第三十六話
絡まれるとわかった瞬間、司をどこかへ逃がしておけばよかった。そうすれば俺一人の問題で解決できたはずだ。
「ちょっと、司ちゃん。どうしてこいつの背中に隠れてるの?」
「顔を出してよ。私たち友達でしょ?」
いや、目の前で豚のように笑うこいつらは司が俺から離れないと踏んだから近づいてきたのか。じゃなきゃ、暴力装置と巷で話題の俺に近づいてくるはずがねえ。
犬の糞にたかる蠅のように、馬鹿二人は俺の背後で縮こまる司にちょっかいを掛けてくる。俺が口を押えたあの女は、憎たらしく笑っている。公衆の面前だから身の安全が絶対に確保されてるってわけかい。どうやら腐った頭でも悪知恵だけは働くらしいな。
「あんたたちって、付き合ってるの?」
金髪少女は手を口にあてがい俺たちを嘲る。
「いいや、付き合ってなんかねえさ。たまたま会ったんだよ。ほんの偶然さ」
「嘘でしょ、それ。あんたが人とつるむところなんて見たことないよ」
「自分の記憶だけで人を語るのはナンセンスだ。まあ、てめえのちっぽけな頭じゃそれが限界なのかもしれねえですけどね」
少し煽っただけで少女Aは俺の胸倉を掴み上げて睨みつける。彼女に追従するように、残りの馬鹿も俺を睨みつける。
矛先が俺に向いてくれたなら万々歳だ。やっぱり、直情的な奴は扱いやすくてたまらないねえ。
だが、この状況は予想外だ。
お客の注目を集める状況なんていうのはさ。
もしかして、俺は四人の女子をたぶらかしている美少年のように見えてるのか? 俺を美少年と称してくれるのはありがたいが、写真を撮るのはよろしくないぜ。特にそこのマッシュの坊や、可愛らしい彼女が居るんだからそっちにスマホを向けてやりなさい!
冗談はさておき。
これじゃ、何をやっても問題になる。
多分、今度問題を起こしたら妲己様に連絡が入っちまう。
……こいつはあれだな。
我慢だ。
ちょっと堪えるのが一番さ。
「おい、何とか言えよ」
というか、屋上で逃げ出したてめえは凄めるんだよ?
頭に血が上りやすい人間だって知ってるだろ。
お前さん、本当に鳥頭なんだな。
「……」
「てめえ!」
黙りこくる俺にお馬鹿さんは手を振り上げ、一撃食らわせようとする。しかしそれを振り下げる一瞬間前に、彼女は先制攻撃の危険性に気付いたらしい。そんな自分の危機管理だけは把握しているお馬鹿さんは手をゆっくりと下ろす。
やっぱり、うちの高校に入るだけの知恵はあるんだな。
「……ねえ、司」
いや、勘違いか。
こいつの知恵は知恵でも、悪知恵でしかない。
蛆の湧いた頭で善良な考えが生まれるはずがねえ。何より俺はそれを知ってたはずなのに。
馬鹿どもは叶わないと思った標的から、自分たちでも勝てる標的に変える。
「きゃっ」
後ろでちょっかいを掛けていた馬鹿どもは、司の手を乱暴に引っ張り、彼女が掛けていた黒いミニバッグをひったくる。
「おいおい乱暴が過ぎるぜ」
「赤の他人のあんたに言われる筋合いがどうしてあるのさ? あんたみたいな暴力装置と遊ぶくらいだったら、司は私たちと遊んだほうが楽しいに決まってる」
俺の胸倉から手を離した金髪少女Aは、捕まった司に醜悪な笑みを送り、司を捕えている他の二人に同調を促す。茶髪ショートカットの女は周囲から見えないように司の左腕を抓る。もう一人の黒髪ウルフカットの女は司のバッグを肩に掛けて、苦悶の表情を浮かべる司をニマニマと見つめる。
「そうそう」
「私たちと司は友達だもん」
完全にいじめだ。
俺たちを囲むように集まっている人たちもわかっているはず。
だが、誰も声を掛けない。誰もが物珍しそうに見て、物珍しそうにスマホで撮って、珍しさから人と共有する。
誰も司を助けない。
いや、この瞬間さえ過ぎてしまえば、こいつらの行為はインターネットの海に拡散される。それは間接的には助けになるのかもしれない。
けれど、それじゃあ遅すぎる。
「本当に友達だと思ってる奴は、友達を友達って呼称しねえよ」
