第五話
混みあう昇降口から外に出ると、湿気を含んだ嫌な熱気がぶわっと体を包み、眩い光が目と肌を焼いてくる。
午後の四時半になっても夏の日差しは弱まってくれない。
湿った不快感と痛みを覚える日差し、うだる暑さにやられた体は驚くほど重い。
帰りのテンションが朝よりも低いなんて驚きだよ。
ただ、だからと言って、現状維持に徹して、多様な制汗剤が混じった臭いが喧騒とともに充満する場所にいつまでも居座ってはいられない。こっち方が暑さより不快だからな。
疲弊するわけがない一日を過ごしたのに、疲弊している体を動かして、玄関の人混みから、正門前の学校理念が刻まれた石碑と一本松が鎮座している地面剥き出しの三角地帯に体を落ち着かせる。木陰と地面を埋め尽くす苔が由来のじっとりとした湿り気が、微かな涼しさを与えてくれる。
しかし、待ち人が居る前提で木陰に身を寄せたのにもかかわらず、そいつはいない。
俺の期待を裏切るなんて言うのは大罪だぜ。
「……馬鹿か。くっだらねえこと考えてねえで、来栖を探すか」
思い返せば恥ずかしい自尊心を記憶の深淵に放り込んで、部活に赴く生徒や帰路に就く生徒たちの流れを見つめる。
そう言えば、今朝のあいつは誰だったんだろう。
ブロンドのポニーテールに、美人な顔立ち、左目を隠す白い眼帯、すらりと伸びる手足……。
はて、どうして俺は印象を記憶しているんだ?
まさか、一目ぼれしたってわけか?
「そんな訳ねえだろ」
下らない記憶を掘り下げるのは止めだ。
大体、知らない女子の印象が頭に残ってるのは、そいつが綺麗だとか、そのために一目ぼれしたとかいう話じゃない。彼女の奇天烈な言動のせいだ。
なにが『地上に堕とされた天使』だ。
『失楽園』に頭でもやられたか?
中二病が過ぎるぜ。
「ちぐはぐだ。まったく、ちぐはぐだぜ」
鬱屈とした気分を紛らわせるために、暇つぶしになるかもしれない何かがあることを願いながら視線をキョロキョロと動かす。
「おっ、発見」
視線の先には白いハンカチ。
黒髪ショートカットの背の小さな女子がそれを落とした。彼女も、彼女と談笑する傍らの明るい髪を風になびかせる女子も、ハンカチを落としたことに気付いていない。身長的にも、雰囲気的にも、凸凹している凸凹コンビは、ものについて無関心らしい。
丁度良き、暇つぶしだ。
さてさて、誰かに踏まれる前に行きやしょう。
そんな交通の流れの中に落ちる暇つぶしの道具めがけて、腹の空いた犬のように安全地帯から飛び出る。
「ちょっと!」
だが、当然、いきなり道に飛び出すことは通り行く人に迷惑をかける。こうして見知らぬ同級生Aこと中肉中背の男子に、注意されているし。
「ごめんごめん」
「いや、その……、やっぱり、ごめんなさい」
「ええ……」
正義漢ともいえる彼であったが、俺の顔を見るや否や顔色を青くして深々と謝る。まるで殺人鬼に出会ったかのような反応だ。しかも人の話を聞かない失礼極まりない奴さんは、目も合わせることなく、颯爽と立ち去った。
流石の俺でも傷つくぜ、本当によ……。
悲しみのあまりオヨヨヨと、泣き言のオノマトペを呟きたくなる衝動を抑え、足元に落ちているハンカチを拾う。幸運なことに誰にも踏まれちゃいない。さっき、この上を通った奴さんも奇跡的に踏まなかったらしい。
レースのハンカチか。
しかも、赤い糸で名前のイニシャルRとM? が刺繍されてる。きっと、彼女にとって大切なものだろう。
「おーい! そこの凸凹……、いや、黒髪のショートカットの女の子! ハンカチ落としてるぜ!」
俺が声を出すと、周囲から音が消える。
人が大声を出しただけで凪ぐ必要はないだろ。
これじゃあ、悪目立ちするだけだ。
実際、悪目立ちしちゃってるし。
罰の悪い俺の声に、凪の根本的原因であるR.Mさんは振り向いて、きょとんと首をかしげる。ついでに傍らの友人さんも振り向く。そして、彼女らが振り向いたのと同時に世界に騒々しさが戻る。
ただ、どういうわけか、R.Mさんは顔を真っ青にする。彼女の友人さんも綺麗な顔をしかめる。そして、怒りの形相を浮かべる彼女だけがこちらに近づいてくる。
「ねえ、うちらに関わらないで!」
「おいおい、関わるもなにも俺はあの子のハンカチを拾っただけだって」
「それも関係に入るでしょ! とにかく、早くどっか行って! あんたみたいな暴力装置、○○には、いや、この学校には毒なんだからさ!」
俺の言葉を聞いちゃいない友人さんは、凄い剣幕で責め立ててくる。怒鳴り声に近い大音声は、R.Mさんの名前の輪郭を消し飛ばした。
まあ、名前なんざどうでも良いし、俺の善意もどうでも良い。
とにもかくにも、騒ぎを起こしたくない先生方が駆けつけてくる前にここから離れねえとだ。あいつらに掴まったら、俺が悪者になるのは確定してるしよ。
「そっか。それじゃあ、おさらば!」
とりあえず友人さんの手にハンカチを預けてっと。そして、ちょっとした期待を込めて彼女に微笑みかけてみる。
「なあ、フロイトの抑圧を知ってるか?」
「知らない!」
「そっか。それじゃあ、仕方ねえな……」
一言で俺の期待を裏切った彼女に溜息を吐き、俺は衆人環視の中、正門めがけて駆けだす。
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