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恋のトラウマは始まりを告げる  作者: 栢瀬 柚花


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3/8

相談


 それから、事あるごとに憲彦と顔を合わせる日々が始まった。

 出勤、帰宅、買い物、ゴミ捨て、駐輪場、宅配受け取り……。


 お隣なので仕方ないが、こんなにも顔を合わせるかってくらいに鉢合わせした。


 前の住人とはこんなにも一緒にならなかった……。

 いや、あたしが意識しすぎているだけで、本当はこれくらい顔を合わせるものなのだろうか?


 憲彦が狙ってあたしの前に現れていない事は、すぐに分かった。あたしを見る度に驚いてビクついていたからだ。


 そんな偶然を繰り返し顔を合わせているうちに、たまに向こうが物言いたげにじっと見てくることがあった。

 あたしは気づかないふりをして顔を伏せていたが、

 とうとう今朝、

「依織……少し話せないか?」

 声をかけられた。

 あたしは何も言えなかった。当然だ。今さら何を話す事があるのか?

 

 無言のあたしに、憲彦は緊張した声で続けた。

「ずっと謝りたかったんだ、昔の事……。少しでいいから時間をくれないか?」

 僅かな時間で済ませられる話とは思えなかった。

「これから出勤だから無理」

 それだけ言い残して、あたしは走って逃げた。


 今さら何?謝りたかった?

 冗談はやめてよ。

 これ以上、あたしの心をかき乱さないでよ…………

 

 

 その日、あたしのテンションはだだ下がりだった。

 ただでさえ憲彦が引っ越してきて胃が痛ったのに、声をかけられたことでさらに精神不安定になった。

 仕事にも大きく影響し、

「山崎さん、最近どうしたの?」

 凡ミスを繰り返し、とうとう弟切さんから言われてしまった。

「今までは出来てたことが、出来なくなってるわよ?ぼーっとしてることも多いし」

「……申し訳ありません」

 シュンとして謝罪するあたしは、明らかに様子がおかしかったのだろう。

 いつも厳しい弟切さんが珍しく優しく声をかけてくれた。

「どうしたの?体調でも崩した?」

「いえ……そう言うわけでは……」

「仕事で嫌なことでもあった?」

「いえ……仕事は一切関係なくて……。プライベートなことなんです………。公私混同して申し訳ありません」

 素直にそう言った。弟切さんから怒られるか、注意されると思い覚悟を決めたが、言われたのは意外な言葉だった。 

「ご飯でも行く?プライベートな悩みでも聞くわよ」

 初めて食事に誘われた。

 今まで弟切さんはパワハラになるからと、業務以外での接触はしてこない人だったのに。

「新人の頃は色々あるからね。仕事では上司だけど、会社の外に出れば山崎さんより年上のおばさんだから。人生相談でものるわよ?プライベートな事を上司に相談したくないなら、無理にとは言わないけど」

 まさかここまで言ってくれるとは考えていなかった。

 

 憲彦の事は、今まで片手で数える程の人にしか話していない。だから誰にも相談してこなかった。

 でも、今の状況はあたし一人で抱え込むには大きすぎた。出来れば客観的な目でアドバイスが欲しかった。

 

「弟切さん、少し相談にのってくれますか?」


 

 仕事終わり、初めて2人で居酒屋に行った。

 憲彦の事を話すのは高校以来、初めてのことだ。

 弟切さんに話そうと思ったのは不思議だったが、何も知らないからこそ、打ち明けられたのかもしれない。 

「へぇ、トラウマを植え付けられた元彼がねぇ……。同じマンション、しかもよりにもよって隣の部屋に……」

 高校時代の話を黙って聞いてくれたあと、弟切さんはそう言った。 

「――はい。本当に偶然なんですけど……。それで動揺してしまったんです………」

「それは動揺するわね。夜は寝られてるの?食欲が落ちたりしてない?」

「はい。そこまでは……。ただ、不意に顔を合わせるので心臓に悪くて……」

 弟切さんはビール片手にうなった。

「山崎さんが本当に嫌なら引っ越したほうがいいけど、それは可能なの?」

「お金としては、できなくはないです」

「そう…。山崎さんとしはどうそたい?すぐにでも引っ越したい?」

「――よく分かりません。暴力を振るわれるわけじゃないから、身の危険があるわけじゃないですし。ただ顔を見ると気まずいってだけで……」

「気まずい、ねぇ。顔も見たくないってわけじゃないのね」

「……そうですね。あれから時間が経ったからでしょうか……」

 言われて気がついた。

 不思議なことに、二度と顔を見たくないとは思っていない。

「ふーん……。山崎さんはその元カレと恋人時代だった時のこと、凄くいい思い出って言ってたものね。つまり、別れ方は嫌だったけど彼自身を恨んではいないのよね」

 あたしはきょとんとした。よく意味が分からなかった。

「人を恨んだ時って、当人の顔を見るのも思い出すのも嫌って感じるのよ。写真も記憶も何かもを消したいって。そこまで思える?」

「いや……そうでもないです。付き合ってた時の笑顔とか会話とか思い出して辛くなるけど、笑ってる顔は好きだなと思います」

「なら、山崎さんの中では元カレくんはまだ完全に避けたい人じゃない」

「―――そうなんでしょうか……」

「だから、彼に声をかけられて動揺したんじゃない?」

 

 どうなんだろう……。


「元カレくん、山崎さんに話したいことがあるみたいだし。当時のことを謝罪して説明したいって言われたんでしょ?」

「…………はい」

「当時からその気持ちがあったのかもね。浮気が発覚して山崎さんが彼を避けてた時、しきりに『話を聞いてくれ』って声をかけられたんでしょ?無視し続けても何回も姿を現してた」

「……はい」

「ずっと、あなたに何か大事な事を話したかったんじゃない?」


 ずっと……。それって高校から今までってこと?

