第六十一話
「どうして、あんたが俺の親父を?」
「高校の同級生だったんだよ。ただ、友達でもなんでもねえ。あいつがちょっとした有名人だったから、こっちが一方的に知ってるだけだ」
「有名人?」
外聞だけは誰よりも良かったからな、きっと高校時代もたくさんの友達に囲まれて楽しい楽しい青春を送っていたことでしょうね。自分の女一人、自分の子供一人、愛することができなかったくせによ。
「ああ、感情の乱高下が激しいちょっとした変わり者としてな」
変わり者?
あの男が変人として有名だったってことか?
清廉潔白な聖人君主を演じてたような奴が?
「自分の信じるもの以外信じられねえ疑り深い奴でな。クラスの奴らが野郎の私物に、特に本に触ると、野郎は決まって激昂した。普段はクラスの端っこで物静かに本を読んでいるのに、ちょいと干渉するとすぐに感情をあらわにした。だから、思春期の奴らにとっちゃ良い玩具だった」
「……あんたはそれを黙ってみてたのか?」
「坊主の言う通りだよ」
おっさんは顎を摩りながら、遠い目を俺に向ける。
あんたのそれはいま向けるべき表情じゃないでしょ……。
「だから、まあ、坊主の境遇には少なからず俺も関わってるんだよ」
今更、あいつとの関わりを俺に伝えてどうなるってんだ?
あいつに殴られ、母親に裏切られ、叔母に童貞を奪われた俺が復活するってのか?
棺桶の中から無邪気な俺が復活するのか?
怨念がぐるぐると内側で駆け巡る。そして、俺の混乱を終わらせるようにおっさんは深々と頭を下げる。
止してくれよ。
いまさらだ。
本当にいまさらなんだから……。
あんたはカッコいい大人のままであってくれよ。
処世術に頼らず、真っすぐと自分を突き通して生きる大人であってくれよ。憧れの中で残ってるのは、あんただけなんだ。
だから、俺の幻想をどうかぶち壊さないでくれ……。
「すまねえな。俺のせいで、坊主の人生を滅茶苦茶にしてよ。そんで、あのときの後悔からお前さんの世話を焼いちまってよ……」
止してくれよ。
止してくれ。
あんたは俺が認めた数少ない男の一人なんだ。だから、これまで俺の面倒を見てくれていたことを全部あんたの贖罪に使わないでくれ。あんたのためだけに、俺を使ってだなんて言わねえでくれ。
俺は本気であんたに惚れてたんだからさ。
ちきしょう……。
一難去ってまた一難とはこのことだ!
ちきしょう、おっさんの顔を見てたら憎悪が溢れ出ちまう。精神のヒポコンデリーで敵と見なしちまう。
「……おっさん、屋上の鍵、もってますか?」
口から漏れだそうとする怒りを飲み込みながら紡ぐ俺の言葉は震えている。そんな情けない俺の声に頭を上げたおっさんは、何も言わずに微笑を注ぐ。言い足りない自己弁護があるはずなのに、俺の気持ちをおっさんは汲み取ってくれる。
「いいや、持ってねえ」
ただ、おっさんは俺の望んでいた逃亡の鍵を持ち合わせていなかった。
「嘘吐かねえでくださいよ。煙草を吸うために持ってるでしょ?」
「いや、さっき帽子屋の嬢ちゃんに渡したよ」
帽子屋の嬢ちゃん?
あの馬鹿どもか?
「坊主と一緒にいた眼帯の嬢ちゃんにさ。まあ、今日は眼帯してなかったみたいだけどよ」
どうして、屋上に?
海風が吹き付けて、ほのかに磯臭くて、晴れ渡った空しかない空き地に何の用が?
そう言えば、『天国の階段は買うしかないみたいだから』って、別れ際に言ってたよな……。
天国の階段ねえ……。
いや、待て。
天国の階段って、まさか、違うよな?
大体、あいつはそれを買うだけの金を持ってないだろ。というよりそんな形而上の代物を買うなんて言うのは甚だおかしい。妄言に過ぎない。
だが、大体にしてあいつはなんで神に許可を貰おうとしていたんだ?
