第三十八話
帽子屋を出た俺たちは、寄り道もせずに外へと向かう。思い出したくない事件があったせいで、帽子を選んだだけの俺の体は滅茶苦茶疲れている。
いや、本当に疲れているのは俺じゃなくて、被害者である司だ。いまは嬉しそうに英語ロゴの入った帽子屋の紙袋を抱えているけど、本心ではきっと……。
「何かついてる?」
司は俺を見上げながらきょとんと首をかしげる。彼女の目元にもまだ赤らみが残っている。だが、そのグレーの瞳は透き通っている。表面的な悲しみの残滓は見つけられるが、内面的な悲しみは見受けられない。
考えすぎか。
いまこの瞬間を微笑んでいるんだから、心配する必要なんてねえな。
「いや、ただ、本当に俺が選んだ帽子で良いのかって思ってさ。地味だろ? グレーのバケットハットなんてさ」
「神様が選んでくれたからこれで良いんだよ。お母さん、神様のだったらなんだって喜んでくれる……」
俺の不安をかすめるように、司は一瞬、ほんの一瞬だけ表情を曇らせる。
「……俺が選んでるんだから問題ねえよ」
「うん。問題ない」
自分の感じ得た不安を忘れるように、俺は努めて明るい調子を作る。対して司は心の底から嬉しそうに笑う。
「それにしても母親にプレゼントなんて殊勝なこった」
「うん、お母さんには私のわがままでいつも迷惑をかけてるから」
確かに自分のことを天使と言う中二病が娘ならば、母親は迷惑するだろう。特に家庭でもキャラを保っているとすればなおさらだ。
いや、待てよ。
司って、優とか来栖の前じゃ割と普通だよな。俺を介しているときは、ときどきおかしなところがあるけど、あいつらと居るときは普通からはかけ離れてるけど普通だ。俺に見せる電波と比べれば可愛らしい。
「わがままねえ……」
「うん、わがまま。お母さんとの約束破っちゃってるし」
「あら、現在進行形」
「うん、現在進行形」
どんな約束を破ったのかは分からないが、司が家庭でわがままに振舞っている様子は思い描けない。
「まっ、神様からの連絡を即返さないのもわがままと言えばわがままか……」
「それはお母さんのわがまま」
「母親の?」
「あっ、いや、違う」
動揺して慌てふためく司の目はぐるぐると回っている。そんなふうに慌てて紡ぎ出した否定は、それが嘘であると証明してくれる。
こいつは本当に優しいな。
他校の連中にも広まってるんだから、俺の存在が保護者に伝わってない訳ない。中学生の優ですら俺を知ってたしな。N市の居酒屋で傷害事件を起こしたある会社の男性役員、そいつのケーキを三等分に出来ないタイプの倅。質が悪いことに、ケーキ以外はうわさじゃなくて事実なのが悲しい。そんな悪い噂が絶えない奴と連絡を取っていれば、誰だって怒る。俺が親でも怒る。
「ある意味、人口に膾炙されているのか」
「どういうこと?」
慌ただしい様子を見せていた司は、俺のふとした一言で冷静さを取り戻す。
「自分の境遇についてちょいとね」
「坂本の?」
「そうそう、俺って意外と人気者じゃない。暴力装置としてさ」
「確かに人気者だ」
驚きながら司は俺の印象を肯定する。
親しい人に、悪い印象を肯定されるって意外と悲しい。
「まあ、そういう意味で人気者だからお前さんの母親の怒りを買うってわけだ。母親だったら当然の反応さ」
溜息を吐きながらあまりにも悲しい現状を言うと、司は顔を伏せて、通り道の真ん中で立ち止まる。そして、ぶつぶつと声にならない言葉を呟き続ける。
頭がおかしくなったのか?
いや、頭は元からおかしいか……。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫。私は大丈夫、坂本も大丈夫、お母さんは……」
「何が大丈夫か分からねえけど、人の迷惑になるからちょいと脇に逸れた方が」
「うん、わかってる。大丈夫、大丈夫」
自分で大丈夫って言ってる奴が大丈夫なわけがねえ。というかぶるぶると肩を震わせて、ぶつぶつと呟いている時点でそれは大丈夫じゃねえ。
「おい、おいってば」
「大丈夫……」
あれから感情を我慢していた弊害か?
ちきしょう、こうなるんだったら馬鹿どもを見つけた瞬間に逃げればよかったぜ。
「ちょいと痛むかもしれねえが俺を恨まねえでくれよ」
ひとまず自責は後だ。
初めて、そう、初めて俺は自分から司の手を握る。そして、出来るだけ彼女が痛みを感じないように手を引っ張る。
とりあえず落ち着ける場所、階段脇の休憩スペースにでも行こう。
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