第四十六話
ほんの十分前までの茜色の雲一つない空は、紫がかり宵に近づいていた。
時刻は十八時二十五分。
打ち上げ開始時刻まであと五十五分。
観覧する場所は信濃川にかかる大橋のすぐ下の河川敷。そこは駅から歩いて五分程度。来栖家からどれだけゆっくり歩いても余裕で到着する。といっても、場所取りをしなきゃならねえから、ちょいと早めに行かなきゃならねえんだが。
「優ちゃん、着物似合ってるよ」
「ありがとうございます。これおばあちゃんのお下がりなんですよ」
「物持ちが良いんだね」
「はい。おばあちゃん、物をずっと使い続ける人なんですよ」
「そうそう、うちのおばあちゃんはサステナビリティを極めてるからね。父親の実家には資産価値がつきそうな骨董品が一杯あるんだよ」
「お前とは話してない」
「酷いこと言うねえ。ねえ、酷いと思わない優?」
「思いません。兄さんは間違いなく変な人ですから」
「ええ……」
俺の後ろに歩く奴らはそう思っていないらしい。
奴らは談笑しながらすんごくゆっくりと歩いている。こんな別々のペースで歩いていたら、確実に駅前ではぐれるだろうし、花火が良く見える場所を取れない。いや、よく見える場所どころか見る場所すらなくなっているかもしれない。もっとも、この時間帯に出てる時点で良く見える場所なんてねえか。立ち見ができれば万々歳だ。
なら、早く歩く必要もねえな。
前提条件を見誤っていたお馬鹿さんの足取りは、ちょっとだけ遅くなる。そして、後ろの奴らとの距離が近づいていく。
だが、俺は気づいた!
このまま合流すれば司と話さなければならないことを!
……馬鹿か。
普通に話せば良いだろ。普段通り、普段通りにさ。
「あれ、もしかして慎一。自分だけ仲間外れにされちゃって寂しかった?」
「殴られてえのか?」
「冗談だよ、冗談」
「冗談じゃないよ、神様。天罰を下して」
「いや、司。お前のそれが一番の冗談だ」
ほら、野郎の馬鹿な調子に合わせればなんてことはない。
神様理論も、天使理論も、すべては司の電波さ。二日前の朝とは何の因果関係もない思春期特有の発作に過ぎない。それに無邪気に笑える彼女が、重苦しい不幸を背負っている訳がないだろ。
「坂本?」
暫時、黙りこくってしまった俺を司は覗き込んでくる。
しまった、また普通から切り離れちまったよ。
「うん? ああ、どうやって野郎をぶっ飛ばすか考えていたんだよ」
俺は場を取り繕うために嘘を吐く。
「慎一、さっき冗談っていったじゃん!?」
「もちろん、冗談さ」
「冗談なら拳を抜かないでよ……」
握りこぶしを作る俺に来栖は道化らしく恐怖する。嫌っている奴のわざとらしさが癪に障るのか、司は眉間に皴を寄せて来栖を見る。
彼女の俺への注意は、狙い通り来栖に逸れてくれた。
ありがとう、来栖。
これからもお前は都合の良いデコイであってくれよ。
「皆さん、ふざけてないで前を見て歩いてください。さっきからずっと人とぶつかりそうになってるんですから」
優は俺たち三馬鹿トリオに溜息とともに注意を促す。
唯一の年下なのに、誰よりも状況が把握できている辺り流石は優だ。それに比べて俺たちときたら駅に近づいていることも、人が多くなっていることも何も見えちゃいない。不甲斐ない年上だよ。
ともあれ、コントはこれにて閉幕だ。
「来栖聡が全部悪い」
「ああ、来栖が全部悪い」
「なんで俺!?」
閉幕の口上は来栖の犠牲で補われ、可哀そうな野郎は自分を指さして誇大的に驚いてがっくりと肩を落とす。そんな来栖を見つめる司の表情は、嘲りと軽蔑の中で弛緩する。
本当にどうしてお前は来栖をそこまで嫌うんだ?
俺たちの滑稽劇は、そんな疑問を一つだけ残して閉幕する。
観客の反応はいかがかしら?
