第四十三話
「うえ、あっつ」
恐る恐る扉を半分くらい開けると、夏の陽光が体に降り注ぐ。容赦を知らない夏の日差しは、朝だろうが関係なく猛威を振るっている。窓越しの日差しなんて比じゃないくらい暑いし、眩しい。
あと、お天道様には関係ないけれど、香水の臭いがきつい。
寝不足の体にはいろいろと刺激が強すぎる。
ちきしょう、眩暈がしてきたぜ。
「ふふ、暑いですよね」
扉を半分開けたところで手を止めている小僧に、おばさんは品のある笑みを注ぐ。
しかして、俺を見上げているその顔は不自然だ。どうにも『炎天下の中、待たせやがって』というような本音が表情に漏れている。けれども、おばさんは微笑んでいる。とってもにこやかに微笑んでいる。
少し頭のネジが外れているようだが、大人っていう奴はそれでも来栖と同じ処世術を扱えるのだから凄いもんだ。
なんて、感心するのもいい加減にして。相手が大人の対応をしてくれるんだったら、こちらも大人な対応をして見せよう。
「ええ、連日この暑さで参っちまいますよ。早く秋になって欲しいもんですぜ」
「確かに、今年は雨が少ないですしね」
「これじゃ、川の水も干上がっちまいますよ」
頭に残る印象に引っ張られることなく、俺は無事に笑えているし、処世術も扱えている。証拠におばさんの顔についさっきまであった苛立ちはなくなっている。
流石は俺だ。
ほんのちょっとの動揺なんざ、まったくもって意に介さない。
ひょっとしたら千両役者になれるのかも!
さて、おふざけと冗談はここら辺で撤収だ。自己満足を得るために、俺は応対をしている訳じゃない。目的を忘れるなよ。俺はこの人を追い返したいんだ。まあ、むざむざ扉を開けて顔を突き合わせている時点で、目的は破綻している気がするけど。
でも、立て直せば万事解決さ。
おばさんも本題に早く入りたそうに、薄らと皴の入った手をもんでいる。上っ面の会話なんざ二人とも飽きてるところだし、早く済ませちまおう。
「それで用事っていうのは何でしょうか? このあと、私事が入ってるので長くは付き合えないんですが……」
「ふふ、大丈夫ですよ。すぐに終わりますよ」
右肩に掛けたトートバッグにおばさんは手を突っ込む。紙ががさがさと擦れる音がそこから聞こえてくる。手当たり次第にバッグの中を探っている彼女は、荒っぽい手元に視線を向けず、ジッと俺を見つめている。澱んだこげ茶色の双眸は俺を捉えて離さない。そして、負けず嫌いな俺も臆さず彼女の双眸から目を離さない。
とはいえ、怖いな。
焦点が俺にあっているはずなのに、俺を見ていないというか、俺以前に現実を見ていないというか……。幻想? を生きているように見える。地に足が着いていなくて、夢の中を独りで歩いているみたいだ。
互いに互いを観察し合っていると、彼女はバッグの中から探していた紙切れを取り出した。
「神様を貴方は信じていますか?」
突拍子な発言からかけ離れたこれまで通りの上品な笑みを叔母さんは浮かべている。司の口以外から聞いたことがない単語と、彼女の表情に俺は薄気味悪さを覚えてしまう。
「神様ですか……」
「そうです、神様です。遥か遠い宇宙に存在し、神に選ばれた教祖様に預言を授けてくださった神様です! 知らず知らずのうちに私たちを洗脳する政府の毒電波を教え、世界が球形でないことを教えてくださった偉大なる神様を信じていますか?」
血走った目のおばさんは、嬉々としてとんでも神様理論を俺に唱えてくる。司のよりも素っ頓狂で、錯乱して、取っ散らかった、いつか来栖と一緒に遭遇した新興宗教の陰謀塗れのイカレた理論を。
「神様が天国から送信している聖電波を受信した教祖様は、アメリカ大統領選挙が不正であり、ワクチン接種は政府による5Gの毒電波を国民に受信させるための陰謀であると見抜いてくれました。神様は教祖様を通じて死んだ世界の真実を私たちに教えてくださったんです。しかも、救世主たる教祖様とともに死んだ世界を救済する天使様も、預言通り私たちに遣わせてくださったんですよ。そんな偉大かつ尊い神様を信じますか?」
ありえない預言と、その成就を語るおばさんは恍惚としている。妄言が現実と直結して、幻想が現象としてあるように言っている。
正直に言って馬鹿だ。
ただ、この人の言っている陰謀論まみれの神様を『いるわけがない!』と否定できない。嘘で塗り固められた信憑性が限りなく低い神だとしても、この人は本気で神様を信じているのだから。
「俺はマルクス主義を齧って、唯物史観でものを語る人間です。神様なんざ居ないっていうのが俺の態度ですが、俺の態度を決定している唯物史観は神を否定しうるだけの証拠を完全に獲得していません。ですから、そう、神は信じなければならないですね」
彼女は俺の屁理屈を聞くと、跳ねるように喜ぶ。実年齢に見合っていない感情表現が見ていて痛々しい。
「信じてくれるんですか? 良かったです、周りの人にどれだけ言っても、『そんなのは嘘。目を覚ました方が良い』って妄言を吐くんですもの。目覚めた人たる私たちから遠ざかっていくんです」
「そいつは中々……」
ご近所さん、ご友人、その他の方々、あんたらは正しい判断をしたよ。
狂った信仰を、しかも世間に対して攻撃的な信仰を生活から排除するのは正しいさ。
ただ、どうしてこの人の面倒を見てやらなかった?
