第四十九話
橋のたもとの幅広の階段から降りられる河川敷、そこにつくられた観覧席という名の原っぱは騒がしい人々で一杯になっている。しかして、幸運なことに立ち見をできるスペースは観覧席の後ろ側に確保されているが、既に人でひしめき合っている。
人、人、人、人。
人が俺たちを前後左右から圧迫してきやがる。
押し合いへし合いの中、優は手でパタパタと顔を扇ぐ。暗くてよく見えないが、顔は赤らんでいるように見える。観覧席へと向かう中途で、確実に公的な許可を貰っていない屋台で買った冷たいスポーツドリンクをちびちびと飲んでいる辺り、脱水症状による赤らみじゃないとは思う。
熱中症か?
……違うだろ。分かっている癖にどうして知らないふりをするんだ?
「対岸、見てください。人でいっぱいですよ」
沈黙を埋めるためだけに優は抑揚の欠けた声で笑う。
無理をして笑うほど俺との時間が気まずいんだろうか。もしも、そうであるのなら俺は家庭教師を辞めなきゃならねえな。辞めちまえば、もう二度と会うことは無くなる。そうだ、こいつの感情を断つのならば、いっそのこと……。
「ああ、人がゴミのようだ」
「天空の城ですか」
「俺は某大佐みたいなペドフェリアじゃねえよ」
続けるだけ虚しい会話を続ける意味があるんだろうか。
俺は『ない』と答えたい。
けれども、この状況を考えれば興じる必要がある。満員御礼の観覧席と、暗がりの水面と、対岸でうごめく人混みから、優の注意を人でなしの烙印が押されるだろう俺に向けるためにはこうするしかない。
「ところでさっきのヤクザみたいな人って知合いですか?」
「ああ、おっさんね。あの人はさ、うちの学校の用務員だよ。ろくでもない大人筆頭格とでも言えばいいかね。屋上で煙草吸ったり、生徒に頼まれたら本来貸し出しちゃいけない鍵を貸してあげたりとね」
「はあ……」
おっと、これじゃ来年入学予定の優が我が湊高校を怖がってしまう。
「まあ、でも、他の大人よりは随分とものが分かってらっしゃる。真っすぐで、自分に正直で、俺みたいな不良の世話まで焼いてくれる善い人だ。大体、さっきの俺たちのやり取りを見てれば何となくわかるだろ? あの人の善さがさ。善良なんだよ。見かけはやくざっぽいけど、あの人は本当に……」
あれ、なんで俺はあのおっさんをこんなに褒めているんだ?
あの人は仕事をサボって屋上でヤニを吸うような大人としては割と駄目な人間のはずだろ?
なんだ、もしかして帽子屋の前でたった一回助けてもらっただけで俺はあの人の人柄に惚れたってわけか? 共存共栄で今日まで続いてきた人類様の前提が満たされただけで、俺は満足しちまったのか?
「本当に?」
優は俺の言葉の続きが自分のそれよりも気になるのか、言葉の抑揚を取り戻す。
「まあ、そうだな……、善悪は倫理によって判断されるだろ。また、倫理は主体によって導かれる。けれど、世界を見つめる主体はなにによっても導かれない。主体はただそこに、世界を眺めるように存在する。あるようにしてある世界、そこで起こり得る出来事、起こった出来事を主体は眺めている。そして、主体はそんな世界を判断する」
おっさんに言われた通り、俺は衒学的にしか本音を伝えられないらしい。
悪癖も悪癖だ。
けど、俺の悪癖はいま良いように作用している。優は汗ばんだ首をこてんとかしげて、俺に注意を向けてくれている。顔の赤らみも晴れ、緊張も解れている。
「ゆえに主体は世界に存在しない。それだから倫理は世界に依存しない。倫理は主体に依存する。つまり、おっさんは主体として俺を『善い』と判断してくれたわけだ」
「……博識ですね」
ぽかんと話を聞いていた優は、何となくの理解を示すように小さく頷くと、衒学者に最も突き刺さる一言を呟く。アイロニーとも受け取れる言葉は全く嫌になっちゃうね。
まあ、優の発言が皮肉でないのは明瞭なんですがね。
「つまるところだ。あの人は善い人なんだよ」
恥を忍んで俺は思い切って本音を紡ぐ。
ああ、ちきしょう、本人が居なくとも恥ずかしいな、これ。
恥じらいから逃れるように優から顔を逸らす。すると、クスクスと俺をからかうように優は笑う。散々からかってきた俺が言うのもあれだけど、笑われるのは腹立たしい。
「初めからそう言えば良かったんですよ。言葉は単純な方が良いんですよ?」
「ぐうの音も出ねえな」
優は珍しく物事の確信を突いてくる。
「それで慎一さんも人を善い人と言えるんですから、善い人ですよ」
だが、優の論理は飛躍してしまう。
「どういう前後関係だよ」
「ふふ、私なりの前後関係です」
「てめえも司みたいになってきたな」
「扱いづらいってことですか?」
優はわざとらしく首をかしげ、唇に指をあてがって艶やかに笑う。
中学生の内になまめかしさを身に着けるのは、ふしだらだと思うぜ。親御さんが悲しんじまう。
「……扱いづらいよ。本当にさ」
「ふふ、そうですか」
クスクスと笑う優は、俺の腕に頭をこてんと預ける。彼女の背丈的に俺の二の腕がちょうどいい枕になるらしい。
これが良い雰囲気ってやつか?