「ふうん、でもそれってあんたに限った話でしょ? 私たちに勝手に押し付けないでくれる?」
「確かにてめえの言い分も正しいだろうよ。だが、俺の意見は一般的だと思うぜ。『友達である』と相互認証することで、ようやく『友達』という関係性が成り立つなら、そいつは契約関係だ。理論は飛躍するが、ロック、ルソーが示した社会契約説以降に出来た関係が『友達』になっちまう。だが、実際はどうだ? 俺たち人類は十八世紀以前から『友達』の関係性を紡いできた。伝記や物語には信頼によって構築された関係は記されているし、何よりも人類史始まって以来の大名著、新約聖書における各使徒の関係性も『友達』と言える。けれども、てめえの友達論はそれを否定する」
「何言ってんの?」
ぺらぺらと喋り始めた俺に金髪少女は困惑する。
「つまり、お前がいま『あんたに限った話』と言った友達論は恣意的で、信憑性に欠けるってことだ」
「はあ?」
彼女は腕を組んで呆れる。
蛆の湧いた頭でも理解できるように、わざわざ分かりやすく言ってやったのに、分からねえとは冗談にしてほしい。
まあ、来栖も理解できねえだろうけどよ。
「とかく、お前の理屈は破綻してるんだ」
「破綻なんてしてないでしょ。ねえ、司?」
醜悪な笑みで同意を求められる司は首を横に振ろうとする。
けれども、ショートカットが抓る力を強めた結果、暴力によって意見は封殺される。拒絶の意思を吐き出せず、彼女は首を縦に振る。
「ほら、司もこう言っている」
きつい香水の臭いとドヤ顔を振り撒く馬鹿に、体は強張ってしまう。
もう二つ三つ、こいつらが危害を加えたら手が出るかもしれねえ。
我慢しろ、俺。
我慢だ。
女子に手を上げるなんて如何なる理由があってもしちゃいけねえ。
理性を保て。
大丈夫、俺ならいけるさ。
「俺には嫌がってるようにしか見えないぜ。おおよそ、『それはあんたの主観』ってお前は言うだろう。もちろん、こいつは俺の主観だ。ただ考えても見てくれ、人間に主観以外の評価基準があるか? 客観とは相対的な主観の総合に過ぎないだろ? つまり俺が、俺の認知にしたがって『天津司はいじめられている』と認識しているんだから、そいつはいじめであり、脅迫なんだよ。だから、解放してやってくれ」
「嫌だよ。こいつ面白いし」
下品な嘲笑を彼女は司に向ける。すると、ショートカットの女は抓る力を強め、司は痛みに応じてさらに顔をしかめる。
三人衆は痛みに悶える司を見てケラケラと醜く笑う。
「あれ、司ちゃん。イルカのストラップなんてつけてたっけ?」
ウルフカットの彼女は司のミニバッグについているストラップを乱暴に掴む。痛みに悶える司は、その中で一層強烈な絶望の表情を浮かべる。
「良いセンスしてるじゃん」
「私も欲しいなあ」
「良いね、じゃ、もらっちゃお。優しい司ならくれるだろうし」
悲痛な表情を浮かべ、何を言えずにわなわなと肩を震わせる司を笑いながら、金髪の女はストラップをミニバッグから引きちぎる。
ボールチェーンがシャカッと白い床に落ちる。
「……」
どうして俺はこんなにイラついているんだろうか?
どうして俺は人のために怒っているんだろうか?
まあ、どうでも良いや。
「痛っ!」
司を捕えている茶髪の腕を砕くつもりで握りしめる。彼女は痛みで悶えるが、俺の知ったことじゃない。
「ちょっ、やめ、止めてよ……」
折れる寸前、彼女の肌が健康的な肌色から酷く青白くなるまで握りしめる。そして、俺を見て立ちすくんでいるウルフカットから司のバッグを奪う。
「痛い、痛いってば……」
涙をぽろぽろと流して茶髪は痛みを訴える。
知らないねえ。俺の知ったところじゃない。
ああ、早く折れねえかなこの腕。小枝みたいに細いのにどうして骨は簡単に折れねえのかしら。
分かりやすく折れてくれれば、周知してもらえたはずだろう?
周知してもらえたら俺は地獄の中に放り込まれなくて済んだはずだろう?