気品に満ちたおばさんの頭のネジが飛ぶ前に、誰かが助けてやれたはずだろう? 無知蒙昧を体現する信仰からこの人を遠ざけられたはずだ。そうしておけば、嬉々として自分を『目覚めた人』なんて言わなかったはずだ。カルトの仲間集めに奔走しなかったはずだ。
どうして、あんたらはこの人のために動いてやれなかったんだよ。。
「それじゃあ、私たちと、真明十字教とともに死んだ世界を救いたくなったら、ここに連絡してください」
心の底から歓喜する満面の笑みを浮かべるおばさんは、折れ曲がった一枚のはがきを渡してくる。
はがきの表面は、達筆な筆のフォントで書かれた『真明十字教』のたった一語が印刷されているだけで、あとは余白。その裏側には『死んだ世界を救う! わが教祖と、わが天使と、私たち目覚めた人が!』と恐ろしく大雑把な教義がやっぱり筆のフォントで印刷されていて、下端には教団のホームページのURLと、教団本部の電話番号、住所が小さく示されてる。
意図が曖昧さの極点にあるはがきは、教団に入信させるためのきっかけとは到底なり得ない。こいつは教団から人を遠ざけるだけの代物だ。
「あ、はい。ありがとうございます」
「ふふ、一緒にこの死んだ世界を救いましょうね」
「ははは……」
自然な満面の笑みを見せるおばさんと対照的に、俺は人工的な乾いた笑みを浮かべてしまう。
頬が引きつってるのが自分でもわかる。
「それにしても、うちの天使と同じくらいの歳で目覚めた人がいるとは思っても見なかったですよ。最近の子って、産まれた時から毒電波を当てられていて、真理に気付けないはずなのに。本当に驚きましたよ。ほら、最近の毒電波って強力で、神聖な天使すら洗脳しちゃうですよ。うちの天使なんて教祖様との聖なる約束が決まっているのに、俗世の人間と連絡を取り合ってるんです。まあ、厳しく洗礼してあげましたからもう大丈夫ですけどね。ただ、毒電波は日々強くなっているのは事実です。聡い天使さえ犯してしまうんですから……」
おばさんは無理やり表情を作っている俺を知ってか知らずか、感情豊かに言葉を並べ立てる。
「はあ……」
「でも、安心してください! 私たちの仲間になれば毒電波を防ぐために教祖様が聖別してくださった特別なアイテムがありますから」
「はは、それってアルミホイルの帽子的な……」
冗談のつもりで言ったことに、叔母さんは両手を体の前で合わせて目を丸くして驚く。
「よくわかりましたね。もしかして、天使様ですか?」
相手の突飛な疑問は俺の表情をより引きつらせる。
頬筋が痙攣しそうだ。もう、表情作らない方が良い気がしてきた。
「ははは……」
「ふふふ、大丈夫です。言わなくてもわかってますよ。神様が遣わせてくださった天使様が、お体に宿っていることはよくわかっていますよ」
「さいですか」
「ふふ、それじゃお暇させてもらいます」
俺から処世術が消え、自分が厭わしく思われているとおばさんは悟ったらしい。
いいや、違うか。
えらい上機嫌で、俺を見ちゃいない。
この人は幻想を、自分の世界にのみ存在する真実しか見ていない。
憐れなおばさんはぺこりと一礼すると、身を翻す。そして、バッグから帽子を……。
「あれ、その帽子……」
見覚えのある帽子。
昨日、俺が選んでやった帽子。
司が母親に……。
おばさんは振り返ると、グレーのバケットハットを胸の前で抱えながら微笑む。
「昨日。天使様が私に授けてくださったんです。なんでも神様が選んでくれたとか」
天使。
神様。
天使……。
天津司……。
違う。
司の母親が気狂いの信者なわけがねえ。
司の電波は司が自分で設定した電波だ。
「そいつは良かったですね……」
変な緊張で喉がカラカラに乾く。
想起された仮定なんざ嘘だと決まりきっているのに、何を震える必要があるんだ? あいつの家庭は幸せで満ちているはずだ。父親は頭の良いALTの先生で、母親は思慮深い専業主婦かなんかだろう。
「はい。神様からの贈り物だなんて、身に余りますよ。特にこれなんて神様が特別に授けてくださったんですよ……」
慈愛に満ちたおばさんの視線が認めるのは……。
黒い薔薇のピンバッジ。
デジャブだ。認識の誤りだ。あるいは偶然だ。地球に生命が誕生するんだから、俺が渡したピンバッジと全く同じものを帽子に着けている人だっているだろ。
……俺は何を恐れているんだ?