こうやって人は堕落していくのか?
……考えすぎか?
「ねえ、慎一さん」
いや、考えすぎじゃない。
というより考えている訳じゃない。俺は知っているんだ。知っていて、知っていながらそれを知らないふりをしているだけだ。
俺は知ることに恐れを抱いている。知ってしまえば俺の世界に存在してしまうから。そして、いま優の熱を帯びた声によってその認識は呼び起こされちまった。
「そろっと上がりますね。花火」
「……ああ」
優は明らかに雰囲気の本筋と異なる話題を出す。
彼女の声は観覧席に来た時と同じように緊張している。そして、彼女の発する一音一音がこれまで俺が『あってはならない』と考えてた彼女主体の事実を、不幸のビーズをドンドン連ねていく。
冷や汗が背中を濡らす。
悪寒が走り、全身を粟立たせる。
「あっ、上がりましたよ」
瞬間、一発の花火が夜空に打ちあがる。
火の玉は重力に逆らって天上へと昇り、中空にて爆ぜ、一瞬で消えゆく青い花を闇夜に咲かせる。川面が衝撃波で揺れ、それまで写っていた花火の完全な像を水に溶かしてゆく。
「ねえ、慎一さん」
「……なんだ?」
花火よ、どうか絶え間なく上がってくれ。そして、優の言葉をかき消してくれ。
「私、慎一さんのことが」
今度は赤色の花が暗黒に咲く。
その光に照らされる優の顔は赤らんでいて、瞳はウルウルと震えている。彼女は恐怖と緊張の中で勇気をもって言葉を紡ごうとしている。
「私! 慎一さんのことが好きです……」
一人称の力強さと、尻すぼみする本音を優は紡ぐ。そして、彼女はいま固唾を飲んで俺の返答を待っている。
「……」
「し、慎一さん?」
黙りこくる俺を優は見上げる。
暗がりの中で潤む瞳は、俺の言葉を静かに待っている。
ただ一言紡げば終わるのに、その一言が出てこない。
『断る』それだけを言えば良いはずなのに、俺の胸は痛んで言葉を拒絶する。
「お前は”Heroin”を選ぶのか」
「へろいん?」
「ああ、つまり、そう……」
……婉曲して伝えるなんざ、もう止めだ!
中二病はもう過ぎただろ。俺はもう満足してるはずだ。
だから、そう、正直にぶちまければいい。
大体何が”Heroin”だ、そこに”e”をつけた”Heroine”だ! 馬鹿々々しくて、痛々しくて、つまらねえ!
「お前さんの告白は受け取れない」
きっぱりと告白を断る。
瞬間、銀色の小さな花が次々と空に咲いていく。
空を埋め尽くす銀色光は、目を丸くして、息を飲んで、返答が非現実的であるというようにこちらを見つめる優の顔を映し出す。
ああ、ちきしょう、だから嫌だったんだ!
