お風呂の鍵が壊れた隣人を助けたらなんと有名人!お礼の意味で彼女から部屋に誘われ!?
片桐悠真(31)は、仕事を終えて部屋に帰ると、ソファに腰を下ろして一息ついた。静かな夜の空気を感じながらテレビをつけ、音量を控えめにする。すると、隣の部屋から何やら壁を叩くような音と、かすかな女性の声が聞こえた。
「ん? 何だ?」
悠真は不安を覚え、急いで玄関へ向かう。隣のドアをノックしながら声をかけた。
「すみません、大丈夫ですか?」
しばらくして、扉の向こうから困ったような声が返ってくる。
「助けてください! お風呂の扉が開かなくなって出られなくて……」
「お風呂の中に閉じ込められたんですか? 玄関を開けてくれたら……」
「すみません、鍵をかけたままで……本当に困ってて……」
玄関からはどうにもならないと判断した悠真は、別の手段を考えた。
「……ベランダから入るしかなさそうですね。ちょっと待っててください」
「えっ、そんな危ないこと……すみません、お願いします……」
悠真は自室に戻ってベランダへ向かう。隣のベランダとの間には落下の危険が伴う距離があったが、深呼吸をして思い切り飛び移った。
(落ちなくてよかった……けど、何してるんだ俺……)
何とか隣のベランダに着地し、窓から部屋に入る。浴室のほうから小さな物音が聞こえた。
「今、入りました! お風呂の扉を見てみます!」
悠真は浴室の前に近づき、工具を取り出す。扉のロック部分を慎重に観察し、ドライバーで少しずつ操作していく。どうやら内側で何かが引っかかっているようだった。
(うまくいってくれよ……もう少し、あと少しで……)
カチャリ――。小さな音とともにロックが外れる感触が伝わる。
「開きました! これで大丈夫です」
「ちょっと待って!」
中から慌てた声が飛んできて、悠真は驚いて手を止めた。
「あ、すみません! まだ何か?」
「少し待ってください! 準備が……!」
それを聞いた悠真はすぐに察し、顔を赤らめながら少し後ずさる。
(そりゃそうだよな……落ち着け俺、とにかく出る準備だけだ……)
しばらくして、浴室の扉がゆっくりと少しだけ開く。そこから顔だけを出した隣人の女性が、バスタオルを巻いた姿で小さく頭を下げた。
「本当にありがとうございます……助かりました」
「いえ、大丈夫です。無事で何よりです。それじゃ、僕はこれで失礼しますね」
「あっ、ちょっと……お礼、ちゃんとさせてください!」
部屋に戻った悠真は、先ほどの出来事を思い返してため息をつく。
「名前も知らなかった隣人が、こんなに近く感じるなんてな……」
静かな夜に戻ったはずの部屋。しかし、悠真の胸の内には妙な感情が広がり始めていた。
***
翌朝、悠真は昨夜の出来事を思い返しながら朝の準備をしていた。隣人の顔をはっきり見たのは初めてで、なぜか強く印象に残っている。
その日の仕事を終え、夜になって部屋でくつろいでいると、突然ドアをノックする音が響いた。
「ん? 誰だ?」
玄関に向かいドアを開けると、昨日助けたばかりの隣人――高嶺綾香が立っていた。彼女は小さな紙袋を抱え、少し恥ずかしそうに微笑んでいる。
「あの……昨夜は本当にありがとうございました。これ、お礼のつもりで作ったんですけど……」
紙袋の中からは香ばしい匂いが漂ってくる。丁寧にラッピングされた料理が入っているようだ。
「あ、いや、そんなことしなくても良かったのに……」
「いえ、迷惑かけちゃいましたし……少しでもお礼がしたくて」
彼女の真剣な様子に、悠真は断ることができず袋を受け取った。
「じゃあ、ありがたくいただきます。わざわざありがとう」
「いえ、それじゃ……失礼しますね」
綾香が部屋に戻ったあと、悠真は袋をテーブルに置いて中を確認した。手作りのキッシュやスープが丁寧に詰められている。
「……すごいな。普通の人がこんなの作れるのか?」
見た目だけでなく、味もプロ並み。その完成度に悠真は驚きを隠せなかった。
彼女の意外な一面が気になり始めた悠真は、お礼を伝えたいと思い立つ。そして、簡単な料理を作り始めたものの、手際はあまり良くない。オムレツは形が崩れ、パスタも少し焦げてしまう。