「あの……」
「なんでしょうか?」
ぶるぶると震える俺の体は言葉を詰まらせる。自分でもわかる異常を持った俺をおばさんは心配そうに見つめてくる。そして、慣れた閉まったせいで忘れていた香水の臭いが鼻腔を刺激する。
春の宵。
肢体と肢体。
穢れた俺。
違う! こいつらは断じて違うぜ。
下らない妄想? を想起していないで、さっさと一言問いかけろ!
「あ、あの……」
「大丈夫ですか!?」
問いかけろ!
問いかけろ!
問いかけろ!
問いかけさせてくれよ、頼むぜ……。
「いや、あの……」
冷や汗が臆病な体を濡らしていく。
普段と違って縮こまった俺が……、いや、真なる俺が単純な問いを封殺する。
『お名前は?』という簡単な疑問符さえ俺は紡げない。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
いまにも倒れそうな俺をいたわるおばさんの手が俺に伸びてくる。
止してくれ、俺は大丈夫なんだ。
止してくれ、お前の手なんか見たくない。
止してくれ、止めてくれ、どっかに行ってくれ、俺を一人にしてくれ、俺を見放してくれ、俺を助けてくれ……。
ちきしょう、駄目だ、いまは駄目だ!
「とかく、俺は問題ありませんから。はい、すみません、ごめんなさい、ここで失礼させてもらいます」
「あっ」
いまにも俺に触れそうだったおばさんの手を跳ねのけて、扉を力一杯閉める。
扉の向こうには現実がある。
おおよそ、俺の想定している疑問の解と相違わない現実が。だからか、毎日目にしている古ぼけた扉は重厚に映る。さながらロダンの地獄の門のように……。
「真実を知った御方に、政府が強烈な毒電波を送信したに違いないわ。だからあんなに取り乱して……。ああ、可哀そうな人。でも、安心して。私たちと一緒に居れば、その痛みも無くなるわ。私も政府の差し金で夫を殺されたけど、いまはすっかり大丈夫ですもの。だから、痛みが治まったら、毒電波が弱まったら私たちのところに来て!」
世迷言を並べ立てるおばさんに、俺はノックを返す。都合の良い自分の世界しか見ていない連中は、それを『合意』として捉える。
「ふふ、それじゃあ待ってるわよ」
おばさんも連中よろしく、俺の意思を勝手に決定した。自分の世界で決定された事柄に満足したおばさんは鼻歌を歌い、錆びた鉄板をカツカツと鳴らしながら帰っていく。
「……今日は駄目だな」
ギラリと光る黒い薔薇のピンバッジ。
カルトのはがき。
独善と無知の象徴たちが俺を苦しめ、吐き気を催させる。
とりあえず休もう……。
壁に手をついて体を支えなきゃ歩けないなんて情けないことこの上ない。
「はあ」
ベッドに横たわると、疲れ切った体は睡眠を強烈に要求してくる。瞼は自然と落ちていくし、意識もぼんやりとしていく。
休む前に、来栖に連絡しねえと……。
スマホに表示される時刻は七時五十分。
来栖に『ちょっと体調が悪くて今日はいけねえ』と一言LINEを送る。野郎は司と違って、すぐに既読をつけて、『了解。ゆっくり休んで』と返信してくれる。
ありがとう。
すまねえな、来栖。
……優にも連絡しねえとだな。三日の花火大会、約束しちまったし、その楽しみを不安で塗りつぶすわけにはいかねえしよ。
働かない頭と指先を動かし、『三日までは絶対に治す』とLINEにメッセージを送る。優もまた兄と同じようにすぐ既読をつけると、世界一有名なアメリカ産のねずみがサムズアップしているスタンプを返してきた。
「……鬼にもなれれば、仏にもなれるか」
頭に思い浮かんだ女性に対する言葉をふと呟く。それから瞼を閉じると、意識は自然と暗がりへと落ちていく……。
ご覧いただきありがとうございます。