「えっと、あの、ど、どうしてですか?」
花火の炸裂音が小さいせいで、途切れ途切れの声も聞こえてしまう。
「俺とお前じゃ釣り合わないからだよ。俺はさ、お前さんが俺に好意を向けてくれてるとわかった時からずっとそう考えてたんだよ」
「そ、それっていつからですか?」
「初めから。そう、お前と出会ったその日から、ずっとさ」
「ひ、一目惚れって知ってたんですか?」
「ああ、奥ゆかしくて清らかな好意が向けられているってずっとわかってたよ」
「じゃあ、どうして、なんで、なんで気付いた時に言ってくれなかったんですか?」
冷静さを欠いて焦る優は周囲に人がいることを気にせずに、俺の胸倉をつかんでゆすってくる。
「……お前が嫌ってくれると思ってたからだよ。俺の家族の噂というか……、事実は知ってるだろ?」
優は揺さぶるのを辞め、こくこくと首を縦に振る。
「そう、そんな自分で否定しているはずの血のつながりを体現するように、いろんな人を傷つけてきた事実を来栖から、両親から、友達から、聞けばお前さんは俺を嫌ってくれると信じていたんだよ」
「けど、それも含めて私は好きになったんです」
「馬鹿言うんじゃありません。いいか、悲劇を悲劇として見ているから、お前は俺を好きというんだ。現実は劇みたいに脚色されちゃいない、映画みたいに音楽は流れちゃいない、ドラマなんて一つもねえんだ。全ては事実さ。居酒屋で暴力沙汰を起こしたアル中の親父に子捨ての母親、ろくでもねえ叔母、そして俺のしでかした数々の不祥事。そいつらは単なる事実だ。ドラマもへったくれも何にもないんだ」
「ド、ドラマなんてわ、わたし、思ってないですよ」
「ああ、思っちゃいないかもしれない」
「か、かもじゃなくて……」
優は俯くと言葉の代わりにぽろぽろと涙を流し始める。
そうだ、泣いてくれ。
そして、涙とともに想いを消してくれ。
「まあ、思っているにしろ、思っていないにしろ、俺はお前を一人の女性として見れねえ」
……俺はやっぱりあいつの子だな。
「一つだけ言わせてくれ、こいつはお前のせいじゃない。こいつは俺自身、そう、俺自身の弱さのせいだよ」
「……」
すすり泣く優の声は、空中で燃え尽きるアルミニウムの花の音でかき消される。そんな現状に甘えて、俺はこみ上げてくる感情を年下の女子に吐いてしまう。
見っともなくて、浅ましくて、恥ずかしい。
だが、言葉が溢れちまう。
「俺はさ、俺はお前に憧れていたんだよ。俺が願った幸せを全部持ってたお前にさ。そして、お前にはずっと清らかであって欲しいと、俺は俺の望みをお前に見ていたんだよ。そう、だから、つまり、俺の弱さっていうのは、叶うことがないとわかっている夢を見続けているまだガキな精神さ」
ぽろぽろと俺の目からも涙が零れる。
どうして、俺が泣くんだ? 俺が泣く義理なんて無いだろう。泣いていいのは優だけだ。勝手に偶像にされた彼女だけだ。
分かってる。けど、どうしても俺は涙をこらえられない。
「優!」
銀色の小さな花火が全て空に消えた瞬間、優は来栖の大声とともに人混みの中に連れ去られていった。
まさか、野郎は全部見てたのか?
……随分と都合が良すぎたもんな。犬猿の仲の来栖と司が同時にはぐれるなんて言うのは、あんまりにも出来すぎている。
ちきしょう、どうして気付けなかった?
……まあ、良いや。
いまは独りで、そう、慣れ親しんだ独りぼっちで、硝煙の残る夜空を見よう。
「象徴とロマンを掛け合わせ、警句を与えるとするならば、ヴァレリーと堀辰雄から言葉を拝借して、『風立ちぬ、いざ生きめやも』って感じか……」
おいおい、誰に対する警句だよ。
大体、こんな時にまで衒学趣味に走るなんて本当に情けねえ男だよ。
「坂本……、坂本!」
現実を忘れるためにくだらないお遊び没頭していると、馴染みのある女子が背後から声をかけてくる。
Q:それは誰の声?
A:俺が可能な限り会いたくない人。
「坂本!」
おいおい、大声を出すなよ。
ほら、周りの人、お前を不審者だと思って見つめてるぜ。
「って、おい!」
「こっち来て!」
何の躊躇もなく俺の右手を握りしめた司は、俺を思いっきり人混みの中へ引っ張っていく。
将棋倒しになっちまうぜ!?
だが、危機を察知したお客たちは俺たちに道を開けてくれる。
安心安全だな。
いや、安心安全か?
まあ、良いや、考えるのも面倒くさいし……。
考えることを放棄した俺は、どこかへ進んでいく司の華奢な背中と、汗ばんだうなじを見つめながら足を動かし続ける。
ご覧いただきありがとうございます。




