第五十八話
うだるような暑さが籠る人混みから抜け出し、俺たちはバスターミナルの方へ。そして階段を慌ただしく降りて、大橋の方へ。
さて、一般的な女子高生と一般よりも優れた男子高校生のどちらが早いでしょうか? 女子一〇〇メートルの世界記録と男子一〇〇メートルの世界記録を比較でもしましょうか?
いいえ、そんなもんは要りません。
「は、早い!」
「運動の能力で女子が男子を上回るのは、生物の構造上難しいからよ。観念しなさいな」
肉体の構造を鑑みれば、記録の比較なんざ必要ねえからな。
ただ、俺にしろ、来栖にしろ、汗がだらだらだ。陽が燦燦と照り付けるがらんとした大橋のたもとで司に追いついたのは良いんだが、これじゃあ暑すぎるぜ。
灼熱とも言える橋の上で、追いつかれた彼女は額から首から玉のような汗を流し、ぜえぜえと息を切らす。そして両手を膝に置いて、自身の前方に佇む俺と来栖を睨みつける。彼女の目は俺を凍えさせてきたあの昏さを宿している。
ただ、いまは全く怖くない。
どうしてか?
……さあ、どうしてだろうな。
「……どう思った?」
司は苦しそう肩で息をしながら、眉間をしかめる。
誤魔化しはもう不要だ。
仮説は仮説の領域から飛び出し、真実へと変わったんだ。そして、この真実は『天津司』という少女に対する印象を一変させた。
ならば、変化した印象をありのまま語ろう。
「可哀そうだと思ったよ」
「……そう」
「ああ、出来ればてめえを……」
『救いたい』?
詭弁だろ。
じゃあ、なんだ?
祈り?
ああ、そうだな。俺は祈ることしかできない。
「出来ればお前が幸せであってほしかったよ」
俺がそう言葉を紡いだ瞬間、司は目を見開く。
そして、彼女は、何かを、俺に対する何かを、いや、それは何かではなく俺へ向けていた神様理論、それを投げ捨てるように、下弦の月を顔に浮かべた。
「ねえ、坂本。坂本はさ、本当に、そう願っていたの?」
司は電波を感じさせない輪郭が明確な声を発する。
「ああ、本当にそう願ってたよ」
現実を捉えている司に、あの天使のような純粋さは消え失せている。その代わりに彼女が手に入れたものは、どうやら人間の生々しい憎悪らしい。
人間の証拠たる憎悪を引っ提げ、司は俺を睨み、俺を嗤う。
「嘘吐き。嘘だよ。全部、嘘」
「なにが嘘たり得るんだ?」
「私、花火大会のあと、優ちゃんから教えてもらったんだよ。坂本が優ちゃんの告白を断った理由」
司は俺を嘲る。
現実を誤魔化し続ける俺が愚かで仕方ないんだろう。
ただ、来栖は好奇心と良心の葛藤から眉間をしかめる。
来栖、てめえはやっぱり出来すぎた人間だよ。
「坂本は、優ちゃんに自分の願望を投影していたんでしょ? だから、優ちゃんが清らかで無垢な聖女であって欲しいって願ってた。自分がそうなりたいがために」
「ああ、そいつは本当だよ。だけど、そいつ俺の抱く願いが嘘であるということとなんの関係があるんだ?」
しらばっくれるなよ。
ほら、司はさらに口角を上げてるぜ。
これ以上、自分の価値を下げるなんざ意味がねえ。
「わかってるんでしょ? 坂本はいつでもなんでも知っていた。なのに、一番身近である自分が分からないなんてことはない」
「俺は何にも知っちゃいねえよ。灯台下暗しって言葉があるだろ?」
白々しい俺の返答に司は嘲笑する。
「違うよ。坂本の足元はいつだって照らされていた。いまだって、照らされているよ。坂本は地に足が着いている。けど、それを必死になって忘れようとしているだけ。優秀な頭脳が覚え続けていることを、無理やり忘れようとしているだけ」
「違うね。俺は記憶を忘れようたことなんてねえよ。何時如何なる時でも、俺は連続性の中で生きているさ」
「嘘だよ。連続性の中で生きていたら、自分の過去について言及する人に暴力をふるったりしないもの。それは自分を正当化させるため、過去の自分との連続を断絶させ、自分がいまこの瞬間にしか生きていないことを自分に言い聞かせるため」
無情な嘲笑を浮かべて司は淡々とした言葉で、俺を突き刺してくる。
「ほら、わかってる」
余裕綽々と言った態度を取っていた俺は、いまや口角をひくつかせている。そして、動揺しきった俺を司は嗤っている。
「わかってるからこそ、本当の私を恐れたんでしょ?」
『本当の私を恐れた』?
