第七話
薄ら汚れたスニーカーが一足、行儀よく並べられた見慣れた玄関を上がり、正面の階段へ。階段を上から照らすように、窓が設置されているせいで屋内だけれど、酷く暑くて眩しい。風がある分、外の方が涼しい気がする。
暑さと白む光で視界がぼんやりとする中、俺は入るべき部屋の扉の前に立つ。
頬を伝う汗も、やる気のないうなだれた姿も、相手には見せるべき姿じゃない。まあ、髪を伸ばしっぱなしにしている時点で破綻しているんだけど。
ともあれ仕事だ。
「開けていいか?」
「い、いいですよ」
「良いってさ」
「ほんじゃ、失礼―」
来栖の生暖かい視線から逃れるよう、中か聞こえてくる馴染みのある女子の声に誘われるがまま、扉を開く。
瞬間、暑さを忘れさせてくれる冷気が身を包むと同時に甘い花の匂いが鼻腔をくすぐる。
簡単に言えば来栖の妹の部屋、変態的に言えば中学三年生の私的空間。
白い壁紙にフローリングが敷かれ、東側の壁際には学習机に漫画と申し訳程度の教科書にノートが収められた本棚、西側には木製の白いクローゼットが置かれている。正面北側の窓際には木枠の白いベッドがあって、部屋の中央にはもこもこのカーペットと白い天板の丸い座卓がある。
あと、ベッドの枕元には青とピンクのペンギンのぬいぐるみが、肩を寄せ合うように置かれている。なんでも部屋の主が小さいころ、県立水族館で母親が買ってくれたらしい。
しかし、善良な母親の子供は、ろくでもない俺を頼ってしまっている。
何たる親不孝!
いや、契約だから、双方は対等か。
「慎一さん。ぼうっとしてどうしたんですか?」
カーペットの上にちょこんと座る黒髪のショートの美形な顔立ちの少女は、弄っていたスマホから目を俺に向け、キョトンと首をかしげる。呆けた表情が可愛らしいね!
「おっ、ちょっとくだらないことを考えてただけだ。なあに、心配することじゃないさ」
「凛としてくれよ、慎一。腐っても家庭教師なんだからさ」
「安心しろって、成績はバッチリ上げたんだからよ。体裁とか風采の良し悪しよりも、結果の方が大切だろ?」
「まあ、そうだけども……」
妹想いのお兄ちゃんは、眉間に皴を寄せて不服気に見つめてくる。
「そんなことより、兄さんも慎一さんも座ったらどうですか」
そして、兄と呼応するように優もまた俺と来栖に不服気な視線を送ってくる。
「雇用主のお言葉とあれば、なんだって付き従いますぜ」
「そういうのはいいですから」
「お前も聡に似てきたな」
「それはちょっと嫌ですね」
「お兄ちゃん、悲しいよ」
「それ、止めて」
「はーい」
缶を座卓に、鞄は床に置いて、俺と優は来栖の心を微かに傷つける下らないコントに興じた。来栖は演技臭い悲しみをわざとらしく浮かべてコントを楽しんだ。その一方、主役の優は一瞬だけ兄に対する本気の嫌悪を見せた。来栖はしょんぼりとするものの、妹をからかってちょっとした復讐をする。
お手本のような家族愛だ。
博物館行き、間違いないね。
見物するならお座敷で、それが劇を見るマナーってもんさ。他愛のない会話を繰り広げる二人を見るために、腰をカーペットの上に下ろす。
いやはや、経験の外にあるもんは面白いぜ。
「来栖。テスト見るか? 昼休みに見たがってたやつ」
さて、いつまでも楽しんでいたいが、おふざけも五分程度が消費期限。
二人の愛おしい会話を取り上げるように、俺は来栖に問いかけた。優との会話を止めた野郎だったが、すっかり用事を忘れていたらしく、眉間に皴を寄せて唸った。しかし、一瞬間後に思い出すと目を見開いて、うんうんと頷いた。
「うん、見せてよ」
「おーけー」
行き過ぎた野郎の反応に苦笑いが浮かんじまう。
ともあれ雇用主が、熱望しているのならば。
俺は床に投げたトートバックからくしゃくしゃになった三枚の紙を取り出す。
二人は何か俺のことを非難するような眼差しを向けているけど、そんなのは無視だ。
「ほらよ」
丸まったテスト用紙を三枚、来栖に向かって投げる。怪訝そうな顔をしてキャッチした来栖は、それを広げると途端に肩を落とす。俺のくだらない点数が気になるのか、優も立ち上がって、来栖の手元を覗き込む。
「現代文が九十八点、数一が八十九点、物理基礎が九十三点……」
「慎一さんって、本当に頭が良いんですね」
「テストの平均点全部五十点前後なのに……。本当に慎一は凄いよ」
来栖は溜息を、優は若干の尊敬の眼差しを俺に向ける。ちょっとむず痒く、かなり腹立たしい視線だ。
「俺は天才で秀才だから当たり前だ」
「堂々とそんなことが言えるのもすごいですね」
「優、上手くアイロニーが使えるようになったな」
「慎一さん……」
「優に変なこと教えないでよ、慎一」
作り笑いと虚構の自信から来る俺の言葉に、優は尊敬の眼差しを侮蔑の眼差しに変える。そして、来栖は苦笑いを浮かべる。
「まっ、用事は済んだから俺は自分の部屋に行くよ」
雇用契約のために来栖は立ち上がる。
「それじゃ、よろしく頼んだよ。天才で、秀才の坂本慎一先生」
「任せとけ」
俺を見つめながら、嫉妬と羨望が入り混じった何とも言えない笑みを来栖は浮かべた。そして馬鹿は跡を濁して、部屋から出て行く。
「優、あれがお前の目指すべき姿だぜ」
俺は自室に戻った来栖を想いながら、振り向いて、座卓の向こう側に座る優に助言と微笑を与える。
「あんな演技上手になんてなりたくないです」
「ありゃ、演技じゃなくて処世術よ。しかも、俺があいつに対して唯一劣ってる見事なやつだ。見習わなねえとだよ」
「……それも演技ですか?」
「解明によって答え合わせしてみるといいさ」
聡い兄を持った妹の慧眼は、俺の虚構をものの見事に突き止める。
けれど、意地悪な俺はせせら笑う。
「とかく、優秀な兄を見習うと良いぜ。お前も優秀なんだからよ」
「嫌ですよ」
「意志が強いねえ」
「当たり前です」
優は貧相な胸を堂々と張って見せる。
おっと、冗談ですって、睨まないで、拳を作らないで、ああ、止して!
