第1話 ある旦那さんの憂鬱。
「別れてください」
ある日、妻が置き手紙と離婚届を残して居なくなった。手紙にはただその一言だけ。
訳がわからない。
なんで……。
俺は浮気はしていないし、どこかで聞いた世のひどい旦那さんよりは、ずっと優しかった。もちろん、DVなんてしたことはないし。裕福ではなかったし、それなりに節約も必要だったけれど、2人で楽しく過ごしていた……と思う。
それにこんな曖昧で一方的な終わり方は、俺の知っている『妻らしく』ない。
しかし、どんなに考えても、置き手紙の理由は分からなかった。
それからしばらくの間、なんとか妻と連絡を取ろうとしたが、電話番号や住所等、全てが変えられていて連絡は取れなかった。俺と妻には、共通の友達もいない。
一年程経ったある日、いい加減に現実を受け入れないといけないと思って、結婚指輪を川から投げ捨て、離婚届を提出した。
だけれど、まだ未練があったのだろう。
俺は、近所にある『六道の辻』と呼ばれる分かれ道の小さな石碑の前で、通る度に手を合わせた。石碑には、こんな説明があった。
「ここは人が進む六道の分かれ道。この世とあの世の中間の場所」
手を合わせはじめて1ヶ月ちょっと経った頃。
俺は不思議な夢を見た。
すごくお世話になったが、数年前に亡くなってしまったご住職が夢に出てきたのだ。
ご住職は笑顔でこう言った。
「旦那くん。どうする? 戻るかい? 戻ったら取り戻せるものもあるかも知れないけれど、同じだけ失うものもあるかも知れないよ」
夢の中で、俺はご住職に言った。
「それでも、また妻に会いたいんです」
その次の日の朝。
妻から連絡がきた。
メッセージにはこんなことが書いてあった。
「……またデートしたいよ」
謝るでもなく、言い訳するでもなく。
それはまるで、知り合ったばかりで、まだお互いが彼氏と彼女だった頃のような文面だった。
離婚届のことを聞かれるでもなく、捨ててしまった指輪のことを突っ込まれるでもなく、俺たちは幸せに、日々を過ごした。
そして、一年程たったある日、妻が病で亡くなった。
亡くなる直前まで、妻は病気の素振りすら見せなかった。……俺は何も知らないままだった。
後から分かったのだが、妻が突然いなくなった少し前に、病気のことが分かったらしい。
その病気は、発症すれば、ほとんどの場合、15ヶ月程で亡くなってしまう致死率が高いものだったが、治療法が存在しない訳でもなかった。でも、その治療薬は高額で、普通のサラリーマンに負担できるようなものではなかった。
俺はいま、妻の法要を終えて、六道の辻にいる。いつものように石碑に手を合わせて。
今日はお礼を言った。
「最後の1年間、妻と過ごさせてくれてありがとうございました」
あのまま妻から連絡が来なければ、俺は妻の病のことを知ることはなかっただろう。
妻は賢く美しい。
きっと俺以外と結婚するという選択肢もあったと思う。もし妻がもっと高収入な相手を選んでいたら……十分な治療を受けられたのかも知れない。
俺自身、後悔や思うところがない訳ではない。でも、あのままになってしまうよりは、ずっといい。
だから、どうしても、石碑にお礼を言いたかったのだ。
「……本当にありごとうございました」