……ああ、俺は本能的にこいつを知りたくなかったんだ。俺はただ俺の世界の『天津司』に固執した。彼女は彼女でなければならないと。ゆえに彼女が彼女であったとき俺は強烈な恐怖を覚えて拒絶した。それは耐え難い自分への恥に対する拒絶だ。
「それで、本当はどう思っていたの?」
司は嘲笑を引っ込め、あの冷徹な無の表情で俺を見つめる。矮小で夢見がちな俺をジッと捉える。
「本当は悔しかったよ。俺の憧れが破れたんだからよ……」
「憧れ?」
来栖は俺の本音に呆けた声を上げる。
ただ、ふと呟いた来栖を司はキッと睨みつける。
「来栖聡」
「……黙れと」
「うん」
恐ろしく冷たい一言に臆することなく、来栖は司の意図を汲み取って黙る。
「ねえ、坂本。その憧れはずっと満たされていたの?」
来栖に向けていた冷たい表情を変えず、司は俺を睨みつける。
「形而上の永遠の円と形而下の死んだ世界を明言し、黄金と希望でしか得られない天国への階段を欲し、貴方を神様と言い、自分を天使と言い、唯一の肉親がカルトへのめり込んでいて、私服は貧乏ゆえに一枚のワンピースしか持ち得ず、天使であるがゆえに連絡を母親に監視されて満足に連絡を返せず、男性である貴方からの連絡が入ったことを母親に知られてスマホを床にたたきつけられ、結婚さえ彼らに定められた私は、貴方の憧れに適していた?」
矢継ぎ早に紡がれた司の言葉は、彼女の世界を構築している言葉たちだ。そして、その言葉で示される現実は、俺が彼女に抱いていた憧れをことごとく破壊する。清廉かつ純朴な彼女の像は、破片すら残さず消え去ってしまう。
偶像は完全に壊れた。けれども、彼女は俺に偶像の影すら残すまいと左目を覆う眼帯を力一杯引っ張り取る。
現れるのはあのおばさんと同じこげ茶の目。
グレーな右目とは異なる日本人の目。
その昏い右目は彼女があのおばさんと繋がっていると突きつけてくる。
「片方はお父さんの目、もう片方はお母さんの目。お母さんが目を覚ますまで、お父さんが生きていた時と同じように優しく接してくれるまで、眼帯は取らないつもりだったんだよ? 昔お父さんが生きていた時、お母さんは綺麗って言ってくれたから。目の色が違うって理由で、いじめられた私にそう慰めてくれたから」
じゃあ、どうして取ったんだ?
愚問だ
司が眼帯を取った理由は、眼帯をする必要がないと判断した体。
「酷い顔だね」
「はは、俺はいまどんな顔をしてる?」
「いまにも泣きそうな顔。神様にはとても似合わない、人間たる顔。凄く醜いよ」
醜いって、お前もそうだろうよ。
いまにも泣きだしそうじゃねえか。
「坂本はいま絶望している。貴方の世界に現れた貴方の願望たる私が、あるようにしてある世界にいる私だってことに」
それじゃ、なんだ?
お前もいまこの瞬間に絶望しているのか?
