172. もう、猫でも何でも
俺は信じがたい光景に目を見開いた。
動き出した蜘蛛の足は、穹窿の空へと一直線に伸び、白銀の雲を貫いていく。その先は、大気圏を超えて漆黒の宇宙空間にまで達していた。生まれて初めて目にする、地上と宇宙を繋ぐ巨塔。もしも宇宙エレベーターが実現したとすれば、きっとこのような姿になるのだろう。遥か向こうの熊本の上空に浮遊して見える蜘蛛の胴体は青くかすみ、もはや生物としての域を超え、超巨大宇宙ステーションと呼ぶべき存在と化していた。
「何をボヤッとしとる! 逃げるぞ!」
レヴィアの厳喝が響く。彼女は神威の力で空間を裂き、御嶽山の俺のログハウスへと通じる門を開いた。
蜘蛛の足は神殿をモナカのように軽々と割りながら崩落させ、轟音を響かせていく。
うひぃ! ひゃぁ!
「早くせんかい!」
レヴィアは、頭を抱える俺たちをまるで荷物のように空間の亀裂に放り込んだ。
この異形の存在は、一体何処へ向かおうとしているのか? こんな巨大生物が地上を動き回れば、山は粉砕され、足跡は巨大カルデラになる。街など一瞬で渓谷と化すだろう。未曾有の大災害だ。
危機を乗り越えたと思えば、さらに大きな脅威が待ち受けていた。俺は事態の重大さに、思わず目眩を覚える。
亀裂を通して、今まさに蜘蛛の足が全てを破壊しつくしていくのが見える。その存在は、人類の想像を超えた試練として、人類の未来に影を落としていた。
◇
御嶽山のスイートホームに逃げてきた三人――――。
ログハウスのデッキに立つレヴィアが、思いがけない物を取り出した。スマートフォンだ。この異世界でスマートフォンとはさすがに違和感がある。まあ、海王星で見てきたモノたちからすれば些細なことかもしれないが。
複数のカメラレンズを備えた洗練されたデザインのピンク色のスマートフォン。電源を入れると、画面に浮かび上がったのは、懐かしい果実のロゴマークだった。
「え!? もしかしてiPhone……ですか?」
「そうじゃ、最新型じゃぞ、ええじゃろ」
レヴィアは得意気な笑みを浮かべる。ドラゴンがiPhoneを自慢するその不思議な構図に俺は顔をしかめた。
ただ、異世界でもスマホなんて使えるのだろうか?
「え? 電波届くんですか?」
「ちっくら空間をつなげて電波を拾うんじゃ」
「女神様に連絡取るのにスマホってなんだか不思議ですね……」
「こういうローテクのガジェットというのは風情があって人気なのじゃ。それに正式な申請だとご本人まで届かんかもしれん……」
なるほど、神々の世界でも非公式な連絡手段の方が確実な場合があるのだろう。
「さて、かけるかのう……。ふぅ……。緊張してきた……」
レヴィアの表情が強張る。この不敵な神格が緊張する姿は、俺にとって新鮮な光景だった。
レヴィアは深く息を吸い、覚悟を決めるとスマホの『ヴィーナ様♡』をタップする。創造神への直電、その想像を絶する事態に俺も息を呑んで画面を見つめた。
そして、幾度ものコール音ののち、それはつながった――――。
「ごっ! ご無沙汰しております~、レ、レヴィアです。あ、はい……はい……。その節はどうもお世話になりまして……。はい。いや、そんな、滅相もございません。それで……ですね……。少々、ヴィーナ様にお願いがございまして……。え? いや、そうではないです! はい! はい!」
レヴィアの丁寧な言葉遣いは初めて耳にする。ペコペコするその額には冷や汗が浮かび、普段の傲然とした態度は影を潜めていた。
「その辺りはご学友の瀬崎豊が説明すると申しておりまして……。はい、はい……」
は……?
突然の責任転嫁に、俺は唖然とした。この星の未来を決める、こんな重大な役目を自分が担うとは聞いていない。
「ちょ、ちょっと困りますよ……」
慌ててレヴィアの耳元でささやくが、レヴィアは俺を手で追い払い、抗議を受け付けない。
「マ、マジかよぉ……」
緊張が俺の身体にも伝染していく。
「え? 猫? もう、猫でも何でも……」
なぜ猫? 会話の文脈が全く掴めない。なんでこのような非常事態に猫の話題が出てくるのか?
「では、今すぐ転送します。はい……、はい……。では、よろしくお願いいたします」
通話を終えたレヴィアは、深いため息をつく。その表情には、重圧から解放された安堵の色が浮かんでいた。