(……まぁ、これしか作れないけど、気持ちが伝わればいいか)
そう自分に言い聞かせ、悠真は出来上がった料理を持って隣の部屋へ向かう。普段ほとんど会話をしなかった隣人に、これほど深く関わることになるとは思わなかった。
玄関の前で深呼吸し、意を決してノックをすると、ドアが開いて綾香が顔を出す。
「あ、片桐さん? どうしました?」
驚きと同時に、どこか嬉しそうな彼女の表情を見て、悠真は少し安心した。
「昨日のお礼です。こんなのしか作れないけど、受け取ってくれると嬉しい」
差し出した皿の上には、形の崩れたオムレツと、端が焦げたパスタ。悠真は気恥ずかしさから目をそらし、言い訳のように続ける。
「見た目はひどいけど、味だけはなんとか……」
その言葉に、綾香は目を丸くしてから柔らかく微笑んだ。
「わざわざありがとうございます! えっと、良かったら一緒に食べませんか?」
「え? いや、僕の料理なんて……」
「いいんです。お話しながら食べたほうが美味しいですから」
そうして二人は綾香の部屋で向かい合い、料理を分け合うことになった。綺麗に整えられた部屋に少し落ち着かない思いを抱きながらも、綾香の優しい声に悠真の緊張は少しずつ解けていく。
「……こんなに綺麗な部屋だと緊張するな」
「そんなことないですよ。片桐さんも綺麗好きそうに見えますけど」
「いや、適当ですよ。こんな丁寧な料理だって作れないし」
「でも、オムレツの味、すごく美味しいです」
ぎこちなく始まった会話だったが、少しずつお互いのことを話していくうちに、穏やかな空気が流れ始めた。
***
週末、悠真が近所の商店街に出かけたとき、少し先に見覚えのある姿を見つける。
(……あれ、高嶺さん?)
高嶺綾香が両手に大きな買い物袋を抱え、不安定な足取りで歩いている。彼女の足元に小さな石があるのを見た瞬間、嫌な予感が走った。案の定、綾香の体がぐらりと傾く。
「あっ……!」
とっさに駆け寄った悠真は、彼女の腕を掴んで支える。袋が一つ落ち、中からリンゴが転がる音がした。
「大丈夫ですか?」
「すみません! ありがとうございます……またやっちゃいました」
彼女は顔を真っ赤にして、小さく頭を下げる。
「いや、危なかったですね。こんなにたくさん持って歩くのは無理がありますよ」
「確かにそうですね……でも、安売りだったのでつい買いすぎちゃって……」
その言葉に、悠真は思わず笑みを漏らす。
「しょうがないですね。手伝いますよ」
「えっ、でも……悪いですから……」
「このまま歩いてまた転ばれるよりマシです。行きましょう」
そう言って荷物の半分を受け取ると、綾香は少し恥ずかしそうに「ありがとうございます」とつぶやいた。荷物を運び終えたあと、二人は近くのカフェに入り、一息つくことに。
「本当に助かりました。普段からこういうこと多くて……恥ずかしいですね」
「まぁ、危なっかしいところはありますけど……それも高嶺さんらしいですよね」
コーヒーを口に運びながら、悠真が本音をこぼすと、綾香は驚いたように聞き返す。
「えっ、それってどういう……」
言った後で悠真は少し照れ、視線を外した。
「いや、いい意味ですよ。なんというか……人間らしいというか」
綾香は一瞬困惑したようだったが、やがてふっと笑った。
「そう言ってもらえると、ちょっと救われますね」
彼女の笑顔を見て、悠真は胸が温かくなるのを感じた。些細なやり取りやドジな一面にさえ、親しみを覚えている自分がいる。その感情を否定できずに戸惑いながらも、どこか嬉しく思っていた。
***
休日の朝。悠真がコーヒーを片手にスマホを眺めていると、「料理研究家・美月信也氏の娘、高嶺綾香の可能性」という記事が目に入る。そこには綾香の写真が載っていた。
「……え? 高嶺さん?」
記事を読み進めると、料理界で有名な美月信也が引退し、その娘である綾香が跡を継ぐべき存在として注目されているとある。ただし、綾香自身は表舞台に出ることを拒んでいるらしい。
「……全然そんな人に見えなかったけどな」
プロ並みの料理の腕や控えめな態度、時折見せる不安げな表情――いくつもの要素が綾香の背景につながる気がして、悠真は胸にわだかまりを覚えた。
