闇のラップと村の異変
レオは、朝の空気を吸い込みながら小さな路地を歩いていた。
村の中央広場から聞こえるトラックのリズムがいつもより力強い気がして、胸がそわそわする。
ヘッドホンを首に掛けたまま、やや長めの癖っ毛を手で払いながら視線を向けると、幼馴染のマヤが集会所の入り口で腕を組んでいた。
「おはよう、レオ。気づいたら人が集まってるみたいだよ」
彼女のショートヘアが朝日に照らされ、活発な印象をさらに際立たせる。
スポーティーな服装に身を包んだ姿は、レオより少し背が高いだけあってやけに頼もしい。
広場では、村の若者たちが朝練さながらリズムを踏んでいた。
レオは苦手意識を覚えつつも、挨拶代わりの軽いフリースタイルを口ずさむ。
しかし、いつもと違う緊張感が空気に混じっているのか、言葉が出てこない。
細身の体がこわばって声が裏返りそうになり、思わず唇を噛んだ。
「どうしたの、レオ。元気ないじゃん」
マヤが首を傾げながら、彼の肩を叩く。
「なんでもないよ…今日は変に胸騒ぎがして…」
そう答えた瞬間、遠くから聞き慣れないビートが響き出した。
地を這うように低く、聴くだけで神経を逆なでする不気味な音。
ざわめき始めた村人たちの間から、ある男が転がるように飛び出してきた。
顔面は血の気が失せ、瞳は焦点を失っている。
何かに怯えきった様子で、息も絶え絶えに叫んだ。
「アンデッド…アンデッドが来る…ラップで、俺たちの心を…喰らいに…」
途切れ途切れの声が、妙に耳にこびりついた。
その瞬間、黒い靄をまとった不気味な存在が村の通りに姿を現し、カラカラと骨の軋むような音をさせながら空気を震わせる。
村人たちはそれぞれの言霊を解放するかのように、ビートに乗って対抗しようとするが、黒いラップの破壊力に完全に押されている。
レオは自分のヘッドホンを耳に当てた。
マヤも足元でリズムを刻みながら、鋭い眼差しをアンデッドへ向ける。
「行くよ、レオ。あんたも逃げるのはナシ」
「わ、わかってる…でも…」
口の中が乾いたように声が震えた。
それでも、目の前で次々と倒れていく仲間を見ては黙っていられない。
レオは奥底に眠るメロディを手繰り寄せながら、相手の黒いビートに合わせてリリックを紡ぎ出す。
「暗い夜道を彷徨うシャドー
怖がる心を鋭くえぐるフロー
だけど見失うなよ この光の道
誰かのぬくもりが 俺を導く」
優しい言霊を意識しながら、ゆっくりと相手を包み込むように歌い上げる。
その瞬間、アンデッドは一瞬動きを鈍らせたかのように見えたが、すぐさま低い笑い声を響かせ、重苦しい韻を畳みかける。
「腐った闇から はみ出す太陽
お前の希望なぞ 虚ろに沈む
今から刻むは 地獄のライム
光の言霊 剥がしてやるぜ」
その声を聴いた途端、レオは胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われた。
相手のディスはまるで、レオが大事にしていた小さな希望を直接踏みにじるかのように突き刺さる。
心の奥にある「自分は弱い」という思いが余計に膨らみ、脳裏に「戦っても無駄だ」という囁きがこだました。
「しっかりしてよ、レオ」
マヤが強く叫んだ。
彼女はレオの背中を後押しするように、勢いのある煽りを叩きつける。
「腐った闇に染まったアンデッド
ここは人の住む平和のスペース
どこかで怯えてる暇はない
マヤが光を連れて来るぜ 今日が舞台」
爆発的なリズムに乗せてマヤがビートを刻むと、周囲にいた村人たちも少しずつ声を取り戻していく。
高速のライムと迫力あるパフォーマンスに、アンデッドのラップがわずかに乱れた。
しかし、相手の闇のエネルギーは依然として強大だ。
レオは震える息を吐き出しながら、改めて声を上げた。
気持ちを鼓舞しようと、いつもの“優しい言霊”だけでなく、ほんの少しだけ攻撃的な言葉を混ぜ込む。
「アンデッドの闇に 奪われたくない
仲間を守るんだ もう引けはしない
癒しのフレーズで その闇 打ち砕く
俺の声が届くなら ここで示す覚悟」
その言葉と同時に、レオのフローが温かな光をまとったように響いた。
周りにいる村人の表情が少しずつ和らぎ、アンデッドの攻撃的なビートが一瞬だけ後退する。
わずかな隙を逃さず、マヤがさらに強烈なディスと煽りを加速させる。
「あんたの自慢の暗黒フロウも ここまで
闇の渦巻くその瞳をカチ割れ
この村は捨てたもんじゃない
ラップが命を守る世界だ さっさと去りな」
煽りに乗じて周囲の村人が力を合わせ、一斉に声を上げた。
アンデッドの姿が一気にかき乱されたかのようにぐらつき、やがて灰色の靄を引きずりながら闇の向こうへと姿を消していく。
レオは膝に手をついて荒い呼吸を整えながら、なんとか村を守れたことに安堵する。
けれど倒れ込んだ仲間たちを見渡すと、胸の奥が締め付けられた。
重苦しい雰囲気の中、口を開いたのは村の長老だった。
「レオ、マヤ…こんな化け物は初めてだ。
人々の心を喰らうアンデッドの背後には、もっと凶悪な支配者がいるという噂がある。
アンデッドリッチとかいう名で呼ばれておるが、その正体はわからん」
顔中に皺を刻んだ長老の言葉に、マヤは青ざめた表情で息を呑む。
レオもまた、先ほど感じた闇の圧力を思い出して顔をしかめた。
しばらく沈黙が続いた後、長老は静かに言葉を継ぐ。
「もしこのまま放っておけば、世界中が闇に飲まれる可能性もある。
だが、ここにはもう力のある者は少ない。
頼む、わしらの代わりに真相を探ってくれんか。
アンデッドリッチなる存在を突き止めない限り、再び奴らが襲ってくるだろう」
マヤは口元を引き結び、視線をレオに向ける。
レオはまだ怖さが消えないまま、ヘッドホンを外して一度深呼吸をした。
村を守り切った実感よりも、心のどこかにある「またあんな強敵と対峙しなきゃいけないのか」という不安がじわりと広がる。
けれどマヤのまっすぐな瞳が、弱気を吐く暇を与えてくれない。
「行こう、レオ。あれを野放しにはできないよ。
私たちだって、こんな形で大事なものを失いたくない」
マヤの決意表明に、レオは小さく頷きながらも、胸の奥で小さく震える自分を感じる。
怒りよりも先に、誰かを守りたい気持ちの方が勝っている。
その想いを抱えたまま、レオは一度もらったヘッドホンを装着し直す。
泥だらけになった靴に目を落とした瞬間、内向的な自分との葛藤がこみ上げた。
それでも引き返すわけにはいかない。
「わかったよ、マヤ。僕もやる。
あんな暗いラップ、もう二度とごめんだ」
損傷の大きい村を後にする準備を進める中、風が少しだけ冷たく吹き抜け、レオは痩せた肩をほんのわずか震わせる。
マヤの背中を追うように歩き出しながら、次に現れる敵がどれほどの闇を抱えているのか、いまだに想像もできなかった。