第六十三話
空はあの町からバスで三十分ほどの離れた場所でも、あの時と同じ蒼穹が弓形続く光景を見せる。
十月二十一日、十一時十分。
十月の下旬となれば残暑も消え去り、随分と過ごしやすくなる。運動をしても汗は程よくしか流れないし、居眠りをしたら一日が過ぎているなんてざらだ。
夏であれば歩く気にはなれない木陰の坂道も、いまは楽々と歩ける。
ほんのりと色づいた葉から漏れる陽も柔らかくて心地が良いし、土の匂いもまた中々良い感じだ。
「慎一。髪切ったんだね」
黒のスラックス、白地に花の刺繡が施された襟付きシャツで身を包む来栖は、俺の右隣から耳の上の髪を一つまみする。そして、髪をパッと離して、さらりと落ちていく様をジッと見つめる。
「流石に暑苦しいからな」
「暑いかな?」
「暑いよ。特に運動するときはひどく暑いぜ」
「確かに髪が長いと邪魔ですよね。でも、マッシュは少し……」
紺のデニムパンツと白地にゴッホの糸杉がプリントされたロンTで身を包む優は、呆れた声音とともに来栖の右隣から顔をのぞかせる。
「理容師に勧められたんだぜ、最近流行ってるって」
「流行りがカッコよさじゃないですよ。私的にはもっと似合ってる髪型があると思います」
どうやら、優さんにマッシュは不評らしい。
個人的に初期のビートルズみたいで気に入ってるんだけど。
「まっ、どうでも良いだろ。人の髪形なんてさ」
「極論だねえ」
俺と来栖がどうでも良いと言うのに、優にとってはどうでも良くないらしい。彼女は頬を膨らませて、不満を訴えてくる。
そう睨まれましても、いまさら変えるのも面倒なんですよ。金もかかるし、時間もかかる。もっとも、過去への餞別だから別に変えても良いんだけど。けれど、面倒が勝ちますぜ、優さんや。
「そう言えば、慎一と仲良かった用務員さんってどうなったの?」
「おっさんは社会的責任をとって職を辞したよ。暇を出される前に、辞めるとは男らしいことこの上ねえ」
「それでいまはなにをしてるの?」
「実家に帰って、スイカ農家やってるらしいぜ」
おっさんは例の件の後に学校を辞め、実家に戻って家業を継いだ。少なくとも用務員室に俺を呼びだしたとき、おっさんはそう語っていた。
あと、最後だからって連絡先を渡された。
あの人なりの気遣いなんだろう。
まっ、素性の確認のために連絡するほど俺は無粋じゃねえ。大体、『信頼に値する人の言葉は信じろ』なんて粋なことを言う人が嘘を吐くはずがねえ。だから、おっさんが伝えてくれたことが真実であると信じて語るさ。
「……慎一さん」
「なんですかい?」
優は事件の当事者と言っても差し支えない人物の話題を契機として司のことを思い出したらしく、俯いて悲し気な声を漏らす。
罪なもんだぜ、司さんや。
あんた、一人の女の子を悲しませているんだからさ。
「司さんって本当に何も遺してくれなかったんですか?」
あと、お前さんがスマホに遺した遺言は誤魔化すのが面倒なんだよ。
「なんにも遺しちゃくれねえよ。あいつが遺したものは、精神病院行きの母親だけだ」
「……お見舞いとか行きました?」
ウルウルと涙ぐむ双眸を携えた優は、俺を見上げながら一種の願望を向けてくる。
本当にお前さんは優しすぎるぜ。
「いいや、行っちゃいねえよ。大体、他人の親なんざ俺の管轄外だ」
だけど、俺はお前さんみたいに優しくない。
だから、お前さんの期待するような応対はできない。
俺はアル中の父親と、完全に俺との連絡を絶った不義理な母親と、九州への転勤が決定したペドフェリアの叔母さんに育てられた俺は曲がった男だからな。
「そうだよ、優。慎一は優しくないんだ。冷血漢で無頼漢なんだよ」
「てめえに言われると腹立つな」
「なんでさ!?」
「自分で考えてみろ」
妹を励ますように来栖はわざとらしく肩を落とす。そして、馬鹿をやる俺たちに優は呆れの溜息を吐く。
……来栖。てめえは俺には出来すぎた野郎だよ。
「司さん、本当に、どうして?」
ただし、一つの茶番で癒えるほど優の心の傷は浅くない。彼女は再び俯くと、疑問を寂しげに紡ぐ。
「あいつはあいつの世界の限界を知ったんだよ。だから、仕方がなかったんだ。あいつは無限長の円、延々と続く永遠の円を知った。けれど、彼女のそれは誰からも観測されず始点を作ることさえできなかった。ゆえにあいつの見る永遠の円は絶望でしかなかった。希望たる軌道は予測され得ず、結論である無限長だけがあいつに与えられた。連続する過去、現在、未来からなる無限長の永遠の円、それが解決され得ぬ絶望によって構成され、あいつの世界はそれで殺された。この死んでしまった世界しか残されていない事実は、あいつを苦しめた。そして、その苦しみにあいつは耐えられなかった」