 

「浮気の理由……ってことですか?」

「そうかも知れないし、そうじゃないかもしれない。そこは元カレくんじゃないと分からないけど…。どう?話してもいいと思える?」

「…………凄く混乱してます――。正直、今さら何を、と思ってます……」

「そうだけど……。もし聞きたいと思うのなら、トラウマを克服するチャンスかもしれないわよ」

「チャンス…………」

「山崎さんの中で彼とのデートは決して嫌な記憶じゃない。むしろいい思い出。恋愛自体が嫌なものじゃないって、山崎さんは知ってる。なら次の恋もできるわよ。そのために元カレくんと話し合う事は、無意味じゃないと思うわね」

 あたしは考え込んだ。

 そんな簡単にいくものだろうか……。

「もちろん、元カレくんと2人きりで話すのは緊張するし、気が重いかもしれないけど。でも、少なくとも浮気したダメな元彼は山崎さんと話をするつもりはあるみたいだし。あとは山崎さん次第じゃないかな?」

 確かに今朝の憲彦はあたしを引き止めようとしていた。


 憲彦の話……。

 今さら何を言いたいのだろう?

 でも弟切さんの言う通り、会話によって気持ちがきり替わり次の恋ができるなら、ずいぶんと前向きになれる。

 そう思うとトラウマを溶かすのはいいかもしれない。

 

 黙って考え込んでしまったあたしに、弟切さんは、

「大丈夫よ!また何か嫌なこと言われたら、今度こそ引っ叩いてやんなさい。それでもダメならあたしを呼びな。かわいい後輩を泣かせてトラウマ植え付けた男にガツン!と言ってやるから」

 と笑った。

 それは本当に効果がありそうで、思わず吹き出して笑ってしまった。

「ありがとうございます、先輩。その時はよろしくお願いします」



 弟切さんに随分と慰められ、あたしは少し勇気が出た。

 話し合ってもいいのかもしれない。

 

 そう思いを固めると、憲彦と合わない日々が続いた。不思議なもので、そうなるとあたしから姿を探していた。

 ゴミ捨て、エレベーター、宅配受け取りの時、出勤時……。

 どのタイミングでも見かけない。

 もしかしたら、昔のあたしのようにわざと時間を変えて鉢合わせしない様にしているのかもしれない。


 

 


 弟切さんとの飲みから1週間が過ぎたが、憲彦とは会わなかった。

 そんな頃、由美から宅飲みに誘われた。

 彼氏とあたしの3人で飲もうと言うのだ。

「前回は送らせちゃったからさ。そのお詫びってことで、うちでご飯食べて飲もうよ!お金は全部こっち持ちでいいから!」

 そう言われては、行かないわけにはいかない。

 由美の彼氏は料理人らしく、そのご飯が目的だった。



 仕事が終わった金曜の夜。

 あたしは一旦自宅に帰って着替えると、由美のマンションにお邪魔した。彼氏さんが料理の準備があるから、少し時間が欲しいと言われたからだ。

 19時にお邪魔すると、部屋に入るなりいい匂いがした。

 ピザにサラダ、チーズ、フィッシュアンドチップス、パエリアと豪勢な食事が並べられている。

「凄い!これ全部作ったんですか?」

「えへへ〜。凄いでしょ?」

「なんで由美が自慢げなんだよ」

 チョップを食らった由美は幸せそうに笑った。

「匠海が褒められてると嬉しいんだもん」

「今日はお詫びなんだから、由美がおもてなしするんだぞ」

「分かってるよ……」

 見ていて微笑ましくなる仲の良さに、あたしは笑った。


 そこから三人で楽しく飲んだ。

 由美はやっぱり早々に酔って、多弁にお喋りして笑って泣いて、ひとしきり自分語りと彼氏自慢をすると寝てしまった。

 

「すいません……。結局由美の一人語りみたいになって」

 お開きは深夜1時になり、流石に一人で帰らせるわけにはいかないと、マンション近くまで送ってくれた匠海さんは別れ際にそう言った。

「いやいや、楽しかったですよ」

「それは良かったです。実は入社したての頃は凄く落ち込んでたんです、由美。同期の新人が少なくて、同性がほとんどいなかったから。けっこう人見知りなところがあるから、ちゃんと馴染めるか心配だっんだですけど……。山崎さんと仲良くなって由美が元気になって。仕事行くの苦痛じゃなくなったみたいだし。あんなヤツだけど、これからもよろしくお願いますね」

 

 なんて丁寧な彼氏さんなんだろう。

 

 あたしは由美はいい人を見つけたんだな、と思った。

「いえ、由美はおっちょこちょいだけど一緒にいて楽しいので。たくさん笑わせてもらってます。また遊びにきてもいいですか?」

「もちろん。由美も喜びます。では、おやすみなさい」

「はい。送ってくれてありがとうございました」

 笑顔で会釈して振り返った時、人影があった。

 

 憲彦だった。

 1週以上ぶりに顔を見た。

 丁度帰宅したタイミングのようで、マンションの入り口前で気まずそうに立ち止まっている。

 あたしも一瞬固まってしまったが、何も反応せずにマンションに入った。こんな深夜に声をかけるわけにはいかない。

 憲彦が同じエレベーターに乗ってくると気まずいので、階段を使って部屋に戻る。


 ……驚いた。まさかこのタイミングで会うなんて……。

 

「それにしても、随分と遅くまで仕事してるだな……」

 いや、飲みに行った帰りかもしれないけど。

 ま、いいや。

 あたしはお風呂に入ってさっさと寝ることにした。

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