***
それからしばらくして、悠真が近所のスーパーで買い物を終えて外に出ると、偶然また綾香を見つけた。彼女はパンパンに膨れ上がった買い物袋を抱えている。
「高嶺さん!」
声をかけると、綾香は驚いたように振り向いた。
「あ、片桐さん。こんにちは!」
「偶然ですね。買い物帰りですか?」
「はい、ちょっと買いすぎちゃいましたけど……」
袋はかなり重そうで、持つ手が震えているのがわかる。
「また危なっかしいことしてますね。荷物、持ちましょうか?」
「えっ、でも……悪いですから……」
「いえいえ、隣人ですし。手伝わせてください」
そう言って荷物の半分を受け取ると、綾香は小さく頭を下げた。帰り道、近くの公園で少し休憩することにし、ベンチに腰を下ろす。そこで悠真は、ずっと気になっていたことを切り出した。
「あの……気に障るかもしれませんけど、ちょっと聞いてもいいですか?」
「え、何ですか?」
「この前、ニュースで高嶺さんを見たんです。美月信也さんの……娘さんなんですね?」
綾香は一瞬表情を強張らせ、視線を逸らした。
「……そうですね。隠してたつもりはなかったんですけど、あまり話したくなくて」
「気に障ったならごめんなさい。でも、どうして隠してたんですか?」
「普通の生活がしたかったんです。“美月信也の娘”って言われるたびに、自分じゃない何かにされるような気がして……」
彼女の声は少し震えている。悠真はそれを受け止めるように静かにうなずく。
「料理が好きだっていうのは、本当なんですよね?」
「ええ。でも、好きでやっても“父の影響”だって言われるんです。それが嫌で……」
「でも、高嶺さんの料理、本当に美味しいですよ。それを食べた人はちゃんとわかってくれると思います」
悠真がそう言うと、綾香ははっとしたように顔を上げ、やがて少しずつ微笑んだ。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると、少し気持ちが楽になります」
***
数日後の夜。悠真はいつものようにソファに座り、ぼんやりと天井を見上げていた。ここ数週間の出来事を思い返すと、隣の部屋に住む彼女の存在がずっと近くにあるように感じられる。
そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。夜の9時を少し過ぎた頃だ。
「こんな時間に……誰だ?」
ドアを開けると、そこには綾香が立っていた。小さな容器を両手で持ち、遠慮がちに微笑んでいる。
「こんばんは。突然すみません。これ、今日作ったんですけど……よかったら一緒にどうですか?」
容器の中には、香ばしい匂いが漂うパスタとサラダ。
「あ……一緒に?」
「はい。片桐さんのオムレツの時みたいに、一緒に食べられたらいいなって思って」
悠真は少し驚きつつも、彼女を部屋に招き入れた。テーブルの上に料理を並べ、二人で向かい合って座る。パスタをひと口頬張った悠真は、その絶妙な味付けに思わず感嘆した。
「……これ、本当に美味しいですね。味付けがちょうどいい」
悠真が満足げに食べている様子を見て、綾香はほっとしたように笑みを浮かべる。
「人に美味しそうに食べてもらえるのって、嬉しいものなんですね」
「それが料理の一番の魅力かもしれませんね。食べた人を幸せにできるって、すごいことだと思いますよ」
綾香はその言葉に、しばらく考え込むように黙ったあと、少し照れくさそうに言った。
「片桐さん……今度、一緒に料理しませんか?」
「え? 一緒に?」
「はい。誰かと一緒に作るのって、きっと楽しいんじゃないかなって……あ、迷惑ならいいんですけど」
「迷惑なんてそんな。むしろ楽しみですよ。何作りましょうか?」
彼女は嬉しそうに「考えておきます」とだけ返事をする。その顔には、これまでに見たことがないような、少し自信に満ちた明るさが宿っていた。
玄関まで綾香を見送ったあと、悠真は扉をそっと閉める。これから始まる新しい時間は、一体どんなものになるのか――期待と不安が入り混じる胸の高鳴りを、彼は抑えることができなかった。