第五十五話
夕方の陽を一身に浴びる高架通路の人通りは、水族館に行った日と同様に滞っていた。それは血流に対する血栓の様であり、帰宅する人々の邪魔でしかない。
人々は通路の交差部で行われているカルトの集会を避けるように、半楕円の流れを作っている。誰もが、正常な頭と幸福な境遇に置かれている全ての人々は彼らカルトが世迷言を喧伝するイカレた連中だと見なしていることの表れだ。
実際、抜群の知性を持ち、幸福な世界で生きてきた来栖は彼らの集会に引きつった笑みを送っている。俺も事前の情報と心の準備ができていなかったら来栖と同じ態度を取っていたに違いない。二十一世紀にもなって超科学的な神と、天罰としてのカタストロフィを本気で語るような俗世間から乖離した馬鹿どもの言葉なんざ、無知蒙昧の妄言でしかねえからな。そして、無知者の妄言はただの絶叫と変わりない。それは全てが無意味であり、いや、無意味であることを有意味に語っているだけでしかないんだから。
つまり、人混みの先で『天使様の導きを!』、『教祖の言葉を信じよ!』、『戦争は神の天罰なり!』と声高に叫んでいる奴らの言葉は全て無意味だ。世界を構成する対象にはなり得ない『無』そのものだ。
さあ、論理から外れた馬鹿どもに接近して、早く現実か否かを確かめに行こう。
「本当に行くの?」
俺は混雑の中で来栖に呼び止められた。そして視線を横に逸らすと、不安に満ち満ちた表情を浮かべ、唇を震わせている野郎がいた。
「ああ、行くさ。けど、意外と俺は大丈夫みたいだ。だから、お前は無理だったら着いてこなくて良いぜ」
「……いや、行くよ」
痩せ我慢か、蛮勇か。
来栖は汗でてらてらと光る首に縦に振った。そして、尋常じゃない額の汗を腕で拭って、青白い顔に無理な微笑を浮かべる。
……無理をさせないべきか?
……いいや、本人が了承したんだ、本人の意思を尊重しよう。
「じゃあ、行くか」
「うん」
俺と来栖は人が皆避けている交差部へ、人混みをかき分けていく。サラリーマン、OL、土木作業員、夏休みの学生ども、婆に翁をかき分けて、カルトの集会へと突入する。
真っ当な流れから自ら離れた俺と来栖は、皆が避けている空地へと飛び出る。誰もが止まらない、誰もが気にしない、誰もが存在しないと、誰もが意識的に認知している奴らの前に。
「世界は再び神様が指し示す破滅に向かってるんです! 未曽有のウィルス! ウクライナの戦争! 我々を洗脳する毒電波たる5G! それら全ては七十八年前の終わりと同じ合図です! それは結核、それは大東亜戦争、それは大本営発表、すべてがいまと酷似しているのです! ああ、破滅! 何たる破滅! ですから、教祖様が神より授かった預言、そして我々を導いてくれる天使様を信じ、我ら真明十字教とともに救われましょう!」
あの日と同じ三十台前後のお兄さんは、あの日と同じ半袖のワイシャツと黒いスラックスで身を包み、あの日と同じようなことを喧伝している。彼の傍らには五十代中盤だと見受けられる痩せたおじさんが『真明十字教』と達筆の筆のフォントで書かれた白地の旗を掲げており、五十代前半かと思われる一人のおばさんは例の新聞を通り過ぎる全ての人に渡している。
ただ、俺のお目当てのおばさんはそこにはいなかった。
……そう言えば、あの人、前回いなかったよな。
「ねえ、慎一。慎一の目当ての人って、もしかしていない?」
来栖は安堵の息とともに微笑を浮かべ、彼らを見つめる。
「ああ、いねえな」
「なら……」
ただし、来栖はほとんど喉から出かけていた撤退の宣言を飲み込んだ。
「お前さんも意外と肝が据わってらっしゃる」
「行くって言ったのは俺だからね。この一瞬で約束を反故するほど、男気がないわけじゃないよ」
自分が平気であると自身に言い聞かせるように来栖は笑った。自分でさえ騙し続けてきた来栖であっても、身近に迫るおぞましい連中は恐ろしいらしい。
怖いなら逃げちまえば良いのに……。
お前さんの不退転の覚悟は評価に値するもんなんだからよ。ただし、その評価を受け取れないお前さんのそれも男気だ。だから俺は何も言わねえさ。
「どうするの?」
「いねえのなら聞いてみれば良いだけだろ」
至極簡単でありながら非常に危険な行為を提案すると、啖呵を切った俺に来栖はがっくりと肩を落とす。
「……慎一がやるって言うなら止めないけどさ」
呆れと不安が混じった溜息を吐く来栖は、発言と相反する『やめておいた方が良い』という表情を浮かべる。それは俺に対する最後通告であり、野郎が俺を想ってくれている証拠だ。
嬉しい限りだぜ、俺は。
けど、俺の健やかな生活のためにはこうする他ないんだよ。
優しすぎる男に俺は出来るだけ柔和な微笑を返す。喧伝する彼に視線を合わせるように、視線をわざとそちらに向ける。自分たちの存在を無視しながら通り過ぎていく人々とは異なり、明確な意識を自分たちに向けてくる人間に彼はけたたましい表情を解す。
……普通の顔をしていれば、普通の人なんだけどなあ。
一介のサラリーマンに見える汗まみれのお兄さんは、喧伝をやめて、俺たちへずんずんと近づいてくる。
「お兄さん方! お若いのに、愚鈍な連中と違って世界の真理、神の真意がお分かりなのですね!」
熱狂的な信仰の態度を隠すことなく見せつけるお兄さんは、笑顔とともに丸みを帯びた手を俺に差し出してくる。そんなお兄さんに来栖は不格好な苦笑いを浮かべている。どうやら野郎の処世術の限界はここらしい。
「まあ、ちょっと、そうですねえ……」
便宜上、儀礼上、彼の手を握る。
お兄さんの太い指のついた手は、太さ的におっさんのそれと同じはずなのに軽い様に思える。あと、汗がべたっとしてる気がする。
俺の抱く不快感を知らない彼は脂ぎった顔に満面の笑みを貼り付けている。
遠くから見れば普通の人だけど、近くで見れば常軌を逸しているって分かるな。表情の中に狂気が籠ってる。
さて、口車に載せられる前に要件を早いこと済ませるとしますか。
……だが、俺の質問に彼が『はい!』と答えたら、俺は平気でいられるか? 来栖を守れるだけの冷静さを保てるか?
大丈夫だ。
俺なら大丈夫だ。
ああ、経験をしてきた俺なら大丈夫さ。
殴られても、見捨てられても、犯されても、いまのいままで俺は俺でいられたじゃねえか。不安なんか何にもねえさ……。
だから、俺は、大丈夫さ。
一部の不安を抱きながら俺は彼に微笑みかける。
「すいません、ちょっとある人に案内を受けて、そんでホームページを見てきたんですよ……」
おいおい、単刀直入に聞くんじゃねえのかよ?
どうして前口上を?
ちきしょう、わかってるさ。
結局のところ俺は恐れてるんだよ、真実が明らかになるのを。
「それで?」
「ええっと、それで……」
クソ、どうして言葉が出てこねえ。
たった一言聞けばいいだけだろ?
早くしねえと、化けの皮が剥がれちまう。俺と来栖が信仰のために尋ねたんじゃなくて、他の理由で尋ねてきたことが。そうなったらこの狂信者が、どんな応対をするかわかったもんじゃねえ。
……早くしろ、早く、そうたった一言言えば良いだけだ。
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