第四十五話
貴方のことが嫌いになりました。
それは貴方が井戸の外を知ったからです。
貴方のことが嫌いになりました。
それは貴方が人間になってしまったからです。
吐き気のする時間は過ぎて、どうでも良い日々に回帰した。といっても、その日常も悪夢と読書と映画と悪夢で無駄に過ぎて行った。
かくして花火大会当日の八月三日を迎えた。
茜色の夕暮れ時、普段は閑散としている住宅街は浮かれている。自宅の庭でバーベキューをしている人、着物を着て下駄をカツカツと鳴らしながら歩いている人、営業法に則ってるのかどうか分からない屋台を開いてジュースの商いをしている人、その他もろもろ。
街はそうした浮かれた雰囲気に包まれていて、人出のせいで気温も普段よりも高く感じる。いや、『感じる』じゃなくて気温は実際に高くなってるはずだろう。
うだるような熱帯夜に酷い気だるさを覚える。ただし、浮かれていない訳じゃない。花火は好きだし、祭りの賑やかな雰囲気も好きだ。けれども暑いのは勘弁してほしい。人出の多い道をおひとり様で歩いて、たまに人とぶつかって、ちょっと白々しい目を向けられるのは良いけど、蒸し暑さだけは止してほしい。
「というか、もう八月か」
……あいつがパクられたのは八月だったよな。
馬鹿。おめでたい日に、ありもしない陰気な記憶を思い出すもんじゃねえ。
今日は日頃の色々を全部忘れて楽しむ日だ。いや、今日でなくとも辛気臭い記憶なんざ思い出さなくて良いし、それはそもそもないもんだ。全てを忘れ、全てを前進させるんだ。いままでも出来ていたことを習慣として続ければいいだけの話だ。
ネガティブからポジティブへ、過去から現在へと、さあ行きませう!
「慎一、今日は妙にテンションが高いね」
日常生活への回帰をしばらく考えていたら、俺は来栖家に着いていたらしい。
「そりゃ、花火大会なんだからテンションも上がるだろ」
「意外、気取り屋のダウナー系だと思ってたからさ」
しかして、そこに居るのは棘のある事実を軽薄な笑みとともに吐き出す来栖だけで、お二方はまだ来ていない。
「というか眼鏡なんかどうしたの?」
黒い無地の半袖シャツと白いカーゴパンツで身を包む来栖は、グレーのジーンズと赤地に花柄のアロハシャツを着た俺のワンポイントおしゃれが気になるらしい。
「おしゃれだよ」
「違うでしょ。慎一がそんな理由でつけるわけない」
ご名答。
水族館に行った日は全く機能しなかったけど、一応な。
「変装だよ。俺って人気者だからさ、因縁を避けるために必要なわけさ」
「意味あるの?」
来栖は苦笑いしながら、俺から銀縁眼鏡を取る。
「これ、つけてても、つけてなくとも大して変わらないと思うんだけど」
「確かにてめえが着けても、てめえって分かるな」
銀縁眼鏡をかけたセンターパートのイケメンは、近くから見ても遠くから見て来栖聡とわかる。雰囲気が若干変わるけれど、主たる印象が変わるわけじゃない。
なるほど、そりゃあバレますわな。
「変装するにしてももうちょっと工夫した方が良いと思うよ」
来栖は眼鏡を外して俺に掛ける。
やだ、ちょっとカップルぽいじゃない!
冗談。俺はソッチの人じゃない。だからと言ってコッチの人かと問われれば……。
「例えば?」
「例えばって……」
俺の突飛な問いに、来栖は顎先に指をあてがって考え込む。
ここ数日、こいつには迷惑をかけ続けている気がする。申し訳ない気もするけど、心の底から申し訳ないとは思えない。それは笑って許してくれるとわかっているからだろう。
傲慢だな。
地位に驕る俺の一方的な要求に来栖はパッと顔を上げる。そして、「少し待ってて」と一言を残し、家へと入っていった。
野郎が何を思いついたのかは知らないが、司が来るまで俺を一人にしないで欲しい。いまの俺じゃ、司の電波を受け流せる気がしないし、目を見て会話できる気もしない。
「坂本。早いね」
噂をすればなんとやら。
まさかまさかの懸念事項が背後から声をかけてくる。
俺は錆びついたブリキのおもちゃのようにぎこちなく振り向く。そこにはいつもと変わらない白のワンピースと黒いミニバッグを身に着けた天使様が微笑んでいる。
「集合時間、十八時十分だぜ」
「いま、十八時十分だよ」
感情のちぐはぐさと反するように、彼女からして俺の応対は自然らしい。
彼女はいつも通りの能天気な笑みを浮かべ、グレーの瞳でこちらを見つめている。疑りとか何もない純真な瞳で。
「五分前行動が常識だろ?」
「確かに神様の常識は公理だしね」
「……そうだな。公理だな」
前言撤回。
やっぱり、いつものように司と接せられない。
普段だったら反駁できる彼女の神様理論と二日前の現実が結びついているせいで、それが例え事実かどうかすら分からなくとも、彼女のそれを否定しようとするだけで胸が痛む。そして、精神的な痛みに苛まれる俺を心配するように彼女は首をかしげる。
来栖! ヘルプ!
