心の整理がつけやすい。
アドバイザーとしてこれ以上ない人だった。
「でもねぇ、もしあたしがその下山の母か姉なら、説教して殴ってるわね」
手をボクサーみたいにシュシュっと動かしたのがおかしくて、思わず笑った。
こうして話してみると、けっこう気さくで話しやすい人だ。
弟切さんは、
「まずは隣人として付き合っていく。そのうち、今みたいに下山の前で自然に笑えるようになれば前進かもね。そこを基準にしてみたら?」
姉のような目で微笑んだ。
確かに……
「そうですね……。ありがとうございます、弟切さん。相談して良かったです」
「どういたしまして。困ったらいつでも言いなさい。首を突っ込んだ者として、最後まで見届けるからさ」
それから大分気持ちが軽くなり、あたしは日常に戻った。
仕事も以前のような凡ミスはなくなり、上司から褒められることもあった。
何より変わったのは、恋愛映画やドラマが見れるようになった事だ。避けていたジャンルだったから、面白い物が沢山で週末にまとめて観るのがブームになった。
憲彦とは時々マンション内で遭遇した。
ただのお隣さんだと思えば、考えていたよりも緊張せず会話することが出来た。
最初は「おはよ」や「おつかれ」の挨拶から始まり、だんだんと「カン・ビンのゴミ出しっていつだっけ?」という日常的な内容になった。
短い会話が重なるとあたしから話かけることも増えたが、憲彦の方がお喋りで会話が多くて長い。
この日も、出勤するため部屋を出た所で憲彦が顔を出し、
「おはよ」
から始まった。
「依織は今日、休み?」
「仕事」
「俺はやっと休み。大分仕事が落ち着いたから。住宅ローンの減税が終わるから、駆け込みが多かったんだよ……」
なんかニュースでそんな事いってた気がする……
住宅購入など自分とは無縁の話だから、なんの関心もなかったけど。
そっか。建築家にとっては多忙になるのか。
「文字どおり謀殺だったな……。少しまとまった休暇とれたら、家の片付けとか溜まった洗濯とかするつもり」
「主夫だね」
「一人暮らしだからな」
「地元には帰ってるの?」
「正月と盆くらい。たまに友達とも連絡とるけど、いけせん距離があるからな。会うことはない」
「そう……」
「困ったことあれば言えよ。4日は休みだから家にいる」
「困ったこなんて特にないけど」
「なんでもいいよ。瓶の蓋開かないとか、電球交換してとか、Gが出たとか」
「……Gは呼ぶかも」
出たことないけど。
そんな何でもない会話をした次の日。連休開始前の金曜だった。
由美と匠海さんがうちへ遊びに来た。
お酒とおつまみをテーブルに並べ、三人で楽しく飲んだ。
「エレベーターに閉じ込められるとか、怖かったでしょ?」
「初めてだったから驚きました。急に止まるんですね、エレベーター」
「すぐに救助は来たの?」
「うーん。時間計ってないけど、30分くらいかな?」
「長いのか短いのか……。体感としては長そうだけどね。エレベーターって落ちたりしないんだ。映画となら、ドーンって落ちるシーンあるよね?」
「あれって相当古いエレベーターらしいよ。それに新しいエレベーターは停電しても、一番近くの階に移動する装置がついてるんだって。だから閉じこめが起きない作りになってるらしいよ」
「へぇ」
2人して驚いていた。
「依織、よくそんな事知ってるね」
「エレベーターに一緒に乗ってた人が教えくれた。建築家なんだって」
「そういう時、詳しい人がいると安心するよな」
「うん。慌てなくて済むよね」
雑談しつつ映画見て、昼から夜までずっとおしゃべりしてた。
大学時代でもこんなに誰かと一緒にいたことはない。あたしの心は大分解放されたらしい。
「楽しかったわぁ!依織、また宅飲みしようねっ!」
「由美、次も飲み過ぎるなよ?誰のために毎回宅飲みになってるか、分かってるのか?」
「分かってるよ!」
あたしがクスクス笑いながら二人を見ていると、
「最近、依織はいい顔するよね」
由美が嬉しそうに言う。
自覚がなかったあたしは「そう?」と首を傾げた。
「そうだよ。仕事中もそうだけど、表情が明るくなったというか、話しかけやすくなったというか……。どっちにしろ、いい雰囲気だよ」
「……ありがと」
2人が帰った部屋で1人、あたしはあったかい気持ちになった。
そっか。見た目にも変わったのが分かるんだ……。
良かった……。
前を向いて歩き出せた。
あたしはやっとそう思えた。
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