おや、頭を抱えて溜息を吐いてらっしゃる。
「とにもかくにも、人が多いんですからはぐれない様にしてくださいね」
呆れを通り越した先にある苛立ちの中に立つ優は、腕を組みながら俺たちに強く言い聞かせる。背伸びをした子供の忠告は心を温め、表情も心に応じて緩んでしまう。それは俺だけではなく、司も来栖も同じだ。
「もう、知りませんよ!」
俺たちの生暖かい笑みに耐えられなかった優は頬を膨らませてプンプンと怒り、混みあっている道をずんずんと一人で進んでいく。
全く、微笑ましい限りだよ。
けど、わき目を見ずに早く歩いたらお前さんがはぐれて独りぼっちになっちまう。
お前さん、一人は嫌だろう?
俺は先行く優を捕まえようとするが、俺よりも先に来栖が優の右手を取る。優はいきなりの感触にびくっと震え、その正体を確かめるべく足を止め、後ろを向く。
「優。はぐれたらせっかくの花火を一人で見ることになるよ。だから、落ち着いて、兄ちゃんたちが悪かったからさ」
来栖は家族として、兄としての微笑を浮かべながら、優の目を柔和に見つめる。
優と司、そして俺もまた来栖の温もりに満ちた表情に目を丸める。初めて見る野郎の表情は優だけではなく、俺たちの心さえ捉える。どうやら、来栖はこの瞬間、自分を包む一切の嘘を投げ捨てたらしい。
「ごめんね、優ちゃん」
来栖の微笑に誘われるがまま、司は自然と頭を下げる。
「ほら、慎一も謝って」
「あ、ああっと」
「ほら、優の目を見て」
「優、悪かったよ」
一切の邪心なく人を想う態度は、俺には眩し過ぎた。そのせいで俺は言葉を詰まらせ、普段であれば俺がする側の注意を来栖から受けてしまった。
自発的に謝れなかったのが悔しいぜ。
いや、稚拙な感情しか抱けない自分が恥ずかしい。自分の心の狭さを自覚すると、俺は恥ずかしさから俯いてしまう。
「二人とも顔を上げてください。確かに二人ともちょっとやりすぎかなとは思いましたけど、別に気にしてないですから」
三者三様の謝罪を受け取った優は可愛らしく慌てる。そして、あまりにも優しい言葉を俺たちにかけてくれる。
「いや、お前が良くても俺が駄目だ」
「優ちゃんが良くても私たちの良心が駄目って言ってる」
優の慈愛の言葉は俺たちを慰める。
しかし、慰めを俺と司の心は享受しない。純粋無垢な一人の少女の楽しみを間接的に奪いかけたのだから当然だ。
「いや、良いんですって。ほら、頭を上げてください。他の人の迷惑にもなりますし」
「そうだよ、二人とも。優が良いって言ってるんだから良いんだよ。本人が許してくれてるんだから、万事解決なんだよ」
清らかな心を持つ兄妹に謝意を抱きながら俺は頭を上げる。司はどうか知らないが、おおよそ優にだけは俺と同じ感情を抱き、顔を上げたんだと思う。
ただ、優さんと来栖さん、俺たちの顔を見るや否や笑うのはいかがなものかと。確かに俺も司も顔が紅潮してるけどさ。自分の心に正直になるのは、恥ずかしいんだぜ。
「ふふ、それじゃ先を急ぎましょ。観覧席なくなっちゃうかもしれませんし」
兄の手を振り解いた優はにこりと笑う。
あっ、兄との接触は嫌なのね。
俺と司は妙に現実的な妹の姿に苦笑いを浮かべ、損な役割を担ったのに拒絶された来栖に微かな慈悲を覚える。恩をあだで返されたことが答えたのか、来栖は呆けた様に妹の後ろ姿を見つめる。そんな人混みの中でぼうっとする来栖を無視して、俺と司は優の嬉しそうな歩みに合わせる。
そして、遅れること数歩。
「ちょっと、待ってよ……」
来栖もまた情けない声を出しながら、歩みを始めた。
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