いまにも殴り掛かってきそうな優の前に、右手を突き出し制止させる。すると優は溜息を吐いて拳を収める。
うん、これだけ元気があれば今日も大丈夫だろう。
「その頑固さと凶暴さはいいぜ。それじゃ、このまま勉強に移ろうか。もっとも、六月の時点で中三の範囲も終わらせたし、過去問でも八十点前後取れてるから根詰める必要もないんだけど。うちの高校、平均七十点で確実に入れるし」
「万が一を考えてください」
「万が一もなにも……」
『絶対と言えないのなら、然るべき措置を取り続けるべき』だと言わんばかりに優は真剣に俺を見つめてくる。真面目なのは良いが、気張りすぎるのは良くないと思いますぜ。
「合格は俺が保証するから、万が一は考えなくて良い」
「そうですか」
不安を取り除こうと、出来る限り柔らかい微笑を送ると、優は顔を微かに赤らめる。そして、恍惚とした溜息をもらす。
……不本意な影響をまた与えちまったか。
厭世的な気分が跋扈する心は背中を丸める。すると鬱屈とした感情がぽこぽこと湧き上がってくる。
病気は気から、鬱々しさは態度と行動からだ!
さて、やることをやろうぜ!
「けど、やらなきゃならねえよな。そいつが契約で、そいつが労働だからな」
「……契約が無かったら?」
「簡潔かつ明瞭だ。それを言葉にするほど、俺の口は安くないぜ」
「……そうですか」
俯いて、悲しそうな声を漏らさないでくれよ。せっかくの慧眼が、感情の発露のせいで台無しだぜ。
「まあまあ、そんなに寂しがるなよ。契約をこっちから捨てるなんて言ってないんだからさ」
「……はい」
顔を上げた優の顔は、中三に見えないほど女らしい。
潤む瞳、ほんのりと赤らむ頬、潤いに富んだ桜色の唇、媚態を覚えるような寂しげな声音。きっと、ロマンスのヒロインに値するだけの素質を持ってる。
学習机の上に置かれた芳香剤の薔薇の香りが、憎たらしくて仕方がない。そして、優の血が熱していく中で、冷める俺の血の薄情さが苛立たしい。
もしも、俺の血が聖な血であれば、あるいは今朝の女みたいな冗談めいた血であれば……。
阿保らしい願いに呆れ笑いがこぼれる。
自嘲する俺に優はキョトンと首をかしげて、中学生らしいちんちくりんな表情を浮かべる。
「さて、じゃあ仕事を果たすとしますかな」
いつまでも辛気臭いのは優には似合わない。
「ほらほら、ノートと教科書とワークを出して、お勉強するわよ!」
「それ、止めてください」
「いいねえ。ジョークにアイロニーを返すのはくどいからな」
「分かったから勉強しましょう」
「そうこなくっちゃ。それじゃ、今日は社会から数学から始めるとしますかな」
少し冷めていてて、少し反抗的な態度に戻った優は紺色の学生鞄を取りに立ち上がる。
そうそう、お前さんにはそのドライな態度が良く似合ってる。
妙な親心に唾を吐いて、俺は腕を天井に向けて伸ばす。
そう言えば、今朝の天使様のこと、来栖に聞いておけばよかったな……。
いや、どうでも良いか。どうせ、俺の人生には関係ない奴なんだし。
「慎一さん?」
「準備が早くて結構!」
記憶に鮮明に残る屋上の天使を意識の外に追いやって、教材と筆箱を机に並べる優に意識を集中させる。
そう、いまはこのやるべきことで頭を一杯にしよう。
かくして俺は四月から始まった家庭教師を始める。
ご覧いただきありがとうございます。