第四十四話
青い新緑と地滑りによって生じた荒々しい褐色に覆われる山肌。
生命、それを奪う災害の痕跡。
背反する二つが混在する自然は、彼の目に新しく映った。そして、N市と越してきたO市を分断するように連なる山々は、あらゆる過去と現在を分断してくれているように彼に思わせた。田んぼと畑に囲まれた新生活もまた彼に幼稚な幻想を与えた。
新生活に抱いたそういった観念は『過去と現在は不連続である』という迷信を彼に与え、彼はその言葉が現実だとして常々自分に言い聞かせていた。
『迎えに来るから。慎ちゃんは待っててね』
彼はずっと待っていた約束の反故を忘れたかった。それゆえに彼の抱いた観念の総合である強烈な迷信は、当時の彼が生きる全てであった。
しかし、迷信は迷信だった。
春の宵。
いまは懐かしい中一の宵。
人相の悪い痩躯の彼は独りで帰宅した。
彼は下校時だけではなく、学校でも一人であった。しかし、彼は寂しさを覚えていなかった。彼は本という失わない友達をN市の頃よりずっと傍らに置いていた。また、彼は新しい家庭が気張らなくてよい空間であることに強烈な安堵を覚えていた。この二つの安定が彼の寂しさをかき消していた。
だが、人の大切にしているものは容易に奪われる。
『お帰り、慎ちゃん……』
彼が家に帰ってくると、彼を引き取ってくれた美貌の女性がいつものように彼を待っていた。毎日毎日、彼女は飽きもせず彼を笑顔で待っていた。
毎日同じ笑顔を見ていれば、毎日それが変わらなければ、人は安堵する。
ただ、変化があったとき安堵は不安を含有するようになる。
実際、彼は普段とは微かに異なる笑みを浮かべる彼女に不安を覚えた。不安は疑いに代わり、彼の疑いは現実となった。
彼はソファに押し倒され、艶やかなその人に裏切られた。
彼は自身の兄の子供と関係を持とうとする女の心情がわからなかった。しかし、理性による理解がなくとも、本能に従う肉体は行為を受容してしまう。ゆえに彼は勃起し、その行為を受け入れてしまった。
彼は泣いた。
そして、その日々は連続するようになり、彼は彼女の……。
「クソが!」
三人称の過去に声を荒げ、目を見開いても暗闇が広がっているだけ。
全部忘れたと思ったのに、どうしていまさら?
生々しい感触と冷や汗が体を不快にさせ、悪夢を見たことが事実であると突きつけてくる。興奮した体を起こすと、掌は湿り気を受け取る。どうやら、冷や汗はシーツまで濡らしてくれたらしい。
「それもこれも、あのババアのせいだ」
そうだ、全部あいつのせいだ。
「……夜かよ」
カーテンを閉め忘れた剥き出しの雨戸は、真っ暗な空を示している。
一体、何時間寝たんだろうか?
いや、何時間でも良いか。夏休みなんだし……。
とりあえず、着替えよう。そんでテーブルの上に置きっぱなしにしたはがきを捨てちまおう。
きっと、あれが俺を呪ってるんだ。
だから俺は悪夢を見て、忘れたはずの現実を思い出したんだ。
そう、だから、早く捨てなければ……。
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