第四十話
厩で生まれたことを誇れるでしょうか、
称えられることを喜べるでしょうか、
谷の底の営みなら全て一緒でしょう?
だから私は全てを忘れるのです。
全身を包む恐怖と寒気。
ぐっしょりと体を濡らす冷や汗。
心は情けなく震える。
暗い目、冷たい言葉、そして柔和な微笑。
背反する感情と表情。
どちらが本音?
『坂本、死んだ世界に神様が居ると思う?』
知らねえよ、ちきしょう。
唯物史観になぞらえて世界を見れば、神なんざ居ねえ。
全ては無の世界で生じたビッグバンが始まりだ。それから宇宙が晴れ渡り、水素やヘリウムが三分間で発生して、そいつらが長い年月をかけて合成されることで俺たちの世界は創られた。そして、世界の根源たるビッグバンは素粒子に満たない小さな宇宙が真空のエネルギーで一瞬にして膨張した結果だ。小さな小さな泡が光の速さ以上の速度で銀河系並みの大きさに膨張するように。
創世記の七日間はそういうインフレーション理論によって自然現象として説明される。なるほど、セム系宗教の世界観の『光あれ』で始まる創世は現象で、超常的な何かとして解釈されるものではない。それは数式で説明できる自然だ。
したがって、神は居ない
形而上的な存在としての神を居ると仮定しても、その存在も近いうちに自然科学に覆されるだろう。もっとも、仮定を仮定で否定するのは、ナンセンスかも知れねえが。それにマルクス、エンゲルスの歴史観を前提とすることもまた……。
「……うるせ」
悶々と考えこむ頭をぶん殴るように、スマホのアラームが耳元で鳴り響く。
あっさりと開く瞼は薄暗い部屋の天井の木目を捉える。
頭にこびりついて離れない司の言葉に苛まれ、一睡もできなかった。
ちきしょう、頭が重いぜ。
そんな頭に不快なアラーム音は良く響く。不快指数はこのアパートで暮らし始めてから一番高い気がする。
……本当にうるせえな。
枕元のスマホを取り上げ、鬱陶しくて仕方がないアラームを切る。そして、寝ていたはずなのにどうしてか疲れている目で見る画面には、七月三十一日、六時十分と表示されている。
早起きしすぎだろ。
来栖家に行くのにもまだ二時間もある。試しに二度寝でもしてみるか。瞼も重いことだし、きっと眠れるはずだ……。
「って、寝れる訳ねえよな」
疲弊していた昨夜でさえ眠れなかった体が、いまになって眠れるわけがない。
未だ疲れのたまっている重たい体を起こし、雨戸のカーテンを開ける。等身大のガラス窓から入ってくる眩い太陽の白い光は、散らかり放題の部屋を満たす。そして、夏の朝日はぼんやりとする頭に、軽度の眩暈と頭痛を引き起こす。
朝は最悪な気分だけれど、今日は特によろしくないね。
家庭教師、飛んでやろうかな?
「冗談さ。俺が契約を破るとでも?」
さて、柄にもないことを考えていないで、いつものように努めて過ごそう。
日常が徐々に変化していても、それが負の方向の変化だとしても、いつものように。
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