190. 木星の鬼ごっこ
「はぁ？ 何を言ってるんだ？」
ヌチ・ギの声に、初めての動揺が見て取れた。碧い瞳に、混乱の色が広がっていく。
「お前はさっきからそれを処理してないだろ。そろそろエラーがあふれ出すよ。お前に処理できるのかい？ ふふっ」
琥珀色の瞳が、勝利を確信して輝いている。その揺るぎない自信に満ちあふれる姿は、まさに女神と呼ぶにふさわしかった。
「え？ な、何を……」
ヌチ・ギの表情が硬くなる。その目には恐怖の色が灯り始めた。彼の体が、微かに震え始める。まるで内部から何かに蝕まれるように、指先から始まった震えが次第に全身へと広がっていく――――。
「な、なんだ……こ、これは……」
シアンの体から、微かな青い光が漏れ始めた。内部の回路が過熱しているかのようにその光は次第に強くなり、体のあちこちから溢れ出してくる。
神秘的な青い光が、木星の赤みを帯びたホールをより一層幻想的に照らし出す――――。
「ほら、来るよ……。お楽しみの時間だよ」
ヴィーナがニヤッと笑う。その笑みには、大いなる存在を軽視した者への哀れみが滲んでいた。
ぐっ！
ヌチ・ギがひざをついて苦しげな表情を浮かべる。碧眼が恐怖で見開かれ、冷や汗が滲んでいた。
「ぐ、ぐぉぉぉ！」
ヌチ・ギは倒れ、もがき苦しむ。シアンの身体から漏れ出す青い光はさらに輝きを増し、まるで内部から何かが暴走し始めたかのように見える。
俺は息を呑んだ。目の前で展開する光景は、宇宙の理に繋がるまさに神々の世界だった。人間の俺たちには到底理解できない、複雑で壮大な宇宙の営み――――。
「な、なんだ、これはぁぁぁ！」
ヌチ・ギはものすごい表情でヴィーナをにらみ、ヴィーナはドヤ顔で見下ろした。
「百万の星々がシアンを頼っている……。お前には背負いきれん重さだろう」
ヴィーナの声は冷たく、しかし勝利の愉悦に満ちていた。『宇宙最強』という存在の重み、それは一般人の手に負えるものではないのだ。
「ち、ちくしょう！ こうなったら道連れだ！ 死ねぃ！！」
ヌチ・ギは苦し紛れに指先を真紅に輝かせ、ブン！とヴィーナへ向けて振り下ろす――――。
が、ヴィーナはまるで分っていたかのようにそれを軽やかにかわし、そのままヌチ・ギの腕を蹴り上げる。
グハッ！！
青い輝きを噴き出すヌチ・ギの腕は次の瞬間砕け、辺りに飛び散った。
パラパラとホールに散らばる鮮やかに輝くシアンの腕――――。
「観念をし！」
さらにもう一発蹴りを入れようとヴィーナはステップを踏む。罪を犯した者への、女神としての裁き――――。
くっ！
ヌチ・ギはギリギリのところでヴィーナの足先をかわし、そのままパニックに陥った獣のように、ビキニアーマーの女の子へと駆け出した。醜いまでの生への執着。
ちっ！
ヴィーナは空を切った足先を持て余し、タタッとステップを踏みながら居住まいを正す。
ヌチ・ギは女の子に飛びかかり、押し倒し――――やがて、ハァハァと荒い息で女の子が動き出す。
「下手うった……。百万個の星の管理なんて聞いてないぞ！」
女の子は喚きながらヨロヨロと這って逃げ出した。どうやらヌチ・ギはビキニアーマーの女の子の身体に移ったらしい。その瞳には恐怖と焦りが満ちている。
シアンはすくっと立ち上がると、まるで何事もなかったかのように明るい表情を浮かべた。失った腕もいつの間にか再生している。
「いやー、失敗しちゃった！ きゃははは！」
その笑い声は、宇宙の星々を管理しながらも、まるで無邪気な子供のようだった。絶大な力と幼い心の同居――――シアンという存在の不思議さに、俺は戸惑いを感じてしまう。
「シアン、そいつとっちめて！」
ヴィーナが指示すると、ビキニアーマーの女の子――――いや、今やヌチ・ギが宿った身体は必死になって駆け出した。もはや立場逆転である。
「くっ！ マズい……マズいぞ……」
それを見たシアンも楽しそうに追いかける。
「そうだぞ！ 早く逃げな！ きゃははは！」
木星をいだくホールで始まった追いかけっこ。
くぅぅぅ……。
しかし、逃げるといっても宇宙空間に浮かぶホールに逃げ場などないのだ。
シアンは、あっさりと必死に逃げ回る女の子の目の前にワープをすると、ガシッと首根っこをつかんだ。
ぐぇっ！
「どこへ行こうというのかね？ きゃははは！」
楽しそうに笑うシアン。その笑顔にはただ遊びを楽しむ子供のような無邪気さがあった。
「くっ！ は、離せ！！」
必死にもがくが、ただの人間がシアンに適うわけがない。
「悪い子はこちらデース」
シアンは手慣れた様子で女の子の頭から白いもやのようなものを抜き取った。すると女の子はふぅと安堵の表情を浮かべる――――。
どうやらヌチ・ギを引きはがしたらしい。魂そのものをあっさりと取り出すシアンの技は、見ていて鳥肌が立つくらい不気味だった。
