第五十話
暗い河川敷の道を行き、警備員が居ない瞬間を見計らって通行止めの黄色いフェンスを越え、急な土手を上り、人っ子一人いない土手の遊歩道に俺たちは出た。そこは一寸先さえ見ない暗闇が広がっている。
「坂本、座って」
「……ケツ汚れるぞ」
「良いから」
司は白いワンピースの裾を尻に敷いて、雑草が生い茂る土手の傾斜に座った。そして、自分の隣をぽんぽんと叩いて俺に座るよう促してくる。いつも感じていた電波を感じさせない司の催促に、俺は付き従ってしまう。
傾斜の上にあぐらをかくと、雑草とその下にある土の湿り気が尻に伝わってくる。
「てめえと野郎はいつから俺と優のやり取りを聴いていたんだ?」
「……流石は神様。なんでもお見通しだね」
暗くてよく見えないが、司はいつもと同じ純粋な笑みを浮かべていると思われる。
ただ、表情に反して彼女は若干の後ろめたさを覚えているはず。微かに曇った声音がそれの証拠だ。
「盗み聞きとは天使にあるまじき行為なんじゃねえのか?」
「そう? 天使は結構盗み聞きすると思うよ。いや、盗み聞きする他ないんだよ。だって、天使は形而上の存在だから」
「お前さんはいま形而下にあるだろ」
「そうだね。でも、どっちにしても意味は同じだよ。天使は天使。神様は神様」
どうやら司さんは電波をすっかり取り戻してくれたらしい。
いつもなら鬱陶しいことこの上ない電波も、いまは心地が良い。毒電波が俺の脳をひたひたにして、重苦しいことを全部忘れさせてくれる。
「ああ、天使は天使だし、神様は神様だ。それで、いつから聞いてらっしゃったの?」
「……聞いてないよ。見てただけ」
「聞いてないというか、聞こえなかったんだろ?」
「まあ、うん……」
図星を突かれたのか、司は俯いて声を小さくする。
「で、どうしてお前らは俺と優を切り離したんだ?」
「言ったでしょ、天使は人を幸せにするために天から遣わされたって」
「瞬きの間でもか?」
「うん。だって、坂本も優ちゃんも泣いていた。世界はあるようにあるんでしょ? つまり世界を不幸に見ることは、二人を不幸にすること。だから、天使として私は貴方と優ちゃんを切り離した。低俗な奴の力も借りたけど……」
司は恨みでも晴らすかのように足元の草をむしる。
どんだけ、来栖のこと嫌いなんだよ。
「……発案者はどっちだ?」
「発案者……、それはあいつ」
「なあるほどね」
とりあえず野郎は明日にでもぶっ飛ばしておこう。
「でもね、あいつは優ちゃんを、家族を庇ってあげてた」
俺の苛立ちに感づいたの司は、驚きの弁護をして見せる。
「庇うんだな」
「庇ってない。事実」
だが、当人は弁護と思ってなかったらしくそれが癪に障った司は、顔を上げて頬を膨らませ、機嫌をあからさまに悪くする。
「そうかい。まあ、どうでも良いんだけどよ。全部終わっちまったし」
「終わったってどういうこと?」
司は暗闇の中でキョトンと首をかしげる。
瞬間、花火の赤い光が司の顔を照らす。その表情は純粋だ。俺が優に求めていたものと同じ……。
なるほど、屋上で出会ったその時からこいつを忘れられなかったのは、こいつもまた俺の憧れだったからか……。
「どこで焼きが回ったんだか」
「なんで笑ってるの?」
「うん? ああ、自嘲ってやつだな」
純朴な司の質問に端的に答える。
すると彼女の雰囲気は一変する。
それは彼女が時折見せる俺を恐怖のどん底に叩き落とす冷徹。けれど、どうしてか、いまは恐怖を感じていない。
「神様が自嘲する必要なんてあるの? 一にして全、全にして一、トートロジーが唯一許される存在が、完璧な存在であるはずの貴方が、どうして?」
「人間だからだよ」
「人間じゃないよ。貴方は永遠の円の始点を観測する神様だよ」
「……人間だ。俺は立派な人間様だよ。神様なんて高尚な存在じゃねえ」
「ああ、そっか、そう言えば神様も形而下になっているから」
司はまるで俺の言葉を信じたくない様に、俯きながら自分の神様理論に俺を落とし込む。
「違う、形があるとか形がないとかそういうことじゃねえ。俺は『坂本慎一』、日本国籍を持ったいち男子高校生だ」
「でも、それで貴方が神様ではないという証拠にならない」
顔を上げた司は昏い目で俺を見つめながら、俺が人間であることを否定する。
きっと、唯物的に俺の存在を俺が語っても、自分の欲している解が俺の口から発せられない限り司は納得しない。
というか、なんでこいつは俺が神様であることに執着するんだ?