「あれ、眼鏡」
「変装用にちょいとね」
「神様も変装が必要なの?」
「優秀な俺はやっかまれてるからな」
「神様なんだから当たり前」
ビー玉みたいな司の目は動揺する俺を捉えて離さない。
自分を天使と言い、俺を神様という少女。あのおばさんの言葉によれば、そして境遇を考えれば、やっぱりこいつが……。
違う。
偶然だってずっと言ってんだろ。
自分を信じてやれよ。
「慎一! って、司さん来てたんだ」
「……来栖聡」
「なんで嫌そうな顔をするのさ」
「嫌いだから」
「一緒に花火まで見に行く仲になったのに、嫌いってないでしょ」
「優ちゃんと坂本が行くから行くだけ。貴方はおまけ」
「ひどい!」
司は考え込む俺を他所に、颯爽と家から出てきた来栖を徹底的に嫌悪する。
俺は彼女が眉間に皴が寄せ、語気を強める姿を野郎以外に見せているところを見ていない。
多分、いじめっ子どもにも同じような対応をすればいじめられなくなると思うぜ。
いや、心の安全が確保されているからこその強気か。
これを措定すれば、司は来栖と少なくとも心を通わせて……。
「坂本、いま失礼なこと考えてたでしょ」
「どうしてわかった?」
「表情を見ればわかるよ。人をちょっと子馬鹿にするような薄ら笑いで」
怪訝そうに、けれども少し悲しそうに彼女はこちらを見つめてくる。
来栖との友好関係が事実であったとしても、相手を不快にさせてしまうようなそれを突きつけることはよろしくない。個々人には個々人なりの世界観とそれに基づく感情がある。それは個人の感性だ。つまり、俺はすべき配慮を無視してしまった。そして、そんな人間は相手に謝意を示さなければならない。
「悪い。配慮が足りてなかった」
「別に謝らなくてもいい」
若干の不満を示す司は、感情的で、簡潔な言葉を紡ぐ。
「あれ、俺のときと対応がだいぶ違いますねえ、司さん」
「うるさい。早く消えろ」
「ひどい」
そして、司は感情豊かに来栖を攻撃した。
悪いことは何もしていないのにもかかわらず拒絶された来栖は、肩をわざとらしくがっくりと落とた。そんな相手を苛立たせるような言動は、ものの見事に司の感情を煽ったらしい。彼女は侮蔑の意を込んだ視線を役者に注ぐと、腕を組み、頬を膨らませ、あからさまな拒絶を示した。
「司さんはなんで俺を嫌うのさ? 初めて会った時は『嘘吐き』だからって言ってたけど、それだけどうしてそんなに嫌うの?」
図太い精神を持っている来栖でも明確な拒絶には堪えたらしく、野郎は涙目で彼女に尋ねた。野郎の目が涙で潤んでいるところを捉えた彼女は、「うっわ」と嫌悪のオノマトペを言うように一瞬だけ小さく口を開けた。
「大人と一緒だから」
そして、来栖の目をジッと見ながら彼女は一言。
「大人と?」
野郎は彼女の発言がしっくり来たのか、口角を上げる。
拒絶されているのにもかかわらず、喜びを覚えている来栖に彼女はドン引きしている。俺も正直引いている。
「ちょっと、なんで変態みたいに見てるのさ。マゾヒズムが性的倒錯とでも!?」
「てめえ、マゾなのは認めるのか?」
「認めないよ。マゾって認めたらサドって認めなきゃならないじゃん」
「その条件が無かったら、てめえはマゾになるぜ?」
乾いた俺の問いかけに来栖は黙る。
「あっ、そうだ。慎一、君に変装用のこれを上げよう」
「あ、話題替えた」
「司さん。気付いても言わないのが礼儀だよ」
来栖は唇に右手の人差し指をあてがって、司に微笑みかける。
マゾとサドの問答があってか、身の危険を感じたんだろう司は顔も青くてして、来栖のアクションにおとなしく従う。
「ヘアゴム?」
「そうそう、慎一の特徴って長髪じゃん。だからさ、後ろで結んでおけばばれないんじゃないかなって」
嫌な特徴だぜ。
嫌なら早く切っちまえよ。
……切れねえから伸ばしてるんだろ?
「慎一?」
「坂本、大丈夫?」
「ああ、ちょっとね……」
おっと、失礼。
ご友人方を不安にさせるなんざ、紳士がなってない証拠だ。
ではでは、ヘアゴムを拝借させていただきますかな。
心配そうに俺を見つめる来栖の手から黒のヘアゴムを受け取って、それを口に咥える。肩まで伸びてる髪を両手でまとめ、後ろに持っていき、ヘアゴムを手に通して、結んで……。
「はいよ。これでどうかしら?」
俺の姿が余程目新しいのか、二人は息を飲んでこちらをジッと見つめている。
やだ、そんなに見つめられると恥ずかしいわ!
「あれ、皆さん来てたんですか……」
あら、優。
白い朝顔の紗の着物に、藤が織り込まれた桜色帯なんておしゃれじゃない。
文句なしに似合ってるぜ。
ただ、どうしてお前さんもまた俺の顔をジッと見つめているんだ?
「顔、良かったんだね」
「知的な感じでいいね!」
二人は俺の顔をまじまじと見つめて、見てくれの賞賛を浴びせてくる。
恥ずかしいから止してほしい。
あと、優。
顔を真っ赤にしてどうしたんだ?
……馬鹿言え、唐変木の無頼漢を演じるのは阿呆だ。
「その、慎一さん、そっちの方が似合ってますよ……」
ゆでだこのように真っ赤になった優は、短い髪を指で弄りながら顔を伏せる。
その賞賛は嬉しい限りだ。
けど、その感情は飛び切りの親不孝だ。今すぐにでも捨てちまったほうが良いぜ。
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