第三十九話
薄暗い休憩スペースのベンチに司を座らせ、ベンチ脇の自販機で水を買い、彼女に透明で冷たいボトルを渡す。彼女は水を受け取った瞬間に飲み始め、半分ほど一気に飲むと、ペットボトルから口を離して、冷たい息を吐く。
体の震えが収まり、目の焦点も合うようになった彼女は、隣に座る俺の方を向いてばつが悪そうに笑う。
「司、もう大丈夫か?」
「うん、ありがとう」
俺の興味に基づけば『どうして?』と尋ねるところだか、いまは俺の興味よりも司の安静だ。
「ごめんなさい」
司は俺の方を向いて頭を下げて、震える声で謝る。
理由は彼女が言わなくともわかる。ただ、契約関係に基づいていようがいまいが、当然の行為として、俺の好意が消化されるのは腹立たしい。
報復を食らっても文句は言えねえぜ、司さんや。
とりあえず俺たち以外誰もいないことだし、デコピンでもしておくか。
真っ直ぐと整えられた司の前髪を上げ、白いおでこを露わにさせる。司は困惑しながら目線を上げる。
うふふ、容赦はしないぜ。
「痛っ!」
ぱちんと結構いい音が休憩スペースに響く。
白い額に赤い痕はよく似合うねえ。
赤くなった額を両手で抑える司は、涙目で俺に不平を訴えてくる。しかしながら、小動物の威嚇が全く怖くないように、彼女のそれも全く怖くない。
「ちょいとしたお仕置きさ」
「なんの?」
「自分の胸に手を当てて聴いてみるといいんじゃないでしょうか」
「坂本、ふざけてる」
「『わざ、わざ』とでも言っているが良いさ。いや、やっぱり止めだ。俺は大庭葉造みたいに人間として失格してねえからな」
「変なの」
俺の渾身のおふざけは司を笑わせる。
司にしろ、優にしろ、純粋な笑顔が一番似合う。代わりに辛気臭い顔は全く似合わない。小洒落た表情が似合うのは、俺だけだ。来栖でさえ暗い似合わないから、それは俺の専売特許だ。
「あっ、そうだ。お前さん、ちょっと帽子を出してくれよ」
「帽子?」
きょとんとしながら紙袋からグレーのバケットハットを取り出して、俺の手に帽子を預ける。
無地で華やかさの欠片もないバケットハット。
自分で選んでおいてあれだけど、センスがない。だから、ここにちょいとしたセンスを、あるいはナンセンスを、あるいは俺が帽子を選んでやったんだという証を施してやろう。
胸ポケットに手を突っ込み、恣意的な理解から生じた帽子屋謹製のゴミを取り出す。
「ピンバッジ?」
「帽子選んでるとき、俺を突き飛ばした店員さんから貰ったんだよ。なんでも疑ったお詫びらしい。お詫びを上げるくらいだったら、初めから疑うんじゃねえと俺は思うんですけどねえ……」
さてさて、どこら辺に黒い薔薇をつけようかしら。
まあ、適当でいいか。
帽子をかぶったとき、ちょうど側面から見えるようにして……。
「ほいよ、じゃあこれをお前さんの母親に」
子供っぽさが増したセンスのない帽子を司に渡すと、司はジッと帽子についた黒い薔薇のピンバッジを見つめる。
「なんで黒い薔薇なの?」
「さあ、黒い薔薇がブランドマークなんじゃねえの」
「……私への当てつけ?」
また一人の世界へ入ってしまった司さんは似合わない顔で、帽子をギュッと両手で握りしめ、紙袋にすぐさましまい込んだ。
黒い薔薇……。
薔薇って色ごとに花言葉が違ったか?
「よっし! 帰るか」
関係ないどうでも良いことを頭から吹き飛ばし、勢いそのまま立ち上がる。司は顔を伏せて、ペットボトルと紙袋とを一緒くたに抱きかかえている。
「今日はどうだった天使様? 俺は神様だったか?」
悲しみ、やりきれなさ、虚無。
それにはファルスだ。
俺はファルスを演じながら司に手を差し伸べる。
すると彼女は顔上げて、にっこりと暗がりの中で笑う。
「坂本、死んだ世界に神様が居ると思う?」
「……」
しかし、その笑みに底冷えする恐怖を覚えた俺は閉口してしまう。
……なんなんだよ、本当に。
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