第六十話
イヤホンを外せば、運動部の朝練の掛け声、先生方の忙しそうな書類整理の音、リノリウム張りの床を歩む靴音、そんな薄暗い昇降口を満たす些細な音たちが聞こえてくる。
……俺の知らない世界だ。
俺の知っている昇降口はいつも遅刻ギリギリの馬鹿どもの騒がしさで満ちている。空気も暑苦しくて、埃っぽくて、長居してられない場所だった。
けれど、早朝七時二十分のここは長居できそうだ。まだ涼しいし、空気も土ぼこりが待っていないおかげで澄んでいるし……。でも、あれだな、かび臭くて仕方がねえ。やっぱり長居なんざ出来ねえな。
靴箱にスニーカーを入れ、靴底が擦り減った運動靴に履き替える。
「……本当に静かだ」
ワックスを掛け直したリノリウム張りの床は、足音を心地よい音にしてくれる。そんな靴音は静かな空間に響き渡り、雑然とした音を打ち消す。俺の音だけが、俺を包み込む。
不思議な孤独感に包まれながら自教室を目指して、階段を上がる。
トタトタと孤独な俺の足音だけが響く。
トタトタ。
トタトタ。
トタトタ……。
トタタタト……。
タタタタト?
踊り場を過ぎ、二階まであともう二段となったところで、俺の足音に誰かの足音が混じる。それは重い体を支える足の音、それは聞きなれた本物の不良の足の音、多分それはかつてヤクザだっただろう人の足の音……。
もう一つの足音は、俺が関心を寄せた瞬間に止まった。
話し声が聞こえる。
少しの気まずさを携えながら、階段を上がり切る。そうして屋上へと続く階段を見上げる。
「おっさん、いねえのな……」
ただ、俺が期待する人の姿はそこに無かった。あるのは窓ガラスから差し込む朝日によって露わになる埃の柱と、がらんとした踊り場だけ。
期待の不在に肩をがっくりと落として、俺は人気のない廊下へと一歩踏み出す。
すると、上階から降りてくる人の足音が聞こえてくる。
足音の重さとリズム的に、あの人だ。
「今日は早いんだな。坊主」
「貴方も早いんですね」
おっさんは腕を組んで、踊り場から俺を見下ろしてくる。光の柱の中でどっしりと構えるその姿は、ギリシアの神様のように見える。
神様……。
神様ねえ……。
「おいおい、朝から辛気臭い顔してんなよ」
どうやら光の中からわかるほど、俺は辛気臭い顔をしているらしい。しかし、おっさんはそんな俺をゲラゲラと笑い飛ばしながら、階段を下りてくる。
「どうした? 帽子屋の続きか?」
「違いますよ。あれはもうばっちり解決したんですから」
「そうかい!」
灰色のつなぎの袖を捲くって丸太のような腕を晒しているおっさんは、笑いながら腕を伸ばしてくる
「おいおい、避けるなよ。別に殴り飛ばしたりしねえさ」
おっさんは怪訝そうに眉を潜める。
「あんたが言っても、安心できねえんですよ。見た目がですね、ほら、やっぱり堅気に見えねんで……」
俺の生意気が気に障ったらしいおっさんは、躊躇なく優秀な頭を右手で握りしめる。極太の硬い指が頭にめり込んで滅茶苦茶痛い……。
でも、不思議と嫌悪感は無い。
そう言えば、おっさんから痛みを覚えたとき、俺は一度たりとも嫌悪を覚えたことは無かったような……。
「痛いですって……」
「力は五分だぜ?」
「じょ、冗談でしょ?」
「冗談だと思うか?」
「あったたたたたたた!」
本当に力は五分だったんですか!
ちきしょう! これじゃ、頭がかち割れるぜ!
「おっさん、タンマ。無理、これ以上は俺の脳みそが出ちゃう!」
「何言ってんだ、頭蓋骨はそう簡単に砕けねえよ」
「経験ですかい!?」
「ちげえよ、馬鹿野郎」
経験じゃなかったら、どうしてあんたはこんなに握力が強いんだよ!
なんではあんたは右腕を両手で力一杯握られても痛ぶる素振りすら見せねえで、笑っていられるんだよ? まさか、地下闘技場にいるタイプのビックリ人間か!?
「俺に勝ちたいんだったら、もっと鍛えねえとダメだぜ」
「あんたに勝ちたいなんて一度も思っちゃねえですよ……」
必死の訴えとそれに伴う涙に満足したのか、おっさんは俺の頭から手を離して、ゲラゲラと笑う。頭が痛くて仕方がねえ、後遺症ねえよな?
「頭を抱えて大げさな」
「頭蓋骨が軋む音がしたんだ、当たり前の反応でしょうぜ」
あんたは仁王立ちをしたまま笑ってないで、俺のことを少しは心配してくだせえよ。
「自分が心配される立場だと思ってんのか?」
「危害を加えられたんだから当然でしょ」
おっさんは俺の言葉に眉をしかめ、ヤニ臭い大きな溜息を吹きかけてくる。
「女の子を泣かせるような野郎に心配する必要なんざねえんだよ」
そんなおっさんは保護者面をしてくる。
でも、不思議なことに悪い気はしねえんだよな。この人のおせっかいは、無条件に受け入れられる。
「何べんも言いますけど、そいつはもう解決した問題ですよ」
ただし、解決した問題をぶり返されるのは頂けない。
「男なら業を背負っていくのが筋ってもんよ」
「いつの時代の話ですか?」
「いつまでもだよ」
古臭い常識にとらわれているおっさんは自惚れるようにうんうんと頷く。
おっさん、俺が言うことじゃねえが、価値観は更新した方が身のためですぜ。昔ながらのダンディズムなんざクソの役にも立たねえですし、新しい世代にも置いて行かれますしねえ。
まあ、金言なのは間違いないんだろうですけどね。
「本当にてめえの態度は、てめえの親父にそっくりだよ。慣習を考え込んで、常識に反逆する態度はさ」
誰があんな奴と……。
うん?
どうしてこの人はあいつを知ってるんだ?
「ああ、いや、坊主には言わねえようにしようと思ってたんだどな。お前さんが、あんまりにも浩一に似ているから、ついつい出ちまったよ」
おっさんは悪びれるように、光が反射する電球頭を撫でながら微笑む。
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