分かりやすい損傷は、人を啓蒙するはずなんだしよ……。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「坂本! 離せよ!」
耳障りな音が聞こえる。
すごく耳触り。
だけど、耐えられない訳じゃない。こんなのはあいつの怒声、あいつの嬌声に比べればなんてことはない。
問題ないさ。
我慢だ。
我慢。
俺なら我慢できる。
「ちょっとお客様!?」
いってえ。
何が起こった?
……ああ、帽子屋さんの女店員さんが俺を突き飛ばしたのか。だから、硬い床に尻もちをついている。周囲の奴らは俺にスマホを向け、化け物を見るかのような目で見ている。
俺が化け物?
冗談はよしこちゃん。
俺は普通の人間だ。多少、荒いところがあっても俺は人間だ。
「坂本、坂本……」
近くで司が泣いている。
彼女は金髪のクソが落としていったイルカのストラップを、胸に抱きながら涙を流している。
俺が彼女を泣かせた?
あいつらが俺を泣かせたように?
「お客様。大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
「貴方ではありません!」
「おっと」
赤いエプロンをつけた女性店員が心配しているのは、俺ではなく、俺がついさっきまで危害を与えていた茶髪の女の方だった。彼女は地面にペタンと座りながら、左腕の赤らみ帯びた患部を摩っている。
こいつは一本取られたなあ。
してみると、やっぱり叔母に連絡行くか。
会いたくねえなあ……。
「……どうすっかなあ。お縄にかかるつもりは全くないんだけど」
なんだか周りが騒々しい。
聞き馴染みのある声が聞こえる。
……そういえば、泣いているあの茶髪。水族館に行った日、来栖とデートした奴だったな。無事に帰れたら、来栖の野郎に教えてやろ。こいつの醜い本性をさ。
「おら、坊主。寝ぼけてねえで、起きやがれ!」
「いってえ!?」
聞き馴染みのある怒声とともに、頭に拳骨が一発。
脳天がかち割れそうになる痛みの中で、とんでもない上方向の張力が右腕にかかり、体は俺の意思に反して持ち上がっていく。
腕が、腕が痛い、脱臼しそう……。
こっちはナーバスだって言うのに誰だよ、この空気をぶっ壊すのは!?
「てめえ、今度はなにをしでかした?」
空気を壊したのは、丸太のような腕と極厚の胸板を持つおっさんだった。
「おっさん。完全にやくざじゃないすっか」
「いいから状況を説明しろ!」
痛い。
頬をひっぱたかれたら弁明も出来ねえですよ。
大体、丸眼鏡型のサングラスに赤の柄シャツに、短パン、クロックスとか堅気じゃない見た目をしてるあんたの方が悪いんですよ。
ごめん、殴らないで!
手を振り上げるおっさんを前に慌て、俺は急いで状況を説明しようとする。ただ、ぼうっと混乱する頭は言葉を弾き出してくれない。
「えっと、あのですねえ……」
「言葉が出ねえか」
情けないことに興奮で喋れない俺の事情をおっさんはうんうんと頷きながら理解する。つるつるの頭に反射する光は、もしかしたら叡智の光なのかも。
……俺の介助してくれている人に使う表現じゃねえな。
ともかく、状況をおっさんに伝えねえと。
けど、どうやって?
頭の中じゃこうして言葉を並べられるけど、頭の中で連なった言葉を発せない。
「あ、っつ、う」
ああ、ちきしょう。
なんで重要な時に何も言えねえんだ俺は?
いつもいつもそうじゃねえか。
「坊主、いまは深呼吸してろ。俺はそこらに居る奴らから事情を聴いてくるから」
もどかしさに焦り、興奮に言葉を詰まらせる俺の背中をおっさんは摩る。そして、風貌にはとても似あわない優しい言葉を耳元でヤニ臭さとともにかけてくれる。
「おいおい、泣くなよ」
「なぁ、く?」
「てめえ、自分で泣いているのもわからねえのか?」
世迷言を吐くおっさんに俺はけろりと笑う。
人前で俺が泣く?
人前で泣いたら罰が待ってるだろ?
罰?
ちきしょう、論理さえ破綻してきやがる。
ああ、でも、おっさんは現実を言っているらしいな。頬に生温い水滴が伝ってる。小学のときにすっかり枯れたと思ったそれが再び俺から溢れ出してる。
「安心しろよ、坊主。安心しろ。だから、いまは待ってろ」
力の加減を知らないおっさんは、俺の頭を力強くわしゃわしゃと撫でると、俺から離れていった。
涙で滲む視界には、白い床に落ちたボールチェーンのギラギラとした光しか映らない。
ご覧いただきありがとうございます。