「ふふ、そうだよ。坂本の視界に映ってる私が私の想像している私であるなら、きっと私は絶望している」
「てめえ、やっぱりエスパーだろ。いや、天使様か?」
「あれだけ『電波』って言って、厭わしそうにしてたのに、坂本は幻想に縋るんだね」
ああ、そうだよ。
例え目の前のお前が、額から首筋から汗を流し、直射日光に目を細め、疲れ切って前傾姿勢になっていたとしても、俺はお前を人間として認めたくない。
お前は俺と出会ったとき、いや、それ以前から天使だ。形而上の存在が形而下の肉体を手に入れて、この世界に降臨した天使様だよ。
「幻想だろうが現実だろうが、俺はそう信じるさ」
「らしくないよ。全然、らしくない」
「そうか? 俺はいつだって夢を見てきたんだぜ。俺の連続性は夢の中にあるよ」
「違うよ。さっきも言ったけど、坂本は現実しか見てない。けど、何とか夢を見ようとして現実の中に投影してただけだよ」
司は憐憫の微笑を俺に注ぐ。
……ちきしょう。
わかってるさ、全てが遅いことくらい。幻想はことごとく現実の前に敗れた。彼女が左目を露わにした時点で、幻想への道が断たれてしまったことくらい当然理解していますぜ。
けど、でも、やっぱり俺の世界にいるお前は電波系の天使なんだよ。
「でも、虚しさはよくわかるよ。私も坂本にそういう感情を抱いたんだから」
かつて俺にしてはいけないと遠回しに言った自嘲を司は浮かべる。
「どこで?」
「帽子を買いに行った日、花火大会の日だよ。あの日、坂本は自分の弱さを、あまりにも人間的な弱さを吐露した。そのとき、私の中の神様は死んだんだよ?」
「ニーチェか?」
「衒学に逃げないで」
場を紛らわせるため、知識をひけらかそうとする俺を司は睨んで制止する。
「なるほど、だから俺の中の天使も死ねと」
「うん。貴方の望んだ天使はもういないんだよ」
「……そうかい」
居ない。
居ないねえ……。
じゃあ、目の前のこいつは俺にとってのなんだ? 訳の分からない電波的理論から始まった俺たちの関係性、俺と司の連続性の内につくられ、いまこの瞬間、意味を変えたその感性は一体何なんだ?
「じゃあ、いまの俺とお前は?」
「『けれど貴方は裏切りました。私を捨てて独りで世界を作りました。ですが私は貴方を恨みません。なぜなら貴方は私なのですから』」
「なんだよ、それ?」
「ふふ、なんだろうね」
司は一瞬、ほんの一瞬だけ、いつもの何も考えていないような笑顔を浮かべる。
困惑する俺に、日常を、生活を見出してくれたからなんだろうか?
ただ、彼女は冷徹で昏い目をすぐさま向けてくる。
「それじゃあね。天国の階段は買うしかないみたいだから」
司は胸の前で右手パッと広げ、左手は親指だけ立てる。
そして、運動の疲労を忘れるように、立ち尽くする俺と来栖の間を通って、駅の方へ軽やかに、ゆったりと、天使のような足取りで向かっていく。
「ちきしょう……」
通り過ぎる司の甘酸っぱい香りの中で、俺の羞恥は胸の中で広がり続ける。それは身体を赤熱させ、身体を硬直化させる。俺は去り行くのかつての憧れから目を背けるよう俯き、汗を地面に垂らす。
「司さん、何を伝えたかったんだろうね?」
来栖は疑問を青空に呟く。
「なんか、不吉な予感もするしさ……」
来栖の言葉に胸のざわめきを覚える。
俺は頭を上げ、小さくなっていく司の背中をざわめきの中、来栖とともに見つめる。単純な疑問府なんだから、追いかければ解明されるのに、俺たちはジッと眺めるだけ。
俺たちの身体が……、いや、俺の体が夢を見ているせいだ。
ゆえに俺はこう言うしかない。
「さあな」
分からないものは分からない。
知らないものは知らない。
そもそも、それを知ろうとしなければそれは存在しない。
ゆえに、弓形に延々と続く蒼穹の下、汗を流し、体を燃やしながら、俺はわからないふりをする。
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