まさか、俺と同じで……。
自惚れか。俺に憧れているなんてさ。
でも、万が一……。
そう、万が一もある。
なら、その可能性を潰すのは悪手じゃねえな。むしろ原因が分かっていないなら、最適な判断だ。それにこの点を潰せれば、この面倒ごとも、理想を求めるおままごとも終わるだろうしな。
「司、スマホ持ってるか?」
「……持ってるよ」
司はミニバッグの中から画面にヒビが入ったスマホを取り出す。そして、青白い光が彼女の冷たい無表情を露わにする。
あら、連絡先を交換したときは傷一つなかったのに、いつの間に落としたのかしら? まあ、どうでも良いか。
「それで何がしたいの?」
「ちょっと人名を調べてほしいんだ。そいつを知れば俺がいかなる人間か、おおよそ神様の器に適していない人間だとわかるだろうからさ」
「わかった」
冷たい一言を呟くと同時に司はスマホを弄り始める。
相変わらず物分かりが良いことで。
「それで何て名前?」
「ああ、そいつの名前は坂本、こ、こう……」
「『こう』?」
ちきしょう、どうして名前すら言えねえんだ?
全部忘れようとした罪か?
「坂本?」
言葉を詰まらせる俺の背中を司は摩る。
青白い光に照らされている彼女の顔は相変わらず無だし、声も冷たい。なのにもかかわらず彼女の手は優しい。
表層を見れば冷たい。けれど、触ってみれば暖かい。
てめえが一番現実じゃねえか。
天使なんて空想のアイデンティティのくせに、本当は誰よりも現実的じゃねえか。
なるほど、こいつの冷たさは現実そのものだ。そして、俺が覚えていた恐れは、いや、それは恐れじゃない。現実から空想へと目を背け続けていた俺自身への羞恥だ。
衒学趣味に浸っていつまでも夢を見てちゃ、よろしくねえな。
「坂本浩一って調べてくれ。『浩』はさんずいに告白の告、一は普通の一だ」
「わかった」
司は淡白に一言返すとスマホを弄り、検索する。そして、検索結果として出てきたある事件の記事が見えるように画面を俺に突き付けてくる。
「これであってる?」
「そうそう、あってる」
「二〇一九年、八月十五日深夜、N市在住の株式会社O建設取締役坂本浩一容疑者四十歳は、偶然居酒屋に居合わせたA氏にビール瓶などで暴行を加えた。A氏は頭蓋骨骨折など全治十ヵ月のけがを負い……」
司は手元にスマホを戻し、淡々とした声で事件記事の見出しを読み上げる。
改めて聞くとすさまじい事件だ。
なんてことしでかしてくれたんだよ、クソ野郎。
「また、坂本浩一容疑者にアルコール中毒の疑いがあり……、妻とは三年前に離婚、いまは息子と二人で暮らしているとのこと……」
家に帰ってきたらすぐにストロング系のロング缶を一本空けて、風呂から上がったらまたロング缶を一本空けて、寝る前にも一本空けて、ついでに俺とあの女を殴る時も一本空けて、そんであの女に出て行かれたときは一升瓶を一日で空けてたっけか?