そう、司は耐えられなかったんだ。
「だから、あいつは最期に人に縋った。けれど、そいつは救世主でも預言者でもなくただの人間だった。十字架に磔にされ、わき腹を刺され、絶命しても三日で蘇るような人間じゃなかった。そいつは実学を重んじる奴じゃなくて、虚学を重んじる奴だった。形而下の世界ではなく、形而上の世界を愛する人間だった。文学を、哲学を、歴史を愛する衒学者だったんだ」
「衒学者ねえ……」
来栖は遠い目をしながら『A霊園』と書かれた看板を見つめる。
どうやら、目的地まであと一○○メートルらしい。
「ゆえにあいつは助からなかった。あいつは八つ当たりのように、死んだ現実を忘れるために衒学者で作り出した夢想をことごとく破壊して、天使になっちまった」
「……その衒学者って?」
「優、アイロニーにクエスチョンはちょいと下品さ」
「なんですか、それ」
優はぷくっと頬を膨らませる。
そんなあからさまな反応を示す妹を見て、来栖はくすくすと笑う。
「まあ、だから、そうだな、あいつについて問うのは止めた方が良い。『どうして相談してくれなかった?』とか、そういうのはあいつへの冒涜だ」
俺の言葉に優は可愛らしく首をかしげる。
「あいつは誰よりも現実を見ていた。永遠の円の始点を観測されなかったのにもかかわらず、あいつはずっと現実を見ていたんだ。それは義務だった。何に対する? 行為に関する権利を得るための義務だ。つまり、あいつはその権利を行使して行為に及んだ。ゆえにあいつの行為には正当性があるんだよ」
「……本当に現実を見ていたんですか?」
見ていたさ。
あいつがスマホに遺した手記が証拠さ。
『坂本だけがすべてを知って』なんて妙に嬉しい見出しから始まる手記がさ。
「見ていたさ。気狂いの母親を助けてくれない親戚連中、自分を取り巻くカルト、いじめ、自分が天使でなければならない運命、あいつはそのすべてを明確に把握していたよ」
すべてを知っているかのように語る俺を優は訝しむ。
「なんで知ってるんです?」
それに俺は微笑み返す。
「さあ、なんででしょうか?」
優は再び頬を膨らませる。
「ほら、二人とも馬鹿やってないで、霊園に着いたよ」
「馬鹿って、馬鹿なのは慎一さんだけです」
「いや、突っかかってくるお前さんも……」
「良いから、墓前で喧嘩なんて見っともない」
「まっ、そうだな」
兄は笑い、妹は不貞腐れる。俺はそんな二人を見て幸福を覚える。
それは、俺が願っていた幸福。
それは、この木漏れ日で満ちる霊園に眠っているあいつが欲していた幸福。
そして、俺があいつに与えてやれなかった現実だ。
「祈ろうぜ。あいつのためにさ」
だからその贖罪のためにも、あいつの『私の親愛なる本当の友達。来栖聡、優ちゃん、そして坂本。私のために私の幸福を祈ってね』なんて他力本願甚だしい遺言を叶えてやるよ。
「祈るのに掛け声とかいるんですか?」
「優、こういうのには突っ込まない方が良いよ」
「そうだぜ、こういう時は何も言わずに従うのが礼儀だぜ」
俺と来栖と優は、静謐な雰囲気に似合わない明るい調子で霊園に踏み入る。
「司、終点の景色はどうだ?」
「慎一、なんか言った?」
「いいや、何にも」
暖かな陽光を放つ白い太陽、延々と続く蒼穹、快い秋風。
季節は秋になった。
しかし、季節が変わろうとも俺たちは俺たちの世界の中でこれまで通り、人に期待して、人に絶望して、それでも永遠の円の中で希望たる軌跡を描き続け、笑ったり泣いたりする。
不変の日常。
世界を内包する日常。
そんな司と過ごした夏を内包した世界の中、俺たちは笑いながら日常に回帰していく。
#fin
ご覧いただきありがとうございました。
二人の夏の物語をお楽しみいただけたでしょうか?
この物語を読んでくださったみなさまの心に何らか余韻が残ったのであれば、作者として嬉しい限りです。
また、本作中に出てくる楽曲名は全て実在のものとなっており、良い音楽なので聴いていただけると幸いです。
さて、ここで長ったらしくあとがきを書くのも粋ではないのでここらへんで結びとさせてもらいます。
最後に最終話まで読んでくださった読者の方々、最終話だけ目を通された読者の皆様方、みなさんから感想や評価が何よりもの励みとなりますのでお時間がある時に入力していただけると幸いです。
では、またどこかで会いましょう。
^^ノシ