どうして、あいつは天国の階段を上がりたかったんだ?
あいつは金銭を俗悪と見なしていた。しかし、あいつはその俗悪に手を染めて、本来は神の許しを得てから上がれない階段を上がろうとしている。
もしかして、神=金銭の前提があったのか?
違う。あいつは徹頭徹尾、現実的な金銭を嫌っていたし、非現実的な神の絶対性を信じていた。ということは『神>金銭』が『金銭>神』となり、それは『現実>幻想』を示し、すなわち幻想の破綻を……。
脳内に言葉が浮かび上がる前に、俺の知り得る司の全人生が直感の火花によって照らし出される。眩いばかりの光に照らし出される暗澹とした彼女の人生は、俺が忘れようとしていた事態を思い出させる。そして、この可能性の予期せぬ復活はおっさんに抱いた憎しみを瞬間的に吹き飛す。
「おっさん、その女子の瞳の色って左右で違ったか?」
「おいおい、取り乱してどうしたんだよ?」
おっさん、笑ってる場合じゃねえ。
こいつは事態が可能性として収束していくために重要なことなんだからよ。
ああ、ちきしょう、自分でも焦ってるのが良く分かるぜ。なんでおっさんの胸倉を掴み上げてるのか分からねえしな。
「いいから、教えてくれ!」
「ああ、左右で色が違ってたよ。右が茶色で、左がグレーだったよ。髪はブロンドで、後ろで結んでたぜ」
違う。
それは司じゃねえ。そして、司だったとしても俺には関係ねえ。
「なんで屋上に?」
「さあな。というか俺が屋上ヤニ吸ってることも知ってるし、屋上のフェンスが壊れかかってることも知ってるから、お前さんが自分のサボり場を馴染みの嬢ちゃんに教えて、その鍵当番を任せたもんだと思ったんだが、違うのか?」
ちきしょう……
こんな妄言を吐き出すおっさんなんざ知りやしねえ!
俺は電球頭を突き飛ばしてトートバッグを投げつける。制止の声が聞こえるが、馬鹿の言葉になんざ構ってられねえ!
俺は胸騒ぎと焦燥の中、階段を一心不乱に駆け上がる。
一段一段、上がっていくごとに心臓が痛くなり、脂汗が額を覆い、冷や汗が背中から噴き出す。脳裏にはそうであってほしくない像が浮かび上がる。しかもその幻想の輪郭は徐々に明確になっていき、それが現実であるかのように振舞い始める。
嘘であれ!
嘘であれ!
嘘であれ!
神様! 精神を痛め、体を酷使した俺の願いなんだ、今日くらいは願いを聞いてくれたって良いだろ?
あんたは『光あれ』と言って、六日間でこの世界を全ての被造物を創造した万物たる存在なんだろ?
一であり全、全であり一、トートロジーが唯一許される特別な存在なんだろ?
永遠の円の始点を観測する全能者なんだろ?
ヨブよろしく俺と司に不幸を与えた張本人なんだろ?
だからさ、俺の願いを聞いてくれよ。
だからさ、俺の憧れを壊さないでくれよ。
だからさ、俺の世界を明るくしてくれよ……。
そのためだったら俺は唯物史観を捨てるさ。家にあるマルクス、エンゲルスの著書は全部燃やすさ。毎日にあんたとあんたの息子、あんたの言葉を預かった人に祈りを捧げるさ。一切の暴力を捨てて、清らかに生きるさ。
だから、頼む。
事態を可能性のまま収束させてくれ。
大体、考えすぎなんだよ。
ああ、そうだ。
全部全部、俺の思い込みだ。
間違いねえ。
屋上に着いたら司がいつもの電波を受信してるに決まってる。そんで、また『地上に堕とされた天使』とかなんとか言って俺を困惑させるんだ。そして、俺が『馬鹿言うんじゃねえ』とか軽口を叩くんだ。それが俺たちの日常だ!
だから、そうだ。
深く考えるな。
俺は大丈夫さ。
否。
大丈夫だ。
否。
大丈夫だって言ってんだろ!
「ちきしょう!」
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