全部が懐かしいねえ。
鳴りやまない電話も、家を囲むマスコミ連中も、約束を平然と破ったあの女も、全部が懐かしいぜ。
「これって?」
自分が読み上げた記事とそこから推察された一つの結論を拒絶するように、司は唇をわなわなと震わせる。
お前さんの考えてることは、おおよそ全部正解だよ。
「俺の親父さ。俺の家庭さ。俺の過去さ」
「……本当だったんだ」
青白い光の中でばつがわるい表情を司は浮かべる。
「ああ、本当だよ。俺が犯罪者の息子であり、母親から捨てられた子供だっていうのも全部事実さ」
「……でも、どうしてそんな話が広がったの?」
雑草の上にスマホを置いて、司は俯いて声を震わせる。
「どうしてって、野郎は外聞の良い金持ちだったからだよ。いわゆるギャップってやつさ。悲惨なもんだね、本性を隠して温情を掛けてやった奴らに最後は裏切られちまったんだからさ。まあ、服で隠された痣を知っていたのにもかかわらず、何もしなかったら奴らだ。裏切らねえほうが不自然なんだけどさ」
「……お父さんとお母さんはどうしているの?」
「前者は重度のアルコール中毒とそこから発展した精神分裂で精神病院に入院中。後者は違う男とガキをこさえて、幸せな家庭を東京の方で築いてるよ」
『いつか迎えに来るから待っててね』って言ったくせに。
……いいや、『約束を反故された』なんて泣き言をいつまでも言ってちゃ駄目だな。俺はすっかり大人なんだからよ。
「だから一人暮らし?」
「そう、だから一人暮らし。まあ、賃料も、電気水道ガス代も後見人の叔母が全部払ってるんだけどさ」
「……なんで叔母さんのところに住み続けなかったの?」
犯されてなおひとつ屋根の下で暮らす気になれる訳ねえだろ。
なんて、本音を言いたいところだが、ちょいと刺激が強すぎる。ここは慎重にかつ衒学のオブラートに包んで。
「『悪徳の栄え』だったわけよ。あの叔母は」
「マルキ・ド・サド?」
「ご名答。つまりはエロティシズムさ。飛び切りグロテスクな」
「不連続な存在を連続的な存在とする……」
「お前さんも衒学者かい?」
「……違う」
司はそっけない声をとともに顔を上げると、色鮮やかな火が散っている夜空を見上げる。彼女のグレーの瞳は、ただ花火の明かりを反射させている。
ガラス玉みたいな目だ。
ガラス玉みたいに虚無だ。
「坂本」
「なんだ?」
視線を夜空に固定した司は淡白に一言呟いた。
「永遠の円は神様に観測されなければ、その無限大の長さから絶望を永遠に続かせる。始点も無ければ終点もない円環は、人に無限の絶望を巡らせる。けどね、神様が観測すれば始点ができる。始点ができれば軌道を予測できる。それって、希望。でも、最終的には終点に、絶望と等号の地点に還る」
「じゃあ、観測してもしなくても関係ねえだろ」
「うんうん、少なくとも軌道を予測しているときは希望を持ってる。それが重要。けど、希望を抱くには神様が居なきゃいけない。絶対的に頼れる、絶対的に縋れる、絶対的に誇れる神様。だから、神様以外に観測されてもそれは永遠の円。世界の外側の主体でさえ、逃れられない絶望の円環」
首を横に振って俺の神様的観測論を否定した司は、淡々と語り出した。
「円は連続。その連続性から逃れることはできない。永遠の円もまたそう。神様から始まって人間で終わる。至高の存在から始まり、最も醜い存在で終わる。醜さは軌道の中で獲得していく。それが連続するから希望の始点は、終点にたどり着くと絶望となる」
「絶望の連続性ねえ……。哲学の混ぜ合わせか?」
「……違う。私の神様の理論。死んだ世界を救うための」
「……そうかい」
俺の返事を聞くと司は俯いた。
そして、足元の雑草を何かを恨むように込めてぶちぶちとちぎる。
絶望は永遠……。
キルケゴールも『死に至る病』でそんなこと書いていたな……。
でも、司はなにに絶望しているんだ?
……いや、わかってるだろ。俺はまた知らないふりをしているだけだ。
ほら、ちらりと司を見ただけで、忘れていたあの気まずさがやってくる。あのおばさんと彼女との連関が脳裏にチラついてくる。
「なあ、死んだ世界はどうやって終わるんだ?」
現実と推測とが思考の中でつながらない様に、俺は馬鹿げた質問をしてしまう。すると司は顔を上げて、硝煙だけが残る夜空を見つめる。その横顔は、グレーのガラス玉が一つはめ込まれた人形のようだ。それこそ、天使のような。
「天国の階段が終わらせてくれる」
「階段が?」
ふと呟いた俺の問いに、司はぐりんと勢いよく首を曲げ、俺を見つめる。彼女のグレーの瞳は、俺の存在意義を捉えているようだ。
滅茶苦茶に怖いぜ、司さんや。
「うん。そして、天国への階段は近づきつつある。千年王国から私たちへと」
ただ、司は俺の問いに答え終えると、怯える俺を他所に再び俯いた。
ご覧いただきありがとうございます。




